幸せになれと言われても

小狸

短編

 *


「もうちょっと幸せな物語を読みたいな、私は」

 

 と。


 そんなことを言われてかなり長い時間が経過したけれど、その言葉はいまだ私の心の奥底にささくれのように残っている。


 誰から言われた言葉だったかは覚えていない。


 多分、私の小説を読んでくれた誰かだろうと思う。


 私は趣味で小説を書いて、ネット上に発表している。


 ジャンルは、所謂陰鬱な私小説である。


 流行の要素など何もない、世の中を斜どころか横から構えたような、不幸側からの視点。

 

 登場人物は皆どこか不幸な要素を抱えていて、現実に対して諦観的な要素を持っている。


 現実を、諦めている。


 多分、私に対してそう言った人は、私の小説のそんな部分を汲み取って発言したのだろう。


 確かに――その言葉は正しい。


 誰だって読書体験で不快になりたいとは思うまい(勿論、そういうものを好む人がいることを承知の上での発言である)。


 せっかく時間を割いて、読了した文字列が不愉快不快に終わったとなったら、不満の声があがるのも至極当然というものだろう。


 現実、現実、現実、と言って、普段毎日見慣れている理不尽と不条理を押し付けて来る小説なんて、誰が読みたいだろう。


 そんな風に思いながら書いている。


 誰もこんな物語読まない。


 自己評価は、元々底辺を這いずり回っている。


 そう思いながら、小説を書いている。


 いや――所詮これは、相手からの批評や非難を恐れているが故に、初めから高評価を諦めているというだけなのだろう。


 登場人物より、作中舞台より、誰よりも私が、自分の人生を諦めているのだ。


 だから、こういう物語ができあがる。


 一つだけ。


 一つだけこの言葉に、反論させていただけるとするのなら。


 私には、その皆の言う「幸せ」というものが、全くもって理解できないのである。


 友人知人に恵まれたと思える瞬間はあった。


 交際相手がいたこともあった。


 人の幸せを見て、嫉妬という程ではないけれど、「良いなあ」と思ったこともあった。


 学校の試験で学年1位を取り、身近な人に褒められたこともあった。


 しかし。


 それらはそれらの事柄として私の人生にぷかぷかと浮遊するだけで。


 それらの事柄を経て、幸せを体感したことは、一度としてないのである。


 「私自身が幸せになる」という一点は、私の人生の思考回路から完全に欠落しているのである。


 極端な自己犠牲、当たり前のような自己破滅、分かりやすい被責任転嫁の集合。


 そんな人生を歩んできた。


 幸せとは何だ?


 と、端を発すれば、今の時代ならば宗教勧誘か何かと勘違いされるだろう。


 それくらい、自分が幸せである状態というのは、当たり前のことなのである。


 「幸せ」がなろうと思ってなるものではないことは、今の世で「普通」に生きる人々にとっては、重々承知の上のことだろう。


 当たり前。


 皆が持っていて、皆が持つことが許されている。

 

 そして。


 そんな当たり前のことすら分からない私は。


 きっと一生、幸せになることはないのだろうと。


 私は思ってしまう。


 そんな欠落を埋めるために。


 今日も私は、小説を書く。




(「幸せになれと言われても」――了)

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