10-3 蝉の声が実に五月蠅かった

 暗がりの中で目が覚めた。


 覚めたくて覚めた訳では無い。

 キリキリと全身をさいなむ痛みのせいで目覚めざるを得なかったからだ。

 そして体中は元より何より、この手酷い頭痛は到底我慢が為らなかった。


 目を開けても真っ暗で、本当に自分は目覚めているのかどうかすら判らなかった。

 ひょっとして目を覚ましたという夢の中で、痛みに足掻き藻掻いているのではないかと不安になって、声にならない声で呻き声を上げるのだ。


 不意に、目覚めたかね、と声が在って起きたと応えた。


 頭が痛くて叶わない、と呻くと「なる程」と言われた。


「F剤を七ミリグラム追加。点滴のT液はそのままで静脈注射にて投与。心電図に注意」


 何だかよく判らない言葉が聞こえて来たが、点滴だの薬だのという単語から、ひょっとして此処は病院ではないかと思った。


 とすると、自分は怪我か何かで治療を受けている最中なのだろうか。

 真っ暗で周囲が見えないのは、目元を覆われているせいなのだろうか。

 そう言えば首を動かすとヤケに頭が動かしにくい。

 何かを被せられているような感覚があった。


 わたしはどうなったの。


「どうなったと思う?」


 冗談はやめて。


「冗談などではない。これはきみの意識がどれ程まで戻って来ているのか確認しているだけだよ。だから質問には答えて欲しい」


 ここは病院ですか。


「その通り」


 わたしは怪我をしているのですか。治療を受けているのですか。


「その通り。自分の名前を言えるかね」


 勿論・・・・あ、あれ、おかしい。わたしは誰だ。おかしい、おかしい、思い出せない。


「きみは蟹江國子だよ」


 誰よソレは。聞いた事もない。


「蟹江國子だ。きみの名前だ」


 本当なの。


「本当だよ。きみは一旦眠りにつき、そして目覚めた。

 寝起きだからきっと最悪の気分だと思う。と同時に色々なことも忘れてしまってもいる。

 しかし安心なさい。我々が協力しよう。きみが必要なことを思い出せるように力を尽くすと約束する」


 本当に?


「本当だ」


 その後、周囲から様々な専門用語が聞こえて来て、心肺停止だの再起動成功だの危険域突入だの物騒な単語が入り交じっていた。

 手酷い頭痛は幾分和らいだが、何度も感電したようなショックが全身を走って悲鳴を上げた。


 本当にコレは治療なのか?


 ただの拷問ではないのか?


 わたしは本当にどうしてしまったのか。


 これからどうなってしまうのか。


 どうしようもない不安にもみくちゃにされながら、痛みよりも猛烈な眠気が襲ってきた。

 そのままあらがう間も無く、否応なしに暗い闇の中にわたし自身が堕ちていった。


 そしてその最中に「淵からの生還おめでとう」と労(ねぎら)う声が聞こえたような気がした。




「いまをもってしても最悪の目覚めだと思って居ます」


「そう」


 軽く合いの手を入れながら、キコカは照り焼きステーキの最後の一切れを口に運んだ。

 やたらソースの味ばかりが濃くて特に美味しいとは思えなかった。

 だが全国チェーンのレストランのお薦めなんてこんなものだ。


 対面に座る蟹江國子は上品な手つきでチキンピラフとミニシチューのセットを口に運んでいる。

 自分もそちらにすれば良かったと思った。


 あたしはいったい何をやっているのだろう。


 いつものように在り来たりな女子高校生を演じ、いつものように高校に潜り込んで、いつものように潜伏しているヒト喰らいをいつものように狩り出している。


 そんないつもの現場へ「見学をしたい」などと彼女から申し込まれた。


 どういうコトなのかと上司に問えば、気に入られただけだろう、と投げやりな返答があってそのまま通話が切れた。

 相変わらず無責任な上司だと歯噛みした。


 夜までは少し時間が在るから宿泊している部屋で待機してくれ、と言ったら「もうじきお昼ですし食事でもしませんか」と誘われた。

 そして、今こうしてここに至るという訳だ。


「あたしはトレーニングプログラムには登録されて居ないのだけれども」


「すいません。やはりご迷惑でしたか」


「許可したうちの上司が無頓着スカなダケだから気にする必要は無いわ。ただ、どうしてあたしなのかと思って居るだけよ」


「わたしは新参の未熟者で様々なものが足りません。邑﨑さんのような熟練の方の仕事ぶりを、どうしても一目見ておきたかった。見て学んで自分の糧にしたい、ただその一心でこうしてお願いしたのです」


