第25話 誕生祭.5


 意識の片隅で自分の身体が宙に浮くのを感じた。地面に足がつかない感覚とどこに連れて行かれるのか分からないことに恐怖が走る。

 これはまずいと必死で手足を動かそうとしても、泥の中でもがいているようで上手くいかない。

 

「た…す」


 助けて、離して。

 そう叫びたいのに、出てくるのはモゴモゴとしたうめき声。


 ――そして次第に波の音が遠のき、やがて完全に意識が途絶えてしまった。


 

 ちゃぷちゃぷと波の音がやけに近くに聞こえる。

 身体がふわりふわりと揺れる妙な感覚に重たい瞼をこじ開けると、満面の星空が目に入った。


 ここはどこ?

 状況が分からないまま身体を起こそうとすれば、地面が激しくぐらりと揺れる。


「きゃっ」


 転ばないように手をつくと、冷たい木の感触がした。

 もう一度、今度は慎重に身体を起こす。

 そこで私はやっと自分がどこにいるのか分かった。


「海?」


 最後に見た海は橙色と黄色を混ぜたような輝く色をしていたのに、今は漆黒の中に波の音がするだけ。


 いったい何が起きたのか分からないけれど、この状況がまずいのは理解できた。

 ルージェックは夜に大引潮になると言っていたから、何もしないでいたら私は大海原に流されてしまう。そんなことになったら二度と戻れないし、命だってどうなることか。


「オールはどこ?」


 さめざめとした月明かりのおかげで船底は見えた。でも、どこにもオールらしきものはない。唯一あったのは端に転がっていた古びたカンテラと燐寸。


 せめて灯をつけようと燐寸を擦ったけれど、湿気っているせいか、それとも私の手が震えているからか上手くいかない。

 三本目にしてやっとついた儚い火が潮風で消されないよう手で覆い、カンテラの中にある蝋燭に火を移し、ひびの入ったガラスを慎重に閉じる。

 燐寸は無くさないようにポケットに入れておいた。


 カンテラを目の高さにして岸を見れば、露店の灯が点々と豆粒のようにある。


「すでに随分流されているわ」


 満ち潮に変わったとしても戻れる確証はない。

 何とかしなくてはと考えるけれど、かがされた薬の匂いが鼻の奥にまだ残っていて、靄がかかったように頭がぼんやりとする。


「誰か! 助けて!!」


 膝立ちになって声をあげるも、岸まで聞こえるとは思えない。

 それでも、もしかして誰か気づいてくれるかもと叫んでいるうちに声が掠れてきてしまった。

 もうだめかも。

 やだ、こんなところで死にたくない。


 やりたいことや行きたいところもいっぱいあるし、仕事だってもっとできるようになりたい。

 それから。


「ルージェック」


 彼が友人として私を助けてくれているのは分かっている。

 でも、さっき気が付いた私の思いは本物だ。

 この気持ちを、もっと胸で温めたい。ドキドキやギュッと胸が締め付けられるような初めての感覚、それを大事にしたい。


「……リー……ン」


 風が波音以外を運んできた。

 どこから? 

