ドラゴンフライ

篠崎亜猫

ドラゴンフライ

花柄のワンピースに麦わら帽子で夏を先取りした子供が、波打ち際で「夕焼け小焼けの赤とんぼ」と歌うのを、日傘をさした母親が「そらあ、秋の歌じゃ」と叱っている。母親もワンピースに麦わら帽子姿だが、子供と違って、いやらしい、浅黒い肌をしていた。夕日がべったり張り付いたその肌を見ていると嫌悪感がむかむかとこみあげてきて、Mは思わず、母親に唾を吐きそうになった。地元の人間特有の訛りを使う母親は、まだ遊びたいとぐずる子供を無理に立たせて、引っ張ってバス停の方へ歩いて行った。

 ふたりが去ればHヶ谷の浜は、シーズンもまだなおかげでMだけのものになった。S海の淀んだ水が眼前に広がって、爽やかなはずの磯の香りはしかし、Mにとっては重苦しいものになる。とくに別れた女のことと停止した学業のことが、繰り返し形を変えて、万華鏡のように脳裏にひらめいた。今日の夕日は、Mの感情に連動して沈んでいるのだとさえ思えた。足元を這う蟹だけが、この空間で軽やかだった。


別れた女は、Mに言わせれば我儘なたちで、加えてハキハキと正直にものを言い、何事にも積極的で後戻りというものをしなかった。顔はよく覚えていない。顔に惚れたのではないからだ。ただ癖のある髪と、その、ハキハキものを言うのを覚えている。たとえばMが喫茶店で注文を迷えば、女は「これにし」と勝手に頼んだ。Mが嫌がっても「もう頼んだわ」と澄ましたものである。他にも、ふたりで歩いて、Mが少しでも他の女を目で追えば、容赦なく手の甲を抓った。痛いと文句を言っても、女は決して謝らなかった。初めてキスをしたときは――つまりMが女に袖にされたときは――「フン」と鼻を鳴らして「しょうもな」と言った。Mが何かを言い返す前に、女は席を立って「お勘定!」と叫び、店を出て行った。アルコールが出る店だったから、周囲の赤黒い顔が一斉にMを見た。Mは何事もなかったかのようにふるまいたくて慣れぬ味の酒をグイグイ飲み、初めて便所で吐いて潰れた。

そこまで記憶をたどったとき、女が浅黒い肌をしていたことを思い出して、Mは自己嫌悪した。


初夏のころ、Mは精神メンタルをつくった。梶井基次郎に言わせるところの、「えたいの知れない不吉な塊」である。おかげで休学届を書かされて、実家に強制送還された。夏になれば爆弾一色になる郷里をMは好まず、夏ごろの休暇にはろくに帰省しないのが習わしだったのだが、今回はそうもいかなかった。

を背負って門戸をくぐったMを見て両親は、倅が珍しい季節に帰ってきただけだと思ったらしい。Mの――子供の頃の――好物をよく覚えている両親が、胸やけのしそうなほどの天麩羅を出してきたので、Mは辟易した。

ひとつ、変わった天麩羅があった。蟹のような味がするが、見た目は海老である。それを肴にしてうまそうに麦酒を飲んでいる父親に聞けば、蝦蛄しゃこだと言われた。


「Y田さんが、よう捕れた言うて、送ってきんさった」


「ほれ」と言って持って来られたバケツには、まだ生きた蝦蛄が数匹沈んでいた。ぎょろりとした目に長いひげは、Mに龍を思わせた。「ほいなら、こりゃあドラゴンのフライじゃな」。呟けば、父親は豪快に笑って更に麦酒を煽った。あっけらかんとしたその声は女を思い出させて、Mのがうずいた。


女は蜻蛉とんぼが好きだった。縁起がいいと言って、いつもどの服にも蜻蛉のブローチを付けていた。その蜻蛉が焼き物なのか金属なのか、それ以外の何かなのか、Mにはとんと見当がつかなかったが、きっと女の魂なのだろうと薄々感じていた。ある日、女がブローチを落とした。拾おうとしてうっかり、Mが踏んだ。女は烈火のごとく怒り、Mの頬を張った。なぜそこでMから別れを切り出さなかったのかと言われれば簡単で、Mは女の潤んだ瞳が、蜻蛉の羽のように透き通っていたのが美しくて、それに魅入っていたのである。現実逃避かもしれなかった。頬を張られたことで擦りむいた心に、女の潤んだ瞳がしみた。


また夕飯に蝦蛄が出た。Mは胸やけを抑える薬を飲んでから挑もうと薬箱を開いて、ふと気が付いた。「ドラゴンのフライ」と言った父親と、女の蜻蛉のブローチが重なり合って万華鏡に加わった。たしか、蜻蛉はドラゴンフライだったはず。初等教育のころに教えられて以来ついぞ使わなかった単語を思い出したMは、すっくと立って食卓に戻った。くだらない洒落だ。だがMにとってはこれ以上ない名案だった。蝦蛄の天麩羅を取って、猛然とかじりつく。

これは女だ。女の魂だ。

熱い天麩羅はMの口内ではじけて旨味をしたたらせた。最初は、蝦蛄など海老か蟹の偽物だと馬鹿にしていたが、今のMにとって蝦蛄は、あの日、女としたキスの延長のような妙味に感じられた。ほろほろ崩れる身肉は熱く、ころもは天女のように軽く、歯切れがいい。貪るように天麩羅を食べる息子を見て、両親は、昔に返ったようだと笑った。


翌朝、Mは再びHヶ谷の浜に出た。蝦蛄はきっともう胃の中で、どろどろの、酸っぱいものになっているはずだった。なんならすでに腸に届いて、くそとして排出される準備をしているかもしれなかった。これを知った女が再び自分の頬を張る妄想をして、Mは軽やかに歩いた。もう、へっちゃらだった。スキップでもしそうな心持だ。先日と同じように子供を遊ばせに来ていた母親が、Mに気づいて頭を下げたが、Mはもう、母親をいやらしいとは思わなかった。

S海は今日も淀んでいた。

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ドラゴンフライ 篠崎亜猫 @Abyo_Shinozaki

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