「だから、あたしでなくても良いでしょう」


「あの、失礼ですが邑﨑さんが駆除者と成った経緯、その資料に目を通させていただきました。それで、その、何処かわたしに似ているな、と」


「あなたは臓物を喰われたダケでしょう。腹部以外はほぼ五体満足だった。木っ端微塵になった挙げ句、怪しい老人の手でモザイク仕立てに再生したあたしとでは似ても似つかないわ」


「妹さんを復活させたかったのですよね。わたしにも年の離れた妹が居ましたから、その、気持ちは判るんです」


「高校一年生だったっけ?設定だけならあたしと同じね」


「わたしはあの時、あの子を助けようとして結局助けられませんでした。身代わりになろうとしたのに出来なかった。あの子が貪り喰われる様を目の当たりにしながら、足が地面に釘付けになって動かなかった」


 チキンピラフの皿をスプーンでガチガチと突きながら、蟹江國子は言葉を続けた。

 掻き回し過ぎて、皿の中身がテーブルの上にまき散らされ始めたが、それでも彼女の手は止まらなかった。


「情けない。長年剣道で鍛錬を積んで、強くなったつもりだった。そのつもりだったのに、肝心要の時に動けなかった」


「もういいのよ、終わった事だわ」


「助けよう、駆け寄って何とかしようと頭じゃ判っているのに、気持ちは急いているのに身体が震えて動かなかった。

 あの子を何とかしたかった。

 アレの口から引き剥がして逃がしてやりたかった。

 なのに、なんで、なんで、なんでわたしはあの時に!」


「もういい、もういいのよ」


 彼女の握ったスプーンが握力に負けてくの字に曲がっていた。

 掻き回す皿を凝視する眼差しが徐々に血走り、剣呑な感情が傍目にも露わになっていった。


「だって、だって、あの子が、あの子が助けてと何度も叫んでいたのに。

 悲鳴をあげて必死になって、あの子はわたしに助けを求めていたのに。

 痛い痛いと叫んでいたのに。

 あの子が、あの子があんなに、お姉ちゃん助けてと、何度もわたしに。

 何度も、何度も、何度も。

 なのにわたしはタダ呆然として突っ立っていただけで、わたしは、わたしは、わたしは、わたしは・・・・」


「自分を責めるのは止しなさい。

 たとい親しいものだろうと、貪り喰われる様を目の当たりにして真っ当至極に動ける筈もない。

 仲間が餌食になっている間に逃げ出すことが出来ればむしろ僥倖ぎょうこう

 ましてや助けようとするなんて、普通出来るものじゃないわ」


「でも、わたしは!」


 テーブルから上げた顔には、物腰低い何処か気弱な大人の風情が消え失せていた。

 眼差しは確かに血走っていて、ほのかな狂気の気配が在った。


「蟹江國子、済んだことにエキサイトしてどうするの。こんな人目のある場所で感情ぶちまけるほど子供でもないのでしょう」


 そう言って水の入ったコップを目の前に突き付ければ、彼女は虚を突かれた面持ちで険が失せ、唐突に昂った一瞬前と同じく、やはり唐突に普段の顔へと戻ってゆくのだ。


「す、すいません。取り乱しました」


「まぁ、あたしを選んだ理由は少し分かったわ」


 彼女は突き出されたコップを受け取ると、それを一息に飲み干した。天井を仰ぐ白い喉がやけに艶めかしかった。


 ヤレヤレ。


 安全弁が焼き付いたボイラーみたいなものだ。

 高温高圧のモノが封じ込められたままで、いつ釜の蓋が吹き飛ぶか判ったもんじゃない。

 それともこうやって誰かがなだめあやしつつ運用する、それが常となるのではなかろうな。


 そしてよもや、よもやまさか、あたしにそのお鉢が回ってくるなんてことは・・・・


 冗談じゃない。


 軽く頭を振って不穏な予感をもみ消しながら、照り焼きステーキとセットになっていたトマトサラダに手を着けるのだ。


 食事を終え、二人連れ立って店を出れば外の気温はやたらと高かった。

 歩道に落ちた自分達の影が異様に濃くて、照り返しの激しさに辟易へきえきした。

 夜になったとしても恐らくさして下がりはすまい。


 今夜は長くなりそうだ。


 街路樹にしがみついた蝉の鳴き声がやたらと耳について実に五月蠅かった。

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