涙の亡骸
篝 麦秋
一
空が目の前を横切っていった。
慣れない山登りの真似事で、ついに幻覚を見たのかと焦った。冷や汗が体温になじむころに気づく。
なんてことはない、目的地に近づいている証だった。
「ああ」上司も気づいたらしい。背負っている細長い布が立ち止まる。「近いな」
幹と落葉した杉の葉しか見ていなかった目は、すっかり色彩感覚を失くしていた。そんな視界に飛び込んできた、この世最大の色と呼んでも過言ではない
この蝶も、私がかつていた場所から、今は私たちが目指している場所へと向かうのだろう。
「なんだ、左遷された日でも思い出したか。それとも自殺したって噂に便乗して元同僚を殺す算段でもしていたか。やめておけ。木の生育に障る、かわいそうだ」
私よりも体力に満ちている男の声に、乱れた呼吸はうかがえない。いったい何を言っているのかこの男は。助手になってはや数か月経つが、考えが読めたことはない。
眉をひそめていると、すっと伸びた男の手がどこかを差す。手根骨で目元をこすり、そちらに顔を向けた。
天藍の空色に翅を染めた涙香蝶が飛んでいた場所よりも、奥。杉の幹に色が同化して見えなかった、藁人形をようやく発見した。すっかり腐って苔むした顔には写真らしき紙が残り、五寸釘が突き刺さって磔にされている。
「私があんなことをする女に思えるとおっしゃる」 「お前と過ごした日々は半年にも及ばないが、よくわかる。藁人形に五寸釘を打ち込む労力を費やすくらいなら、本人の顔に直接ぶちこむタイプだ」
「半年にも及ばない日々で私をよく理解してくださったようで」
「よく知っている。我慢強く理性に秀でた、大変優秀な助手だ」
鼻で笑った私に対して、男は大口を開けて笑った。どこかで鳥が巣から飛び出すほどの声量に、かちんとくる。勢いに任せて前進して、小突いてや
ろうと意気込んだところで反省した。
「密猟者と呼ばれて自殺したと噂を流されて、それでも向こうに戻ってほら見ろ幽霊が帰ってきてやったぞと一発ぶん殴ってくることもしない。お前はじゅうぶん立派だ」
杉の葉でつま先が滑り、顔を地面にうずめる直前の体勢で止まった。
道具がつまっているリュックをつかんで、助けてくれる神の手があったおかげで。
「まあ、密猟は事実ですから」
「採集と密猟の使い分けも出来ないようなら蹴落とすが、今は人手がいる。立て」
足場を整え直すまで手を貸してもらった。そのあとは突き放されたが、蹴落とされることはなかった。密猟の罪を持つ助手でさえ。
念のため、リュックを開いて中身を確認する。検案用の高価な機材も入っているのだ。精製水入りのボトルを一本引き抜いて、中身に異変がないかどうか。木漏れ日に透かしてみた。なんともなさそう、よかった。
飛んでいく涙香蝶を追いかける形で、私たちはようやく目的地に到着した。田んぼのあぜ道を歩き、川のような堀に架けられた木くずまみれの橋を渡り、人工林と自然林の共存目的で作られながらも放置されて久しい山を分け入って、分け入っても分け入っても山を進んでやっとだ。
大型人間が倒れていた。
その目には、無数の蠅が集っている。
「こんなところでひとりきりとはな」
研究室で飼育している
ならばこの蠅たちは、大型人間の亡骸の発生を察知したのだ。そうと決まればのんびりと給餌をしている場合ではない。ふたりで検案のための機材を背負い、一匹の半肉蠅に追跡タグをつけて飛ばす。おおよその方角をつかんで行脚に励んでいると、タグ付きも含めて飼育室から飛び出していった蠅はみんな道中で息絶えていた。
半という字がつくものの、大型人間を主食とする半肉蠅は通常の蠅とはけた違いの大きさに成長する。飼育室に紛れ込んで飼っている猫と大差がない。半肉蠅は大型野生動物の死骸を餌にするあいだは、胃の内容物を半分以上は見たさず、かといって半分以下にはしない。ここから半肉蠅の名前がつけられた。絶妙な加減で己の生命を維持しながら、大型人間の亡骸が発生する時を待ちわびている。それを感知すれば、己の寿命も省みず、餌も水も睡眠もとらないまま一目散に翅を動かす。そこで子孫を残すために、亡骸まで飛び続ける。もしくは、命が尽きるまで。
「さて、検案だ」
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