その10 ロダン、現る

(10)




 卍楼の朝は清廉だ。

 夜になれば欲望混じる喧騒を恋人の如く卍楼は抱き寄せるくせに、早朝の清々しさというものを、まるで見も知らぬ他人の如く卍楼はその肌にすら触れようとしない。

 だからかもだが、その空気感が卍楼全体に肌触りとして現れ、――卍楼の朝は清廉という表現になってしまうのだろう。


 しかしその卍楼も触れぬ清廉という肌に手を触れて歩き回っている者が居る。見れば歩いては電柱で止まって、手に抱えたチラシをペタペタと貼っている。

 顔にサングラス。それは、唯、夏の朝陽が眩しいので掛けているのか、それとも誰かに見られたくないのか、だがどちらかというと後者の雰囲気が状況的に見ても、漂ってなくもない。

 一体、早朝の誰もいない卍楼でコイツは何をしているというのか。そんな卍楼の疑問が聞こえそうになった時、コイツは誰かの声に振り返った。


「コバやん、あとどれくらい貼る?」

 その声は呼び止められたコイツから少し離れた所で同じように電柱に貼っている長身の帽子を被った男が言った。

 呼び止められて振り返るコイツ、――こちらも中々の長身だが、彼は首をにゅっと伸ばすと、その声主に言った。

「そやね、僕はもう少しこの奥の提灯横丁の方へチラシがなくなるまで貼ってくから、りょーやんはクリニックのところに貼ってくれへん?」

 ほーい、そんな相方の声が聞こえたのか、コバやんと呼ばれたコイツはもじゃもじゃ縮れ毛のアフロヘアを掻くと、すたすたと歩き出して、再び電柱のとこで止まり、刷毛を使って糊を塗ると、ぺたりとチラシを貼った。

 そしてそれを手で丁寧に伸ばす。

 後は貼った後、今までしていたようににんまりと笑った。

(よしよし、チラシは上出来。これなら今回の公演は大盛況かも)

 何やらを思い浮かべてえへん顔になる。

 そしてまた奥へ歩き出す。

 彼が歩き出した先は提灯がぶら下がっている狭隘路地、通称『提灯横丁』。早朝の横丁は鄙びた路地だ。灯されない提灯が青空の下でふらふら揺れている。

 するとコイツ、――いや、コバやんは立ち止まり、やや腰を下ろして下からふらふら動く提灯を眺めた。青空の下で揺れ動く提灯、風鈴とは違うが、それもどこか風情を感じさせる。

(悪くないな。こんなんも劇団のセットに使えるかも)

 思うとスマホを手に取り写真を撮った。

 パチリと一枚。

 スマホを仕舞うと彼は路面を見た。小さな小石を混ぜた路面だ。どこか京都の清水下の通りに似てもなくはない。指先で彼は路地に触れると指を擦り合わせて質感を感じた後、再びスマホを取り出し写真を撮った。

 そして感慨深げに頷く。

(提灯と路面…なるほどなぁ)

 何が成程なのだろうか、しかし彼は立ち上がるとスタスタ歩いて電柱に最後の一枚を貼った。

 丁度、スマホが鳴った。

 コバやんは手に取ると電話に出た。

「コバやん、こっち終わったで」

 コバやんが答える。

「うん、こっちも終わり」

「ほなら、喫茶店さてんでもいこか」

 コバやんが髪の毛を掻いてすまなさそうに言った。

「りょーやん、ごめん。僕、このまま今日は帰るわ。夕方バイトもあるし、それに昼過ぎは図書館の非常勤の面接やから」

「そっか、ほんなら。今日はこれで」

「うん、ほんなら。また」

 通話が切れるとコバやんは刷毛をバッグに仕舞い、歩き出した。しかし、不意に止まると最後の一枚を貼ったチラシのところに戻り、バッグから油性マジックを取り出した。

(まぁ、一枚ぐらいええやろ)

 何が、良いのだろうか。彼は取り出したマジックでチラシに何かを書き込んだ。

「よし」

 言い終わると彼はバッグにマジックを仕舞い、去って行った。


――そして彼が去った後である。


 今までどこにいたのか、猫が一匹、屋根から路地へ飛び降りて来た。そして注意深く、そろりそろりと歩いて、彼が最後に何かを書き込んだところでピタリと止まった。

 猫は顔をチラシに向けた。

 つぶらな猫瞳が見つめる先には、大きな丸が一つ。


 その丸が囲んでいたのは…、

『劇脚本――四天王寺ロダン』という名前だった。












 



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