 カンテラをもっと高く上げ「助けて!」と叫べば、それに答えるように波の上で灯が左右に振れる。


 それが一度下がり、やがて月明かりの下オールを漕ぐ姿が現れた。オールを漕ぐためにカンテラは一度船底に置いたようだ。

 私は自分の位置が分かるようにと、カンテラを掲げたまま声を振り絞る。


「こっちです!」

「大丈夫か? リリーアン」

「ルージェック?」


 聞き慣れた低音に全身の力が抜けるように感じた。ちょっと涙ぐみそうになったけれど、今は泣いている場合ではないと唇を引き締める。


 やがてお互いの顔が見えるところまでくると、ルージェックは一度オールを手放し、立ち上がった。


「どこも怪我をしていないか?」

「ええ。でも自分がどうしてここにいるか分からないの。突然鼻と口を押さえられて……」

「それなら犯人は分かっている。手元にオールはあるか?」


 ぶんぶんと首を振って答えれば、ルージェックは再び座り小船をこちらに近づけようとする。でもこの辺りは潮の流れが複雑らしく上手く横付けできない。

 犯人が分かっているという言葉が気になるけれど、とにかく今はこの状況をなんとかしないと。


「これ以上は近づけないようだ。俺がそっちに行く。先にオールを投げるから受け取ってくれ」

「分かった」


 ルージェックの乗る小船の方に両腕を伸ばせば「いくよ」の言葉と一緒にオールが投げられた。それを両手で抱えるように受け止め船底に置く。もう一つも同じようにした。


 ルージェックは脱いだコートを丸めて私に投げると、シャツ一枚になる。

 どうするのかと見ていると、なんの戸惑いもなく真っ黒な冬の海に飛びこんだ。


「ルージェック!」


 驚いて小船の淵に手を置き身を乗り出すと、ぐらりと揺れて慌てて船底にしゃがみ込む。

 湾と沖の境目のここは、波が高い。

 カンテラで海を照らせば、黒い波を縫うようにしてルージェックがこちらに向かって真っすぐに泳いできていた。


「こっちよ」


 オールを手にしてそれを海面に突き出し、パンパン海水を叩く。

 こんなことしかできない自分がもどかしい。


 ルージェックの手がオールに掛かり、重みがずしっと腕にかかった。

 握る手にぐっと力を込めオールを手繰り寄せる。


「ルージェック」


 涙声の私にルージェックは海の中から微笑んだ。

 紫色の唇からは白い息が漏れ、オールに捕まる手も震えていた。


「大丈夫だ」

「すぐに引き寄せるわ」


 さらにオールを握る手に力を込めた。

 あと数センチというところまでくると、ルージェックはオールから手を離し小船の縁を掴んで身体を持ち上げる。


 大きくグラグラと揺れ、転覆するのではと不安がよぎるも、すぐにそれを打ち消すかのように逞しい腕に抱きしめられた。


「良かった! 本当に良かった」

「ルージェック、助けにきてくれてありがとう。どうなるか、不安で、不安で……」


 抱きしめられた安堵から、声が涙交じりになる。

 ずぶ濡れの身体に腕を回し、見た目よりずっと逞しい体躯にしがみついた。

 するとルージェックもさっきより強い力で私を抱きしめ返してくれる。


 その身体が小刻みに震えていた。

 私の耳元で何度も「良かった」と繰り返すその声から、どれだけ心配してくれたのかが伝わってきた。


「……ルージェック」


 心配をかけてごめんねと言おうとしたけれど、私の声にハッとしたようにルージェックは手を離した。

 月明かりでも分かるぐらい耳が赤く、しまったと眉を下げている。


「すまない。断りもなく抱きしめてしまった」

「ううん。……平気」


 つられるように私の頬も赤くなってしまう。

 本当は嬉しかったと言いたいのだけれど、それはどうかと言葉を変えた。

 ちょっと気まずく小船の上で視線を逸らしていた私達だけれど、まだ危機は去ったわけではない。


「今から岸に戻るの?」

「いや、この潮の流れに逆らってあそこまで漕ぐのは無理だ。とりあえず小島を目指そうと思う」


 海岸から見た小島は随分遠くにあったように思うけれど、どうやらそのあたりまで流されてしまったようだ。

 岸の灯から方向を確認し、小島がある方へ船先を向けると、ルージェックはオールを漕ぎ始めた。

 幸い月明かりのおかげで、小島のシルエットがすぐに波間に見えてきた。


 私は手渡されていたルージェックのコートを肩に掛けてあげると、自分のマフラーを取りそれも首に巻いてあげようと手を伸ばす。


「俺は大丈夫だから、リリーアンが使っていて」

「冬の海でびしょ濡れになって寒くないはずないわ。私なら大丈夫だから」


 むしろこれぐらいさせて欲しい。


 十五分もすると小島がはっきりと見えてきた。

 ルージェックの肩からも少し力が抜けたように思える。


 でも、「あと少しよ」と私が声をかようとしたとき、船底でガガッと鈍い音がした。

 チッと初めて聞くルージェックの舌打ちに、何があったか察する。


「もしかして、船底が何かにぶつかった?」

「ああ、岩だと思う。潮が引いて水面が下がっているせいだろう。水が入ってきていないかカンテラで確認してくれ」


 月明かりがあるとはいえ、小さな亀裂までは見えない。

 カンテラの灯を頼りに、手でも触りながら浸水していないか探っていると、指先に嫌な冷たさを感じた。


 海水だ。

 流れてくる海水に逆らうようにして入り込んできた場所を探せば、十センチほどの亀裂が入っている。


「船底にヒビが入っているわ」

「何か塞ぐものはあるか?」

「この布、使えるかも」


 目覚めたときに身体にかけられていた黒い布。何でこんなものがここにあるのか分からないけれど、それを細長く引き裂き割れ目に差し込む。


 それだけでは隙間から海水が入ってくるので、髪留めを外しピンで生地を裂け目に詰め込むようにすると、随分と入ってくる水の量が減った。


「これでどうかしら」

「ああ、上出来だ。あの島ぐらいならなんとかなるだろう」


 浸水してくる海水の量は少なくなったとはいえ、まだ布の隙間から漏れ入ってくる。

 それを手で掬い海へ捨てていく。必死で繰り返していると、今度はざざっと砂をする音が聞こえ小船がぐらりと揺れた。


「リリーアンついたよ。一度船を下りよう」


 船底ばかり見ていたから気が付かなかった。

 顔を上げた私の目の前にあるのは水平線ではなく、生い茂った緑の木々。


 森のようなそれを目にした途端に全身から力が抜け、私はへなへなと船底に座り込んだ。 

 陸地がこんなにほっとするなんて、思いもしなかった。


「そうか、足を怪我していたんだったな」

「えっ? あぁ、靴擦れのこと。たいしたこと……きゃっ」


 ルージェックは徐に私を抱き上げると、そのまま船の縁に足をかける。まさか。


「ちゃんと捕まっていろよ」

「ちょっと待って。まさかこのまま……」


 最後まで言うことなく、私の身体は宙に浮いた。

 ヒャッと声をあげながらルージェックの首にしがみつくも、それは僅かな間。

 すぐにルージェックの足が海水に入る音がして、そのまま波に逆らうようにして岸へと進む。

 もう降ろしてと頼んだけれど、海水が傷に染みるからと聞き届けてはくれない。


「でも、私、重たいわ!」

「いいや、羽のように軽いよ」

「そんなはずない!」

「こういうときは噓でもそう言うと決まっているんだよ。波に足をとられて不安定だから、ちゃんと捕まっていて」


 嘘なんだ……。

 ルージェックが私を見てクツクツと笑う。その声につられるよう、私も笑ってしまった。


「酷い。嘘ならつきとおしてよ」

「あっ、ちょっとその言葉、胸にくるな」


 うっとわざとらしく眉根を寄せるルージェックはふざけているようにも思うけれど、目が真剣に見えた。


「どうしたの?」

「帰ったら話したいことがあるんだ。聞いてくれるか」

「もちろんよ」

「できれば怒らないで欲しい」

「私が怒るような内容なの?」

「そうならないことを祈っている」


 一体なんのことだろうと考えているうちに、木の下まできた。

 ルージェックは私を少し生えている草の上に降ろすと、自分は砂の上にどさっと座る。

 そして「陸地がこんなにほっとするなんて」と私がさっき思ったことと同じ言葉を口にした。

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