その9 去り際
(9)
卍楼は救急隊員、警察官が狭い路地を行きかう事故現場になった。ただでさえ狭い路地は人だかりの為に人が歩くのも困難になり、その隙間を抜いて歩くには猫にでもならないといけない、そんな表現が相応しい混雑模様だった。
唯、事故現場――、通称『提灯横丁』という卍楼の大動脈たる路地から細い静脈の如く伸びている狭隘路だけは、立ち入り禁止のテープが張られ立ち入りができなくなっており、そこで提灯の灯りの下、警察官が浅野に対して事故に関する質問をしていた。
百眼と燕の二人はそんな浅野の様子を少し離れた所で見ていたが、百眼は何とは無しに視線を外して、サングラスを越しに警察官とのやり取りを見ている燕を横目に、自分が此処に駆けこんだ時を思い起こし始めた。
(駆けこんだのは…、丁度卍楼の出入り口でサラリーマンの男を見送った後だった)
その時、灯りの点いた卍楼の中からけたたましい喧騒の声が聞こえた。まるで何か惨劇でも見たような狂騒声。
その声を聞いたのと同時に百眼は足袋姿で走り出していた。草履ではこの路地を急ぎ走れぬ――、脳内シナプスが告げるまでもない。反射的に走り出していた。走りながら再び停電が起きた。
(停電――)
突如、再び闇夜と化した卍楼。走りながら路地へと先程の喧騒ともいえる狂騒声に驚き出て来た何人もの人とぶつかりながら、百眼は駆けてゆく。路地の図面は頭に叩き込んできた。それは自然と訓練して出来ている。商売柄と言えるかもしれない。占い事の吉兆は、風水とも関連している。それを忘れずして、有名な盛り場で仕事は出来ない。
「人や、人が倒れてる。提灯横丁のとこや」
揺れ動く人影と闇の中で聞こえる声で、自分が何処へ向かうか分かった。そして人だかりを縫いながら向かって着いたと思った瞬間、急に人だかりが消えて、長躰ごと前につんのめった。
(あかん、コケる!!)
その瞬間、足を踏ん張ったが、何か小さい礫の様な硬い物を踏んだのか、足裏に激しい痛みを感じて、足が体を支えきれず、どうと倒れてしまった。
そして電灯が点き、自分は醜態を周囲に晒してしまったのだ。
――悶絶して血を流す伊達の側で。
百眼は頬を指で軽く掻いた。
(情けない…)
思うと足裏がまだ痛んだ。
その情けなさを撫でるように熱い熱風が吹く。
スマホを見れば時刻は夜の十時を過ぎている。
百眼にとって今夜はひどく長い夜になっていた。その長い夜の始まりを告げたのは、誰あろう、横に立つ美しい男だ。そしてその男は浅野の背をちらりと見て、先程迄伊達が悶絶して横倒れになっていた場所へサングラス越しに視線を送ると、自嘲気味に言った。
「やっぱ――、凶やったな」
その声にスマホを仕舞った百眼が振り返る。燕の眼はサングラス越しで見えない。どのような眼差しをそこに居た魂魄へ向けているのか。
百眼は言った。
「…しょ、しょう言えば、…燕さん、僕におっしゃいましたよね?確かに、そう。そして…」
言ってから唾を飲み込む百眼。
「――忘れとったらいいものを掘り下げに、わざわざ此処にやって来たんやとか?それは、どういう…」
意味だ、と言わせない内に燕が鋭く百眼の思惑を言葉で切る。
「忘れろ、それは戯言や、唯の」
「戯言?」
燕が顔を百眼へ向ける。サングラスのレンズに百眼の顔が伸びて映る。
「せや、戯言や。意味なんて何もない。それだけや」
「しかし…」
そこで燕が百眼へ舌をべろりと出す。
「あんまり突っ込むと閻魔に舌切られるで、百眼はん」
言うなり、燕はそこで手を上げて背向けると、その場を足早に去った。その去り際にちらりと浅野を見たのを百眼は蟠りが消えぬ思いで見た。
百眼は一人、そこで懐に仕舞った草履を取り出した。急いでこの卍楼の路地を駆ける為に足袋姿になったのだ。
その時、懐から何かが落ちた。それは小さな塊。腰を屈めてそれを拾い上げようとして、僅かだが路面が濡れているのに気付いた。路地はアスファルトのところもあれば、少し風情を出すために小石を混ぜて造っているところもある。この提灯横丁は後者だ。
百眼は拾い上げながら思った。
(――快晴の夜だというのに)
指で摘まんだ物をじろりと見る。
それは小さな石――、いや、陶磁器に見えた。
(なんや、これ…)
「終わったわ」
突如、声を掛けれて百眼は振り返り、反射的にその拾い上げたものを作務衣の懐に仕舞った。
見ればそこに徒労感に包まれている浅野が居た。百眼が彼に声を掛ける。
「…あ、終わりましたか。お疲れさまでしゅ」
軽く手を振る。
「いや、ええねん」
言うなり浅野は襟首を緩める。熱気に身体が蒸れているのだろう。僅かに風を取り込むと、息を吐いた。溜息交じりの浅野へ百眼はつらい心情を察するように問いかける。
「何か、聞かれたんですか?」
「いや、特別なことは」
そこで浅野は百眼へ目を向けた。
「占ってもろうたほうが良かったかな」
詫びるように浅野が言ったが、彼は不思議な言葉を漏らした。
「やっぱ、こんな事になるんなら」
百眼はドキリとして沸き上がる疑問に符牒を合わせて声を出そうとしたが、思わず言葉を詰まらせてしまった。
「え、え…や、やっぱ?」
浅野は目を見開き、それが失言だったのかとも言わんばかりに手を手早く振ると百眼へ「忘れてくれ、忘れてくれ」とまるで念仏のように何度も呟き、伊達が倒れていた場所へ屈みこんで手を合わせると、もう彼は何事もいうことなく、足早に卍楼を去っていった。
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