【一話完結】しょくざい
ふつうのひと
君へ向けて
───ゆっくりと咀嚼し、込み上げる吐き気を我慢して飲み込む。
───体が、脳が受け入れようとしない"食べ物"を、ゆっくりと、ゆっくりと時間をかけて腹の底に染み込ませる。
───それが、僕から彼女への愛だと信じて。
※※※※※※※※※※
2024年、9月9日。今日は世間で言う、秋分の日と言うやつだ。だが、我が家ではこの秋分の日は、少し違う。
長年掃除をしてこなかったせいで、錆と黒汚れが目立つ古い台所。蛇口を捻り、ペア用のマグカップの1つに温い水道水を満杯になるまで入れる。
机の上には、いつになく豪華な料理がいくつも、無造作に並んでおり、とても2人では食べきれないほど大量の料理があった。その様子は、僕達の1年越しの晩餐を濃く重く、色付けていた。
『ん〜!やっぱり、好きな物だけをずっと見れるの、幸せだなぁ』
上からいくらを申し訳程度に乗せた鮭の炊き込みご飯、サツマイモと里芋を一緒くたに煮込んだ我が家特製のお雑煮、奮発して少し高価な物を使った焼き松茸、少し焦げた焼き塩鯖、デザートには十数個のおはぎ。
『「いただきます!」』
僕は、乾いた音を部屋に響かせ、合掌をして食事に対する挨拶をする。勿論、食材への1年分の感謝を込めて。
『んー!松茸美味しぃよ!ほら、君も!』
まずは食卓のど真ん中に置いた、「俺から食べろ」と言わんばかりの存在感を放っている松茸から。
減塩醤油をいくらか垂らし、少し噛みごたえのある肉部を、顎に力を入れて噛みちぎる。
去年よりも美味しいな。醤油要らなかったかもな。
今年の松茸は、去年買ってきた松茸よりも少しばかり味が付いている。何年も前から通っている八百屋の店主が、自慢げな顔をしていた理由がここで回収され、僕は口元を綻ばせる。
ふと、正面のガラスの引き戸の方を見ると、昼の太陽の眩しい明かりが食卓を照らしていて、まるで太陽光が料理を豪華に飾っているようだ。
引き戸越しに我が家の庭を見ると、手入れをしていないせいで雑草が生い茂り、庭一面に見える緑と太陽の光の組み合わせが、こんなにも綺麗なんだな、と僕は思わず感動して目を見張らせた。
....僕、じゃなくて俺、だな。
今日という一日だけは、一人称を【俺】に変えると決めているのだが、何時まで経ってもなかなか慣れない。
『君は俺って言うより、僕のイメージかも。ほら、童顔だし!』
昔に戻りたいから、一人称を俺に変える。
──あの頃に、戻りたい。
毎年毎年、この日が来る度にそう思う。この気持ちは果たしてどうにかならないものだろうか。いい加減、過去とは決別したいのだけれど。
「...こんな事毎年してる時点で、忘れる事なんか出来ないわな」
心の中で、こんな自分を嘲笑し、まるで塩水を追加で垂らした様に、塩っけの増した松茸を一気に口の中に入れる。
机の端に追いやられているお高い箱ティッシュから、ティッシュを数枚取り出し、全て丸めて机の上に点々と落ちた水を、ティッシュで乱暴に拭き取る。
『鯖の塩、ちょっと多くない?.....ん、これご飯に合う〜!!』
あの頃と全く変わらない塩の量で、あの頃と全く変わらない焦げ感で、最早我が家の伝統的料理となったこの焦げ鯖に手を出そうと、俺は箸を鯖に近付ける。
鯖の十分に焼けた皮が割れる音を楽しみながら、ホクホクと湯気が立ち上る様子を見て、更に食欲が掻き立てられる。
多めの油によって光を反射している鯖の身を箸で一掴み取り、鮭の炊き込みご飯の上に乗せる。
ピンク色の王様である鮭身と赤い宝石のいくらを乗せた焦げ目の着いているご飯。そこに白い宝石である鯖を中心に置けば、
『「すっごい贅沢海鮮丼」』
何とも豪華な海鮮丼の完成だ。
ちなみに、この海鮮丼の命名は彼女である。決して俺ではない。
『ふっふっふ〜、これで私も永遠に若者の体なのだ〜』
おはぎに塗りたくられている小豆には、不老長寿の意味合いがあるらしい。
