ヒーロー、猫になる
「にゃ、にゃにゃ」
(まさか本当に猫になれるなんて……)
普段よりずっと低い視線。四つん這いで歩くことへの抵抗はあるが、構造上二本足でスタスタと歩けないし、そんな猫がいたら怖い。
一匹の茶トラは時折通行人に頭を撫でられながら、喉を擽られながら、あるマンションに侵入していた。
鶴見の発明品の一つは猫になる薬という不思議なものだった。普通なら信じられないが、あの鶴見だ。フレイムを変身させたのも、ブルーに力を与えたのも、鶴見だった。そんな鶴見の発明ならもしかしたらと思ってしまった。だが、こうして実際に自分の姿かたちが変わるまでは半信半疑ではあった。
薬とは別に渡された発明品で鍵をあけ、見知らぬ部屋に入る。正義の味方がこんな犯罪に手を染めて大丈夫なのだろうか。それに正義側の博士がこんなものを作ってるってどうなんだろう。青は深く考えるのをやめた。
「にゃう……」
(まあ、やるしかないか)
青が猫になってまで不法侵入しているのは、分厚い小包の中に書かれていた住所だ。佐藤怜央の住処、と書かれていた。
もちろんそれが真っ赤な嘘といことも有り得るのだけど、青には他に情報が無かった。あのおぞましい手紙以上に佐藤怜央のことはわからない。
わざわざ敵地に乗り込んですることは、一つ。
佐藤怜央の情報を掴むことだ。
怜央のことで知っていることは見た目と名前と、青を好きだと主張しているということくらい。その好きさえもどこまでが本心なのかはわからない。からかっているだけという線もまだ捨て切れない。
追われる側だから余裕をなくし相手のペースに飲まれてしまう。だったらこちらからも相手を知る必要がある。そう言ったのは鶴見だったが、まあ、悪くない考えだと思った。攻撃は最大の防御ということか。
広い玄関、物のない廊下。台所もあまり物がなく、生活感が無い。
部屋は二部屋あるようで、最初に開けたドアの先には寝室らしきものがあった。フローリングの端にベッドがあり、あとは何も無い。この部屋では寝るだけなのか。本当に人が生活しているのか心配になる。
もう一部屋には何があるのだろう。
フローリングをペタペタと肉球で踏みつけながら歩く。足跡が残っていたらまずいのではないかと今更ながら思ったが、仕方ない。
「にゃ……にゃにゃ?」
(なんだ、これ)
その部屋は、空っぽな寝室とは何もかもが違っていた。
まず視界に飛び込んできたのは青色。その色の正体が何なのか、青には理解できなかった。
「にゃ……?」
先程までの物がほとんどない部屋とは反対で、この部屋は物で溢れかえっていた。物と言うよりは、青。もっと正確に言うならば『水の戦士ブルー』で溢れていた。
壁一面にブルーの写真が貼られている。大きなポスターも所々にある。机の上にはケースに入った小さなフィギュアが何体も。ぬいぐるみなんてものもある。
もしかして、これはブルーのグッズというやつなのだろうか。青は今まで自分のグッズが売られているところを見たことがなかったけれど、おそらくこの部屋を埋めつくしている物たちがそうだ。
まさか、青がブルーのグッズを見たことがなかったのは怜央が買い占めていたから……なーんて。
……有り得ない、よな?
