運び屋バーテンダー

たまご納豆

運び屋バーテンダー

夜の帳が静かに街を包み込む頃、ひっそりとした通りに佇む一軒のバー。その扉には看板もなく、通りすがりの人が目に留めることはない。だが、今宵、その扉が音もなく開かれた。


足元に薄い靄が漂い、まるでそこだけが異次元であるかのように感じさせる。その中に一人の若い女性が姿を現した。彼女は深い夜色のコートをまとい、肩にかかった髪が静かに揺れている。20代前半に見える彼女の顔には疲労の色が浮かんでいたが、その瞳には何かが足りないような空虚さが宿っていた。


店内は静かで、重厚な木製のカウンターがひっそりとした空間を支配している。棚には古びた酒瓶が整然と並び、長い時を感じさせる。淡い光が温かく、しかしどこか現実離れした雰囲気を漂わせていた。


カウンターの向こうにはバーテンダーが一人静かに立っていた。彼は40代くらいの落ち着いた雰囲気の男性で、短髪にわずかに白髪が混じっている。シンプルな黒のエプロンをまとい、鋭い目元には長い年月の経験が刻まれていた。彼は女性を一瞥し、静かに微笑んだ。


「いらっしゃいませ。」


その言葉は、まるで遠い過去から響いてくるかのように穏やかで、そして深い。女性はカウンターの席に腰を下ろし、ふと遠くを見つめた。彼女の表情には言葉にはできない何かが宿っていた。


「ここは、ずっと昔からあったんですか?」


彼女の声は、どこか頼りなげでありながらも、微かな期待が込められていた。


バーテンダーは淡く微笑んだまま、ゆっくりと頷いた。


「ええ、ずっとここにあります。ただ、気づく方は少ないですがね。」


その言葉にはどこか含みがある。女性は何かを思い出そうとするかのように、ゆっくりと瞼を閉じた。ふと、彼女の心の奥底に眠る記憶の断片が、静かに蘇る。


バーテンダーは彼女の前にゆっくりとグラスを置き、棚から一本のボトルを取り出した。それは深い琥珀色の液体が光を受けて柔らかく輝くウイスキーだった。彼は、手際よくそれをグラスに注ぎ、静かに彼女の前に差し出した。


「お疲れ様でした。何かお話しされたいことがあれば、いつでもどうぞ。」


彼女は一瞬、何かを言いかけたが、代わりにウイスキーの香りを嗅ぎ、少し口に含んだ。温かな液体が喉を通り過ぎ、彼女の中に広がっていく。それとともに彼女の目の奥に沈んでいた記憶がゆっくりと浮かび上がり始めた。


彼女はバーテンダーに向かって、小さな笑みを浮かべた。


「ずっと教師になることを夢見ていました。あの頃は本当にワクワクしていて…もう少しで、実現できると思っていたんです。」


彼女の瞳に一瞬の輝きが戻る。未来を信じ、夢に向かって進んでいた時の思い出が蘇る。


「でも、最近は何かがうまくいかなくて…目標に届かないまま、何もできない感じがしているんです。」


彼女の声には少しの迷いと戸惑いが滲んでいた。彼女は夢に手が届きそうだったが、何かが足りなかったように感じている。その何かが、彼女の中で欠けているように思えた。


「夢というのは叶うことが全てではないかもしれませんね。時にはその夢を追い続けること自体が、人生の意味を持つのかもしれません。」


彼の声は穏やかで、しかしその言葉には深い意味が込められていた。彼女はその言葉に静かに耳を傾けた後、微かに微笑んだ。


「そうかもしれませんね。でも、やっぱり…」


彼女はまた黙り込み、再びグラスを手に取った。彼女が言いかけた言葉は、そのまま消えゆく霧のように、静かに消えていった。


バーテンダーは、彼女の話を静かに聞きながらも、その背後に隠された真実を知っていた。彼女がまだ自分の運命に気づいていないことも、彼には明白だった。


「大切なことは、今どう感じているかだと思いますよ。」


彼はそう言いながら、グラスにわずかに残ったウイスキーを見つめる彼女に視線を向けた。彼女の表情には、どこか悲しみと困惑が混じっていたが、その原因を自分では理解していない様子だった。