長寿なんて意味を持っていないのは身をもって知っている。だが、不老に関してはその通りなのかもしれない。彼女は、今もずっと変わらず、学生時代の可愛さと無邪気さを持っている。それを考えると、不老は本当なのかもしれない。
「....意味、ねぇんだよ...!」
そんな悪戯、俺からお断りだ。そもそも、片方の意味を成していない時点で、嘘吐きも清々しい。
俺は端から、こんな迷信なんて信じていなかった。
『そう言うけどさ、何でも疑うより、何でも信じる方がずーっと楽しいよ?』
俺は、彼女の言葉を掻き消すように、食卓からゴミ箱へ捨てるように、炊き込みご飯を一気に掻き込む。ご飯を飲み込もうとした瞬間に蒸せて、思いっきり咳き込んでしまう。
『あっははは!そんなにこのおはぎ美味しいの〜?可愛いねぇ』
もういい。俺は、椅子を引き、机にぶつからないように立ち上がって食卓から逃げるように抜け出す。彼女には申し訳ないが、このままこの場にいたら、俺はまた彼女の前でみっともない姿を晒していたかもしれない。
『──ごめんね、こんな日に。ケーキ、買ってくるね』
彼女の声が、後ろから聞こえ、鼓膜を震わせた。結婚指輪を付けている彼女は、落ち込んだ様子でそう言い残し、夜闇へと消えていった。
「....ごめん、優」
篠原 優。
彼女の、俺の妻の名前だ。
※※※※※※※※※※
「──申し訳ございません!」
僕が働いている会社の、一応部長として働いている僕の仕事場にて。
僕の8歳も下の女性部下が、僕のデスクの前で腰を折って頭を下げる。
彼女は、慣れないパソコン作業で資料ミスをし、多少の被害を会社に出した。被害と言っても、まだ余裕で立ち直せる程度の軽微なミスだ。
「気にしないで。とりあえず、先方に謝罪はしといたから」
僕がそう言うと、彼女は腰を上げて小さな顔を出し、呆然とした表情を見せる。その顔には、少しばかり汗模様が見えている。何度も言うが、立ち直せる程の軽微なミスである。
「えっ、あ、申し訳、ございません?」
衝撃と申し訳なさで、彼女は途端に口調がたじたじになる。
「そんなに謝らないで。やっちゃった事は仕方ないから、そこは割り切ろう」
僕は話を終わらせようと手を挙げ、彼女からパソコンの方に身体を向ける。だが、彼女は一向に動こうとせず、いつまで経っても僕のデスクの前に立っている。
「あの、きょ、今日....お時間はありますか」
僕が彼女の怪訝な目を向けると、彼女は意を決したように、朧気な口調で、だが強気なハッキリとした口調で、僕に真っ直ぐな視線を向けていた。
※※※※※※※※※※
社内オフィスの窓から差し込む夕陽の明かり。それだけを頼りに、電気は消されているこの仕事場で、僕は先程の女性と向かい合うようにして立っている。
薄暗いオフィスの中で、互いにあまり顔が見えない状態だが、彼女は僕から目を逸らし、顔を夕陽にも負けず、紅く火照らせているのが分かる。
「──つ、付き合ってください!」
大体の予想は着いていた。僕は、左手の薬指にはめられている少しサイズの大きい指輪を見つめ、それから彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。
「ごめん」
そう、一言だけ告げた。
きっと、この女性は仕事の頑張りすぎで頭がどうにかなってる。じゃなければ、普通は婚約者に付き合って、など言わないだろう。
僕は、彼女が言葉を発する前に、部屋の扉の方向まで足を進める。一刻も早く、ここを去らなければ、僕は優に怒られてしまうだろう。
「....奥さんの、事ですか」
彼女は、僕の背中に向けてそう言い放った。僕は、その場に溶け込んでしまうようなその言葉を、その言葉だけは、決して聞き逃さなかった。
「...そうだけど」
僕が足を止めて、彼女の方へ睨むように視線を向けると、彼女は怯えも怯みもせず、僕に向けて戯言を口から吐き出す。
「い、いつまで奥さんに縋ってるんですか。割り切れてないのは、部長ですよね」
