その28 百眼の背負いもの
(28)
――ほんなら、りょーちん。次は週末の劇団の練習で会おうね。それ迄に脚本仕上げとくから。
ロダンはその言葉を残すと卍楼を去って行った。
百眼は擦り傷の包帯のままロダンを交差点で見送ったが、今日という日の名残りが痛ましい程、肉体に残っている。だが、それだけではない。
あの停電後、燕はどこへ消えたのか。
それとロダンが自分に言った事。
――この件、もうあと少しで解けんねん
(自分には正直、卍楼の事件はさっぱり分からない)
…で、アル。
何故なら自分は今日始めてロダンの勧めでこの卍楼側で店を出したからであり、事件自体には自分と言う『百眼』は関与が無く、関与したのは百眼を演じた『ロダン』であって自分は何の事か知らないのである。
ただ、ロダンには言われた。
何故、こんなに来客が多い卍楼に店を今迄出さなかったのかと。
――そりゃ…ここは地元やし。商店街を行く知り合いに易者姿の自分を見られたくはないやんか。
百眼の見られたくないという理由の背景に『西願寺』という背負いものがある。
自家を誇張するわけではないが、年末になればお堂には少なくとも百人以上の檀家が集まり、その膳の片付けだけでも途方もない程で、西願寺と言えばこの辺りでは古くは室町の頃からの大きな宗派寺院だ。
元々は富山に根を張る宗派だったが、家伝に寄れば門跡とも宗派法主の隠し子とも言われた嬰児をこの地に連れ、寺院を立てたという。
往時は石山本願寺の北にあることから、一時は北の御堂とも言われ、戦国時代の信長との石山合戦期には城塞化もした。
故に西願寺には歴々とした多くの檀家が居て、現在も寺に寄進を寄せており、そうした彼らの子孫が現在もこの界隈に多数居る。
付け加えるならばその西願寺の家宰一切を取り仕切っていたのが下間家で、両家は創建以来、
ではそんな由緒ある西願寺の跡継ぎである自分は今、どうしてこんな包帯姿で交差点に立っているというのか…。
宗派系の大学を卒業した自分はやがてその西願寺を継ぐことになるというのはお約束だった。しかし大学時代に自分は、――演劇にモロにはまってしまった。人を演じるといういい意味でのこの非日常の厄介事のスパイスが、自分を魅了して捉えて離さなかったのだ。
大学は卒業した。しかし、家業は継ぐことなく、自分は演劇の道へ進んだ。そして偶々劇団募集をしていた彼、――ロダンが所属する『シャボン玉爆弾』と言う劇団に入って、現在がある。
当然だが、実家からの手当てはない。無いのであれば後は稼がなければならない。それならば…と考えたのが、『
人生の
そう思うと百眼は少しだけ忸怩たる思いがある。
ロダンのような一途に演劇に情熱をささげている人物とは違い、自分はどこか履いている雪駄をいつでも脱いでサラリーマンの革靴を履くという、謂わば人生の履物のように『演劇』を捉えている訳で、その分をロダンの情熱から差し引いた目分量分、自分と言う存在を『卑下』している。
その卑下分が自分への罰として、今、包帯の傷となって肉体に疼いているとも言えなくはない。
ロダンは去り際に自分に言った。
――ほんなら、りょーちん。次は週末の劇団の練習で会おうね。
だが…、百眼は唇をかむ。
次の練習は自分自身の最後の演劇への練習だ。ロダンには未だ言ってはいないが、自分はもう、――ここ迄だと決めている。そう、最後と言うのは演劇を去るという事だ。
其処に至る迄には、いくつかのきっかけがあるがその中で自分がこうした引き際を決めた一番のきっかけは、自分の祖母が認知を患い、その為に現実を捉える認知力が衰えはじめたという事だ。
自分自身の祖母への思いは深い。
祖母は混迷する戦後の昭和期の中、空襲で焼け残った西願寺を懸命に支えた。また焼けた西願寺の一部を闇市にして市民生活を助けるだけでなく、自分が知るだけの昔話でも、多くの困った人を援助し、助けたことを自分は聞いている。
だがそんな祖母も寄るべき年波には敵わない。現在は日々の多くをベッドで過ごし、そして認知機能の低下と共に生きている。
百眼が決心したきっかけ。
それは自分の祖母の認知能力がまだ残っている内に、自分が西願寺を継ぐ姿を祖母へ見せる事だった。
それが開闢以来長い歴史を持った西願寺を支えた祖母への孝行であり、またこれからも連綿と続いて行かせるのだという安心を与えたいという――そんな優しさが、自分を決心させた。
(だけど優しさかもしれないが、一方では仲間への裏切りでもあるよな…)
百眼は信号の前で佇む。佇むと溜息を吐く。
(そんな裏切り者が悪いことに彼へ変な事を重ねてお願いしてしまった…)
それは、どういうことなのか?
百眼は顎を撫でた。
実はそんな祖母が数か月前からある変な事を突然言い出したのだ。
その事を聞いた家族も、勿論、百眼にも意味が分からない。分からないが、祖母はその事を言うとき、決まってじっと何かを見つめている。
それは過去の何かであろうと何とはなしに分かってるのだが、全く自分には、いや、西願寺の誰もが分からない。
そんな分からない疑問の中で、真っ先に百眼が思い浮かんだのは、同じ劇団の仲間、ロダンの事だった。
聞けば、彼は以前、いくつかの事件に関与して自分の考えで事件の本筋と事件の結末を見立たことがあり、実際、その経験でいくつかの劇の脚本を書いた。
これは文学的に稀有の才能と天運の持ち主であると言える。
だから…、
(ひょっとしたら…彼なら何か探ってくれるかもしれない)
そんな期待で祖母の認知力が衰える前にこの事を解決したくて、彼、――ロダンに無理にお願いをしたのだけれど、彼はどうやら別の事に巻き込まれてしまい…、ちょっと悪かったなと言う自責の念が、こうして今夜の彼の探偵助手に繋がったのだけど、実際は挙句の果てに自分は怪我をして包帯姿で帰路となった。
面前で大都会の信号が点滅する。
百眼は雪駄を鳴らして、夜を行き交う人の中、交差点を渡った。
そして渡りながらもう少しで解決しそうだと言った彼が巻き込まれた事件を思いつつ、自分がお願いしたことは今どうなっているのだろうと思った。
(しかし…、まぁ、いいか。自分も今夜は劇団をやめる事をコバやんに言わへんかったし。話すのも聞くのは、全部纏めて週末で)
雪駄を鳴らして残党の中を歩く百眼。
そんな百眼の背にのしかかるのは西願寺と言う歴史だけだろうか。
彼は気づかない。
行き交う雑踏の中から自分の背に向けられたそんな歴史を覗き見るような極めて美しい視線がある事を。
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