その26 ロダンの狂乱
(26)
停電の復旧で店へ戻る客と入れ替わるように引き戸を閉めたロダンは、店を振り返ることなく、背を丸めて肩を揺らし、さも大きなマッチ棒が揺れるように路地を歩いている。
その背後を百眼が雪駄を鳴らし歩いていたが、その彼の耳にロダンの声が聞こえて来た。
「まぁ、ざっと五十メートルそこそこかな、この提灯横丁の路地は」
どうやら彼は路地の距離を確かめているようだ。それがどういう意味を持つというのか、百眼はロダンへ問いかけた。
「あのさ、コバやん。それさ、どういう意味?」
――コバやん?
百眼はロダンをコバやんと呼んだ。どういう事だろう?
呼ばれたロダンが立ち止まる。それから首を撫でてパチンと叩く。
「りょーちん。あのさ、急に全力で走ったら百メートルと五十だと一番力が足に入って、勢いがゴールで出るとしたら、どちら?」
――りょーちん?
どういうことだ…
二人はごく自然に知り合いのように互いを呼んでいる。なんだというのか。
問いかけられた百眼は首を傾げたが、何の捻りもなく正直に答えた。
「そりゃ、五十かな。だって百だと僕は息切れしてへとへとになってる。そんな急に百は走り切れないかも」
「そうだよね。なぁ陸上の短距離とかして鍛えて無けりゃね、普通は」
ロダンは首に遣った手で髪を掻いた。その彼の側に寄るようにして百眼が小さくヒソヒソ言う。
「…でもさ、コバやん。知らない素振りを演じるのはいくら役者の僕でも、ここが限界やで。何か知らないけどさ、同じ劇団のよしみで僕がウチの祖母ちゃんのことを君に話したばっかりに色々調べて貰うことになったけど。その所為で君が卍楼の事故に巻き込まれたと聞いて…なんか悪く感じたからさ、今日はちょっと探偵助手みたいな真似事を手伝ったんや…、でも、なぁ、もう、ええやろ?ここら辺で」
ロダンは側に寄る百眼へ言う。
「はは、いやいやアッシはどうも何かしつこい性格の様でさぁ。一度気になるとすっぽんのように離れられない性格で」
言ってから彼は歩き出す。だが、彼はそこでとても不思議な事を呟き出した。
「…人間の染色体、それはXYの二種類。女性はXX、男はXY、それが恋して生殖し、それで人間を造る。
でも、現代は、…いや、本当は人間そのものが昔からそんな単純な公式では無く人間である以上様々な恋の形態を行えるんだ。それはXY―XY,XX―XX同士だけでなく、与えられた染色体上の肉体を手術で交換したり、道徳上歪かもしれないけど禁忌ともいえる領域へも踏み込める。そんな色んな形を人間は『恋』と言う形態で有することが出来る。これは
呼ばれてりょーちん、いや――百眼がロダンを見た。サングラスを掛けたロダンが自分を見て言った。
「この件、もうあと少しで解けんねん」
「えっ!?」
百眼が驚いた声を出した時だった。ロダンが自分の背後を見たと思うや、急にわなわなと震え出した。それから急に手を頬に当て、まるで絵画のムンクの叫びのように顎を開いて口を開けると、数歩、後ずさる。
ロダンが何かにはっきりと怯えているのが百眼に分かった。
「お、おい!」
声を出して彼の名を呼ぼうとした時、彼は急に走り出した。
まるで錯乱した人の足取りで。
「待て!!ロダン!!」
百眼が後を追う。
前方を行くロダンは何かしらの錯乱声をあげている。
それを聞いて通りを歩く人が彼へ振り返る。
百眼は雪駄を鳴らして突如豹変した彼を懸命に追った。前方を行くロダンの背は提灯の灯りと闇とが交じり、まるで蝶の羽の模様の如く百眼には見えた。
正に突如狂乱して走る彼は人間ではなく…そう、それは
(バタフライ!?)
百眼がそう叫びたくなった時だった。
提灯横丁の出入り口でロダンは、夜へ向かって――跳躍した。
まるで夜蝶が羽を羽ばたかせて空へと舞い上がるように。
(――おい!!ロダン!)
手を伸ばして追いつこうとした百眼は地面を踏んだ雪駄に力を籠めた。
その瞬間だった。
彼は――ずるりと股間から足を大きく広げた。
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