食卓上では、吐き出しはあってはならないマナー違反だ。
「....ッ!!何が、悪いんだよ」
「奥さんは、部長に幸せになって欲しいと、思ってると思いますよ」
悪口も、全部マナー違反だ。それが、僕には許せなかった。とてもじゃないが、僕には食卓を乱す奴も包容することは出来ない。
「お前に、何が分かんだよ。知った口で語るなよ」
僕は、精一杯の悪い感情を込めて、彼女に反論する。彼女は、両拳を握りしめ、悪に立ち向かうような表情で、僕の前に立ちはだかる。彼女が、悪なのに。
「いい加減、過去は過去として割り切ってください。そんなに、未来が怖いんですか」
そういう訳じゃない。ただ、あの頃をずっと続けたいだけだ。あの頃を、永久に老けさせず、永久に死なせず、ずっと僕の心の中に忘れないように仕舞っておきたかった。
「俺は.....」
「奥さんは、もう死んだんです。失くした命は、二度と戻らない。それをどうか、分かってくれませんか」
※※※※※※※※※※
長年、あの頃を再現する為に掃除を放棄し、黒ずんだ台所。冷蔵庫もあの頃のままの物を使って、もう寿命が来そうだ。
食卓にいくつも並べていた豪華な料理は、全て優、君が美味しいと言って頬を緩めていた料理だ。
全部全部、僕の記憶の中だけに残しておきたかった。風化させず、僕が生きている限り、ずっと。
──全て、あの日の思い出を不老長寿にする為に。
飲み込んでしまった物は、吐いても吐いても、決して元の形には戻らない。
きっと、いつまでも残すことも出来ないだろう。世界は都合の悪いようにできている。いくらあの頃を再現したって、記憶の風化は止められない。
──過去と決別する為の食材。そんなものは存在しない。そう思いたくなかった。
──過去を永久不滅にする食材。そんなものは存在しないと、断言された。
──過去にみっともなく縋る食材。それは自分自身だと、見せつけられた。
※※※※※※※※※※
2015年、9月9日。
萩原優、萩原葉両名の結婚記念日。
同日、萩原優 没年日。
「だって、仕方ないだろ!?社長と飲みに行くのも仕事の範疇だ!」
俺は、優に向けて必死に説明するように、両手を使って何とか優に弁明しようと声を荒らげる。
優は、椅子に座ったまま、俯いて酷く落ち込んでいる様子だ。
確かに、結婚記念日を放棄して社長と飲みに行ったのは悪いが、そこまで落ち込むだろうか。俺は正直、マナーや礼儀というものに対して抵抗感があった。
マナーを正しく守って節度を持って相手と接する。この行為が、俺には自己顕示欲が生み出したただのエゴとしか思えなかった。
「だから俺は、お前に愛想を尽かしたとかじゃなくて──」
「優って、呼んでくれないんだね」
優は、視線を落としたまま、小さな身体で俺に大きなダメージを与えた。違う。これも俺の言い間違いで、弁明の余地はある。まだ、終わらせるもんか。
「優、頼むから、離婚とか考えないでくれ」
今思えば、この時の俺の発言は大きな間違いだったと思う。
俺の言葉を聞き終わったあと、優はテーブルを強く叩きつけ、椅子を勢いよく引いて立ち上がる。あのマナーに厳しかった優が、こんな事をした。俺には、その衝撃で優に言葉を掛けられなかった。
ほんの少しの過ちで、優との決別が決まってしまうようで。
「...ごめんね、こんな日に。ケーキ、買ってくるね」
優は扉の前で足を止め、俺に謝る。
違う。謝るべきなのは、俺だ。発言を誤った俺が全部悪いんだ。小さなミスすらも、結婚記念日であるこの日には、大きな大きなミスに思えた。
時刻は22時を回っている。こんな真夜中に、ケーキ屋なんて開いているわけが無い。
「優、ごめん。1人の時間が欲しいんだよな?ゆっくり過ごしてきてくれ」
優に、俺なりの最大限の優しさを込めたつもりだった。でもこれが、俺の大きな大きなミスだった。
外から車のエンジン音が聴こえ、段々と車の走行音は遠のいていく。