「時々、何か大切なことを忘れている気がするんです。でも、それが何だったのかは思い出せない…」


彼女は呟くように言った。その言葉には、無意識のうちに抱えている深い不安が滲み出ていた。


バーテンダーは軽く頷き、カウンターの向こうで手を止めた。


「その感覚は誰にでもあるものです。けれど、焦らずに過ごせば、いずれ全てが明らかになる時が来るでしょう。」


彼女はその言葉に安堵したかのように、微かに微笑んだ。しかし、その微笑みにはどこか脆さがあり、彼女が本当は何を恐れているのかを物語っているようだった。


「このバー、何だか不思議な場所ですね。まるで、時間が止まっているみたい…」


彼女はふと周りを見渡し、静かな店内の様子に気づいた。店の外では夜の静寂が続いているが、どこか現実味を欠いているかのように感じられた。


「ここは、そんな場所なんですよ。必要な時にだけ現れる特別な場所です。」


バーテンダーの言葉には穏やかさの中にもどこか哀愁が感じられた。彼女はその意味を理解しようとしたが、すぐには答えが見つからなかった。


バーテンダーは彼女の前に新しいグラスを置いた。中には薄い青色のカクテルが注がれており、まるで月明かりを閉じ込めたかのように美しく輝いていた。


「これは?」


彼女はそのグラスを見つめながら尋ねた。


「‘ブルームーン’というカクテルです。少し甘く、ほのかな酸味が特徴です。よく考え事をしている方にお勧めしています。」


彼は微笑みながら答えた。彼女は一瞬戸惑ったが、そっとグラスを持ち上げ、カクテルを口に含んだ。ほのかに甘く、どこか懐かしい味が口の中に広がるとともに、彼女の表情は柔らかくなった。


「不思議な味…なんだか、昔のことを思い出しそうです。」


彼女は微かに笑みを浮かべたが、その笑顔にはどこか影があった。バーテンダーは彼女の様子を静かに見守りながら、言葉を紡いだ。


「思い出せないことがある時、それは無理に思い出そうとせずに、自然に任せるのが一番です。」


彼の声は穏やかで、どこか心に響くものがあった。彼女はその言葉に耳を傾けながら、ゆっくりと過去の記憶を手繰り寄せるように目を閉じた。


突然、彼女の頭の中に車のハンドルを握る自分の姿が浮かび上がった。夜道を一人で運転している光景が鮮明に蘇る。風の音、車のエンジン音、そして…何かが迫ってくる音。


彼女は急に目を開き、驚いた表情を浮かべた。


「何か…何か大切なことを忘れている気がする。でも、それが何か思い出せない…」


彼女の声には、焦りと不安が混ざっていた。バーテンダーはその様子を見つめながら、静かに頷いた。


「急ぐ必要はありません。すべては、自然の流れに任せましょう。」


彼の言葉には、彼女を安心させる不思議な力があった。彼女はその言葉に少しだけ安堵し、再びグラスを手に取った。


しかし、その一方で、彼女の胸の奥には、どうしようもない不安が徐々に膨らんでいくのを感じていた。


彼女は再びグラスを手に取り、‘ブルームーン’の残りを口に含んだ。その瞬間、カクテルの甘さと酸味が舌の上で溶け、まるで記憶を呼び覚ます引き金のように、彼女の意識の奥深くに眠る感情が鮮明に浮かび上がってきた。


彼女が教師を目指していた研修時代、まだ夢に満ち溢れていた頃のことを思い出す。高校の教室に立ち、生徒達が真剣に自分の話を聞いている姿が目に浮かぶ。彼女はいつも、生徒達にとっての「頼りになる大人」になりたいと願っていた。


黒板に文字を書くとき、教科書を片手に生徒達の質問に答えるとき、彼女は自分が未来を創る一部であることに強い誇りを感じていた。その感覚は、彼女の心の奥底でいつも温かく輝いていた。


「私が教えたことが、いつか彼らの人生の支えになる。そんな日を夢見ていました。」


彼女は独り言のように呟き、過去の自分を思い出して微笑んだ。研修の最初の頃、教壇に立つたびに緊張していたが、それが次第に楽しくなっていくのを感じていた。生徒達が少しずつ心を開いてくれる瞬間や彼らの成長を見るたびに、彼女の胸は希望と喜びで満たされていた。


「私は、彼らの未来に少しでも影響を与えられるかもしれない。そう思うと、本当に教師という仕事が素晴らしいものに感じられました。」


彼女はそう言って、遠くを見つめる。研修を重ねるごとに、彼女は確かに自分が教師になれると信じていた。そして、生徒達が未来に向かって羽ばたいていく姿を、いつか見守ることができると夢見ていた。


