ドラゴンフライ
篠崎亜猫
ドラゴンフライ
花柄のワンピースに麦わら帽子で夏を先取りした子供が、波打ち際で「夕焼け小焼けの赤とんぼ」と歌うのを、日傘をさした母親が「そらあ、秋の歌じゃ」と叱っている。母親もワンピースに麦わら帽子姿だが、子供と違って、いやらしい、浅黒い肌をしていた。夕日がべったり張り付いたその肌を見ていると嫌悪感がむかむかとこみあげてきて、Mは思わず、母親に唾を吐きそうになった。地元の人間特有の訛りを使う母親は、まだ遊びたいとぐずる子供を無理に立たせて、引っ張ってバス停の方へ歩いて行った。
ふたりが去ればHヶ谷の浜は、
別れた女は、Mに言わせれば我儘な
そこまで記憶をたどったとき、女が浅黒い肌をしていたことを思い出して、Mは自己嫌悪した。
初夏のころ、Mは
できものを背負って門戸をくぐったMを見て両親は、倅が珍しい季節に帰ってきただけだと思ったらしい。Mの――子供の頃の――好物をよく覚えている両親が、胸やけのしそうなほどの天麩羅を出してきたので、Mは辟易した。
ひとつ、変わった天麩羅があった。蟹のような味がするが、見た目は海老である。それを肴にしてうまそうに麦酒を飲んでいる父親に聞けば、
「Y田さんが、よう捕れた言うて、送ってきんさった」
「ほれ」と言って持って来られたバケツには、まだ生きた蝦蛄が数匹沈んでいた。ぎょろりとした目に長いひげは、Mに龍を思わせた。「ほいなら、こりゃあドラゴンのフライじゃな」。呟けば、父親は豪快に笑って更に麦酒を煽った。あっけらかんとしたその声は女を思い出させて、Mのできものがうずいた。
女は
また夕飯に蝦蛄が出た。Mは胸やけを抑える薬を飲んでから挑もうと薬箱を開いて、ふと気が付いた。「ドラゴンのフライ」と言った父親と、女の蜻蛉のブローチが重なり合って万華鏡に加わった。たしか、蜻蛉はドラゴンフライだったはず。初等教育のころに教えられて以来ついぞ使わなかった単語を思い出したMは、すっくと立って食卓に戻った。くだらない洒落だ。だがMにとってはこれ以上ない名案だった。蝦蛄の天麩羅を取って、猛然とかじりつく。
これは女だ。女の魂だ。
熱い天麩羅はMの口内ではじけて旨味をしたたらせた。最初は、蝦蛄など海老か蟹の偽物だと馬鹿にしていたが、今のMにとって蝦蛄は、あの日、女としたキスの延長のような妙味に感じられた。ほろほろ崩れる身肉は熱く、ころもは天女のように軽く、歯切れがいい。貪るように天麩羅を食べる息子を見て、両親は、昔に返ったようだと笑った。
翌朝、Mは再びHヶ谷の浜に出た。蝦蛄はきっともう胃の中で、どろどろの、酸っぱいものになっているはずだった。なんならすでに腸に届いて、
S海は今日も淀んでいた。
ドラゴンフライ 篠崎亜猫 @Abyo_Shinozaki
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