俺は、心を締め付けるような嫌な気分と、漠然と感じる不安を喉の奥に閉じこもうと、蛇口を捻って水を出す。ペア用のマグカップの片方に水を入れ、それを一気に飲み干す。
だが、何杯水を飲んでも、この違和感と不安は、いつまで経っても消え去ってはくれない。ずっと、口の中で、焦げついた鯖の皮よりも苦い味を広げている。
ふと、台所の棚から音がする。炊飯が完了し、炊飯器が発する音だ。
※※※※※※※※※※
僕は、炊飯器のボタンを押し、蓋を開ける。勿論、中身は空だ。当たり前だ、ついさっき、"すっごい贅沢海鮮丼"を1人で全て食したのだから。
そういえば、良く考えるとあの海鮮丼の工程は間違っていた。先程食べた海鮮丼は、見映えを考えて鮭の炊き込みご飯の上に"後から"乗せていたのだが、本来ならばいくら諸共ご飯と鮭をごちゃ混ぜにしてから食卓に出すのだ。
面倒症の優が、結婚記念日の日に頑張って作った、"初めて"の料理だ。
いくらが何個か潰れていて、その汁が少し味の薄い炊き込みご飯にかかって丁度よい味になっているのだ。それを伝えたら、優は得意げに胸を張っていた気がする。
「はは、どうだったっけなぁ、忘れちゃったなぁ」
僕は、情けない声を出して空の炊飯器を見つめる。先程あの女性部下に言われた事。それが、どうしても頭から離れない。
『未来が怖いんですか』
その言葉が、俺の喉を締め付けて放さない。
『失くした命は、二度と戻らない』
その言葉が、俺のエゴで作られたマナーをぐちゃぐちゃに引き裂く。
マナーを壊した癖に、決して俺に罪を吐き出させてはくれない。
──過去を振り返る度に、贖罪は増していくばかりだ。
──過去に許しを乞うのは、決して逃がしてはくれない贖罪が怖いからだ。
──過去に許される為に用意された贖罪。それが未来だと、教えられた。
ずっと空の炊飯器を見ているのも飽き、僕は誰も座っていない食卓へと重い足取りで向かう。
僕は、今は空席となってしまった、優のいつも座っていたお気に入りの席に座る。
「優.....」
今まで、優との思い出を傷付けるように思えて座ってこなかった優のお気に入りの席。
優は何故か、この席が良いんだ、と言って聞かなかった。そして、優とご飯を食べる時はいつも、この席で、頬を赤らめて微笑んでいた。
その理由が、分かった気がする。
『ん〜!やっぱり、好きな物だけをずっと見れるの、幸せだなぁ』
優の席から前を向いても、木製のシンプルな壁しか見えない貧相な景色だ。
優は、そんなシンプルな景色──背景が良かったんだろう。食事中に、1人の人物をずっと見る為の、そんなシンプルな背景が。
ボロボロ、ボロボロと、頬を伝って涙が点々と落ちる。
ボロボロ、ボロボロと、心は黒ずみ、記憶は錆びて風化していく。
もう、君の声すら思い出すのは難しくなってきた。
長く記憶に残すつもりだったが、まだ10年も経っていないじゃないか。
「....君に、会いたい」
もう一度だけ。そう言わなかったのは、また何回も君を見たいがための、僕の図々しさ故だ。
君と食事を出来なかった僕は、贖罪を受けるしかない。そういう運命なのだ。
「部下に怒られちゃったな...」
本当に、あの部下は僕の為を思って言ってくれていたのだろうか。聞こえはいいが、ただの八つ当たりのようにも思える。
本当に僕は、未来へ進んでも良いのだろうか。
『何でも疑うより、何でも信じる方がずーっと楽しいよ?』
だがそれでも、僕は彼女と君の言葉を信じて、僕の図々しさをもって過去と決別する。贅沢な結論かもしれない。でも、
『「味は濃いめが丁度いい!」』
せいぜい、ご飯に合うぐらいの贅沢な盛りの方が僕は好きだ。
過去に残してきた君へ向けて。
──あの時の贖罪として、豪華な料理を君に。
【一話完結】しょくざい ふつうのひと @futsuunohito0203
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