その夢は、彼女にとって何よりも大切なものだった。だが、その夢が突然の悲劇によって打ち砕かれることを、彼女はまだ知らない。


彼女が過去の記憶に浸っている間、バーテンダーは彼女の変化を静かに見守っていた。彼女の瞳には、懐かしさと共に一抹の寂しさが宿っていた。彼はその感情の裏にある真実を知っているが、彼女自身がそれに気づく時が来るまで、焦らせることはしない。


「教師になって、生徒たちと一緒に未来を築いていく。それが私の夢でした。」


彼女は再び言葉を紡いだ。その声には、自らの夢に対する揺るぎない誇りが込められていたが、同時に、それが叶わなかった現実が薄く影を落としていた。


バーテンダーは、彼女の目を見つめながら静かに頷いた。


「それは、素晴らしい夢ですね。そして、その夢を抱き続けたあなたの姿勢は、きっと多くの人に影響を与えたことでしょう。」


彼女はその言葉に一瞬驚いたようだったが、すぐに微笑みを返した。


「そうだといいんですけど…まだ、生徒達に何も教えてあげられなかったから…」


彼女はそう言って、再び遠くを見つめた。彼女の記憶の中で、最後の研修の日がぼんやりと浮かび上がる。教室での最後の授業を終え、教科書を片付けていた自分の姿。生徒達が元気に挨拶をして教室を出て行く中、彼女はその姿を見送っていた。


「次は、本当の教師としてこの教室に戻ってくるんだ…そう思っていました。」


彼女の声は静かだったが、その言葉の中には、失われた時間への切なさが滲んでいた。


バーテンダーは彼女の言葉に耳を傾けながら、静かにカウンターを拭いていた。そして、彼女がその記憶を受け入れることができるよう、慎重に言葉を選んだ。


「夢を持ち続けること、そしてそれを目指して努力すること。それ自体が素晴らしい事です。結果がどうであれ、その過程が大切なのです。」


彼女はバーテンダーの言葉を聞きながら、ゆっくりとグラスを置いた。彼の言葉は、彼女の心に響いていた。しかし、その一方で、彼女の胸の奥には、まだ解消されない不安が渦巻いていた。


「でも、結局私は…」


彼女は言葉を詰まらせた。その先にある真実に、自分でも気づき始めているのかもしれない。しかし、その真実を直視する勇気が、まだ彼女にはなかった。


彼女は再びグラスを手に取り、残りのカクテルをゆっくりと飲み干した。甘酸っぱい味わいが舌の上で消えるとともに、彼女の胸の奥に広がっていた不安が、さらに深まるのを感じた。


