4-5.企み

「由羅、入るよ」


 突然、紫釉に名前を呼ばれ、由羅はハッとして本から顔を上げた。

 気づけば外は真っ暗で、いつの間に点けられたのか燭台に明かりが灯っていた。

 たぶん、蘭香がつけてくれたのだろう。すっかり集中して蘭香が来たことも気づかなかった。


「あ! どうぞ」


 部屋に入った紫釉は、不意に食卓に目を向けると由羅に尋ねてきた。


「由羅、ご飯を食べてなかったの? 具合でも悪い?」


 そう言われて由羅も食卓を見ると、そこにはすっかり冷たくなった夕食が置きっぱなしになっている。


「あぁ、資料を読んでいたら集中しちゃっていたみたいで、ご飯を食べるのを忘れていました」

「資料?」


 状況を掴めていない様子の紫釉は不思議そうに由羅を見る。


「はい、今朝凌空様がいらして、刑部の捜査資料を持ってきてくださったんです。時間があるのであれば、読めるなら読んでくださいって」

「由羅は、これを読んだの?」

「はい、そうですけど……」


 何故紫釉が驚くのか分からず、由羅は首を傾げたが、一つの考えに及んだ。


「もしかして私が文字を読めないと思いましたか?」

「ごめん。そう思ってた」


 文字の読み書きができる平民は稀である。

 良家の者しか教育を受けられないからだ。だから、紫釉は由羅が読み書きができることを意外に思ったのだろう。


「読み書きと計算はできますよ。科挙の試験を受けるには読み書きなんて当然できなきゃいけませんし」

「えっ!?か、科挙!? 受けたの? どうやって? というか、女性は無理じゃないの!?」


 紫釉はあまりの驚きで矢継ぎ早に質問してくるので、由羅は一つ一つ説明することにした。


「貴族の屋敷に潜入したり、役人として潜り込んだり……黒の狼の仕事には潜入任務もあるんですよ。その時に文字が読めないとか計算ができないとかだと困るのです。だから勉強するんですよ。その一環として科挙を受ける必要があったんです」


 崔袁さいえんは由羅と宇航ゆはんには暗殺のための武術よりも、このような知識の習得をさせたがった。


 科挙の試験は確かに難関で、試験前は勉強漬けの毎日だった。

 正直血の滲むような努力が必要だったが、宇航と励まし合い、競い合いながら勉強した日々は、今では懐かしい思い出だ。


「それで、受かったの?」

「はい。まぁ、中の上くらいの成績ですけど」


 宇航はたぶん深花3位は取れていたようだ。

 ただあまり好成績だと官吏になるのを辞退した際に目立つので、あえて回答を間違えたので正確には分からないが。


「あと、確かに女性は受験できないので、私は男に変装して受けました」


 紫釉は言葉を失って呆然と由羅を見ている。

 無言のままじっと見つめられ、由羅は戸惑いながら声をかけた。


「あの……紫釉様?」

「くくくっ……はははは!」


 突然笑い出した紫釉に、今度は由羅が驚く番だった。


「な、何ですか?」

「いやぁ、予想外すぎて! 由羅、面白いね。 どうしよう、離したくなくなっちゃったな」


 そう言って紫釉は心の底から笑うと由羅をまっすぐに見つめてニコリと笑った。


「ねぇ由羅。もし、俺のお願いを聞いてくれたら参加できるようにしてあげる」

「本当ですか!? 私が出来る事なら!」


 思わず身を乗り出してそう言った由羅の耳に、次の瞬間とんでもない言葉が飛び込んできた。


「そっか。じゃあ、俺の事好きって?」

「えっ?」


 由羅は驚いて目を見開き紫釉を見つめた。

 その瞳の奥に妖しい光が見える気がするのは気のせいだろうか?


 とりあえず「好き」と一言言えば捜査に参加できる。これは好機チャンスだ。

 だが、「好き」と言ったら何か大変なことが起こると本能が告げた。

 言い淀んでいると、紫釉が一歩距離を詰める。由羅は思わず一歩下がった。


「ね、言って。そして俺の傍にいて」


 蝋燭の仄かな明かりに照らされた紫釉の端正な顔は壮絶な色香があった。

 そっと紫釉の親指が由羅の唇を撫でる。由羅は息を呑み、紫釉の瞳から目を逸らせずにいた。


 由羅の心臓が高速に動いて、爆発しそうだ。

 何か言わなければこの状況から解放されないことは分かる。

 由羅は何とか口を開いた。


「き」

「き?」

「嫌いではありません!!!」


 艶っぽい空気を吹き飛ばすような大声に、紫釉は虚を突かれたような表情となった。

 そして子供の我儘を許すかのように柔らかく苦笑した。


「仕方ないな。ま、今日はこのくらいにしてあげるよ」


 何とか解放されて、由羅は大きく息を吐いた。

 どうやら緊張で息を止めていたようだ。


「だけど、覚悟してね」

(なんの覚悟!?)

「ふふふ、明日、凌空の驚く顔が楽しみだなぁ」


 そう言って、紫釉は何かを企むように悪戯っぽい笑みを浮かべた。



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