壁に貼られている写真はブロマイドだけではなく怜央が撮ったものもいくつかありそうだった。いつの間に撮ったのだろう。
無数の自分に見られているようで落ち着かない。しかも自分は今猫の姿とはいえ不法侵入という犯罪中なわけで、それをヒーローである自分に見られているなど落ち着けるはずがない。
他の部屋よりはまだ何かしら出てきそうだが、ブルーに溢れたこの部屋にはやはり佐藤怜央自身の情報は無いような気がする。
それでも、こうして足を踏み入れたからには何かしら掴みたい。
……だが、そもそも青は何を知りたいのだろうか。
鶴見が考えた作戦だからではなくて、青は少しだけ怜央に興味があった。本当に青のことを好きなのか。それもあの手紙にあるような意味で。もしそうでないならどうしてそう思わせようとするのか。
結局のところ、初めて遭遇した自分のファンという存在が嬉しいのだ。壁一面に自分の写真を貼られるのはたしかに怖いけれど、その情熱が嬉しくないわけではない。
……ただ、その好きの意味がもう少し違ったら良かったのに。
そうしたら、友達くらいにはなれたかもしれないし、弟子にしてやったかもしれないのに。
――ガタッ
「にゃっ!」
突然の物音に尻尾の毛が逆立つ。自分は今驚いているらしい、とどこか客観的に考える。
振り返るとそこには当然、部屋の主が立っていた。
――佐藤怜央。
少なくともこの部屋の主は本当に佐藤怜央だった、という収穫はあったわけだが。
「どこから入ってきたの?」
しゃがみこんでこちらと目線を合わせてくる怜央を見て、自分が猫の姿になっていたことを思い出す。動物を相手にしているからか、普段の怜央と印象が違う。優しそうなのは確かだけれど。
「窓開いてたかな……でもここ五階だし……うーん」
いつも怜央からは敬語で話しかけられていたのでこんな風にくだけた口調は新鮮だった。動物に優しくて、イケメンで、ズルいな結構モテポイント高いぞ。
そっと背を撫でられると体から変に力が抜ける。変だ。さっき通行人に撫でられた時はここまで腑抜けにならなかったはずだ。
「にゃう……にゃ」
「可愛い猫ちゃん。名前は何ていうのかな」
背中からしっぽにかけてをゆっくりと撫でられ、力が完全に抜けた。床にへたり込むと怜央がくすくすと笑った気がした。
怜央はこんな部屋を見られても慌てた様子もない。まあ青が青だと思っていないからだろう。相手は猫だし。でも、青に見られても動じなさそうなところが怖いんだよなあ。
「毛艶がいいけど、首輪してないよね。飼われてないのかな?」
「にゃう……」
耳の後ろを撫でられ、もう意識がふわふわだ。顎をなぞられて、ぐるぐると首が勝手に音を立てる。
猫とはこんなにも容易く人間に翻弄されてしまうものなのだろうか。青は鶴見に唆されて猫になってしまったことを後悔した。
「んにゃ……にゃ」
なんだろう、気持ちいいのは確かなのだが、だんだん体が熱くなってきた。
この感覚は…………不味い気がする。
「もし帰るところがないならうちにおいで。名前は……そうだな、ブルーさんにしよう」
「にゃにゃにゃ(青要素ないぞ)」
青なんてどこにもない茶トラをブルーと呼んで、優しくしっぽを撫でる手。自分の写真が並んだ部屋で、自分を好きだと言う男が。
体温がどんどん上がっていく。
座り込んでいるためわからないが、たぶん、勃起してる。猫のペニスなんて見たことがないけれど下半身に集まる熱はつまりそういうことだろうから。
……猫になって勃起するって、どんな高度な変態なんだろう。
いや、これはきっと鶴見の発明の副作用的な何かか、もしくは怜央が猫を発情させる危険な手の持ち主なのかもしれない。
「ぐるるる」
喉が鳴る。しっぽの根元を優しくぐりぐりされて、頭の奥がチカチカする。脳がとろけそうに気持ちいい。
ダメだと遠くで誰かが叫んでいるような気がしたけれど、抗うことなんてできそうになかった。
射精したような感覚があったが、実際には床を汚すこともなく、ただただ体に力が入らずぐったりとしていた。まさか茶トラの正体が青で、そんなことになっていたなんて夢にも思ってないだろう怜央は、「よし、首輪とか買ってくるよ」と外に行ってしまった。
……一刻も早く逃げよう。
幸いまだ猫の姿のままだ。少しスッキリしたことだし、またムラムラしてくる前にここから出ないと。逃げそこなって監禁されて、怜央の目の前で人間に戻るなんてことが起きたら大事故だ。
「……にゃう」
気合を入れて立ち上がる。と言っても猫なので四本足で。腰が抜けてしまっていた先ほどまでとは違い、ちゃんと歩けそうだ。
結局怜央の住処以上の情報は得られなかったけど、まあ、今日のところはこの辺で。
鶴見博士の作戦はまだ残っている。怪しげな薬もあと二種類。
なので、今回は、戦略的撤退ってやつだ。
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