「でも…私は、結局何も成し遂げられなかったんです。私があの時、何かを変えることができたら、きっと…」


彼女の声は次第に小さくなり、言葉が途切れた。彼女はその理由を自分でも説明できなかったが、どこかに答えがあるような気がしてならなかった。


バーテンダーは静かに彼女の前に新しいグラスを置いた。中には、クリアで透き通った氷が揺れるシンプルなカクテルが注がれていた。


「‘ホワイトレディ’というカクテルです。純粋さと清潔感を象徴する一杯です。あなたの気持ちを少しでも癒せたらと思って、用意しました。」


彼はそう言いながら、彼女に優しい微笑みを向けた。彼女は少しだけ驚いたが、すぐに微笑みを返し、グラスを手に取った。


「ありがとうございます。」


彼女は一口カクテルを飲み、その柔らかな味わいに一瞬心が落ち着くのを感じた。しかし、心の奥底には依然として何かが引っかかっていた。


「私、本当はどうしてこんな気持ちになっているのか、よく分からないんです。何かを忘れているような気がして…でも、それが何なのか、どうしても思い出せない。」


彼女は深い溜息をつき、カウンターに肘をついて顔を伏せた。彼女の心の中には、焦りと戸惑いが交錯していた。


バーテンダーはその様子を見つめ、静かに言葉をかけた。


「時には、心が真実に気づく前に何かを感じ取ることがあります。それは、まだあなたが受け入れる準備ができていないからかもしれません。」


彼の言葉には彼女を支えようとする優しさがあった。彼女はその言葉に少しだけ慰められたが、それでも心の中の疑問は消えなかった。


「私は…本当に大丈夫なんでしょうか?このまま何も知らずに生きていくなんて…」


彼女は不安げに呟いた。その言葉には、彼女自身が気づいていない真実が含まれていた。バーテンダーはその言葉を受け止めながら、静かに首を横に振った。


「あなたの心が導くままに進んでいけば、きっとすべてが明らかになる時が来ます。焦らず、今を感じてください。」


彼の言葉は、彼女にとって少しだけ希望をもたらした。彼女はそれを感じ取りながら、再びカクテルを一口飲んだ。


しかし、その一方で彼女の心の中では、まだ見ぬ何かが呼びかけていた。


時間が静かに流れる中、彼女はカクテルを飲み干し、再びグラスをカウンターに置いた。その手元を見つめながら、彼女の心の中にはある記憶の断片が鮮明に浮かび上がってきた。


彼女が最後に車を運転していた夜のことが、頭の中でぼんやりと再現された。暗い夜道を一人で走りながら、ラジオから流れる音楽に耳を傾けていた。その時、彼女の心には、未来に対する希望とともに、教師としての新たな一歩を踏み出す決意があった。


だが、次の瞬間、彼女は何か重いものが胸にのしかかるような感覚を覚えた。それは、彼女がその夜に起こったことを無意識に思い出している証拠だった。しかし、その記憶はまだ完全には解き放たれていなかった。


「私…あの夜、何があったんでしょう?」


彼女はふと呟いた。その言葉には、真実に近づきたいという願望と、それに対する恐れが入り混じっていた。バーテンダーはその問いかけに対して、慎重に答えを選んだ。


「時には、過去に起こったことを受け入れる準備ができるまで、心がそれを隠そうとすることがあります。あなたの心も、まだその時が来ていないのかもしれません。」


彼はそう言いながら、彼女の表情をじっと見つめた。彼女の瞳には、不安と混乱が映し出されていたが、その奥には、何かを知りたいという強い意志も感じられた。


「でも、私には何か大切なことを忘れている気がしてならないんです。それが何なのか…」


彼女はカウンターに置かれたグラスを見つめながら、言葉を続けた。しかし、その先に続く言葉は見つからなかった。彼女は何かを思い出そうとしているのだが、それが何であるかはまだわからなかった。


バーテンダーは静かにカウンター越しに彼女の手を取った。その手は少し冷たく、彼女自身が気づいていない何かを物語っているようだった。


「無理に思い出そうとしなくてもいいんです。すべては、時間とともに明らかになりますから。」


彼の声は穏やかで、彼女の不安を少しでも和らげようとしていた。彼女はその言葉に頷き、彼の手を握り返した。


しかし、その瞬間、彼女の心の奥底に眠る記憶が、再び彼女に迫ってきた。車のライト、夜の静けさ、そして突然の衝撃。


彼女の胸の中で何かが弾けたかのように、彼女は息を呑んだ。その衝撃が、彼女の心に大きな波紋を広げていた。


彼女は心臓が締め付けられるような感覚に襲われ、深呼吸を試みたが、呼吸は浅く、胸の中で何かが詰まっているようだった。思い出そうとすればするほど、その記憶は不明瞭なまま、彼女の意識から逃げていく。


「何か…何かが起こったんです。でも、それが何なのか思い出せない…」


彼女は震える声でそう呟き、カウンターに置かれたグラスに目を落とした。氷が溶け、水滴がゆっくりとグラスの側面を滑り落ちていく。その様子が、彼女の記憶の断片のように感じられた。


バーテンダーは、彼女がかすかに震えるのを感じ取り、静かに彼女を見つめた。彼女の手はまだ冷たく、その冷たさが彼女の内面を反映しているかのようだった。


「何かを思い出そうとする必要はありませんよ。大切なのは、今ここにいるということです。」


彼はそう言いながら、彼女の手を優しく包み込んだ。その温もりは、彼女の心の中の混乱を少しだけ和らげた。


しかし、彼女の心の中には、どうしても解消できない疑念が渦巻いていた。何かが間違っていると感じながらも、その間違いが何であるかを言葉にすることができなかった。


「でも、私がここにいる理由が分からないんです。どうしてここに来たのか…どうして…」


彼女はそう言いながら、頭を抱えた。その痛みは、記憶を思い出そうとする努力に対する抵抗のようだった。バーテンダーは彼女を見守りながら、静かに息をついた。


「あなたがここにいるのは、きっと意味があります。すべてが明らかになる時が来れば、その意味も理解できるでしょう。」


彼の言葉は、彼女を慰めようとする優しさに満ちていたが、その裏には彼女がまだ気づいていない現実が隠されていた。彼はそれを知っているが、彼女がその真実に向き合う準備ができるまでは、何も言わないことを選んだ。


彼女は深呼吸をしようと試み、ゆっくりと目を閉じた。その瞬間、彼女の脳裏に、あの夜の記憶が再び浮かび上がった。


ハンドルを握る自分、夜の道路、そして突然の光。それは、車の前に迫ってくるトラックのライトだった。彼女は急ブレーキを踏もうとしたが、間に合わなかった。そして、その後はただの暗闇。


彼女は目を見開き、突然の恐怖に襲われた。胸の中に広がる冷たさが、彼女を現実に引き戻した。


「どうして…どうして私は…」


彼女の声は震えていた。彼女はまだ完全には理解していないが、何かが自分の人生に大きな影響を与えたことを感じ取っていた。しかし、その答えが何であるかは、まだ掴めないでいた。


バーテンダーは彼女の変化を見守りながら、静かに彼女の手を握りしめた。


「すべてが明らかになる時まで、焦らずに。あなたは一人ではありません。」


彼の言葉は、彼女にとって唯一の支えとなり、彼女はその温かさにすがるように頷いた。しかし、その一方で、彼女の心の中では、もう一つの真実がゆっくりと姿を現し始めていた。


彼女の胸の中で膨らむ不安は、まるで黒い霧が心を覆い尽くすように重くなっていった。あの事故の瞬間が断片的に蘇るたびに、彼女は息苦しさを感じ、何かが自分の記憶から隠されていることに気づいていた。


「私は…何かを忘れている。でも、それが何なのか…」


彼女は言葉を探しながら、再びバーテンダーに視線を向けた。彼の瞳には、彼女の葛藤と恐れを受け止める優しさが宿っていた。


「私がここに来たのは、偶然じゃないんですよね?」


彼女の問いに、バーテンダーは静かに微笑んだ。その微笑みは、彼女の疑念に対する答えを暗示しているようだったが、彼はまだ真実を明かすことはしなかった。


「この場所には、導かれるようにして来る人が多いんです。あなたがここにいることにも、きっと意味があります。」


彼はそう言いながら、新しいカクテルを作り始めた。彼の手際は熟練しており、カウンター越しに彼女が見つめる中、鮮やかな色合いのカクテルがグラスに注がれていった。


「これは、‘ラストメモリー’という名前のカクテルです。」


彼はそのグラスを彼女の前に置いた。その名前が彼女の心に響き、彼女は無意識に手を伸ばした。彼女は「ラストメモリー」を一口飲んだ。その瞬間、甘くほろ苦い味わいが口の中に広がり、まぶたが重くなっていくのを感じた。グラスをカウンターに置こうとするが、手元が狂い、ふと目を閉じた瞬間、すべてが暗転した。


気がつくと、彼女は教壇に立っていた。目の前には若い生徒達が座り、彼女の言葉を待っている。教室は光で満ち溢れ、彼女の心は穏やかだった。これが、ずっと夢見ていた光景だった。彼女は微笑み、生徒達に語りかけ始める。


「皆さん、今日は大切なことを教えます。」


その言葉は教室の中に柔らかく響き、生徒達の目が彼女に釘付けになる。その瞬間、彼女は全てが正しい場所に収まったような感覚を覚えた。夢に見ていた、教師としての自分がそこにいたのだ。


だが、次の瞬間、教室の風景が徐々に薄れていき、彼女の意識は再び遠のいていった。彼女はもう抵抗せず、ただその安らぎに身を任せた。いつの間にか目を閉じ、静かに息を吐き出した。


バーのカウンターでバーテンダーは彼女が静かに眠りに落ちるのを見届けた。彼女の表情は穏やかで、すべての未練が消え去ったかのようだった。彼はそっとグラスを片付け、彼女の前に一輪の花を置いた。


「お疲れ様でした。どうか、安らかに。」


彼の静かな言葉が、バーの中に優しく響いた。彼女の姿は徐々に薄れ、やがて完全に消え去った。バーには、ただ静寂が戻っただけだった。


バーテンダーは深い息をつき、カウンターを拭きながら次の客を待つ準備を始めた。彼はこの夜も、また一つの魂を成仏させたのだ。










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