■芦原瑞穂の話 宮下優吾

「どう思う? この話」


 芹山翔一を名乗る何かが我が家を訪れてから一週間後、私は同期が集まる飲み会で、隣に座る宮下くん――宮下優吾に尋ねていた。


「すごくおもしろい。……他人事だから」


 彼はいかにもインテリ然とした銀縁の眼鏡越しに私を見つめると、にやり、と口の端を持ち上げる。

 

「宮下くんならそう言うよね……」


 予想通りの回答に、私はため息をつきながら頭を抱える。


 ――宮下優吾。私と同期で入社して、花形かつ激務と言われる営業部に配属された男性社員である。とある理由から、異性としては私が最も親しくしている友人でもある。

 

 そして今日、彼は私たち同期入社仲間の退職者第一号としてここにいる。この場は彼の送別会という名目の集まりなのだ。最も、十数名ほど集まった仲間たちは、みんな好き勝手に騒ぎ散らかしていていつもの親睦会とあまり変わらないけれど。


 チェーン居酒屋のオレンジ色をした照明の下、余った唐揚げの最後ひとつを遠慮なく箸でつまみ上げながら、宮下くんは続けた。


「論理的に考えると、こうだ。ある日偶然、変な資料を見つけてしまった芦原に対して呪いが発動した。だから芹山翔一を名乗る何かが家に現れた」

「論理的に考えてそれ? もっといたずらとか、ストーカーとか、色々候補ないの?」

「誰が? なんのために? そんな膨大な資料――小道具を用意してまで?」


 そう言われると弱くて、私は黙ってしまう。確かに諸々の出来事は意味がわからなすぎる。呪いとか、非科学的なもののせいにしてしまうほうがいっそ収まりがつく、という彼の意見はわからなくもない。


「まぁ、事実は小説より奇なり……ってのにも限度があるか。お前の言う通り、悪質ないたずらってのが順当なとこだろ。……会社には話したのか?」

「怖いじゃん……。川田卓治は、クレームつけたら燃やされたんだよ」

「クレームと放火には因果関係あるのか? ……って言っても、まぁ……不安だよな。ネズミの生首ポストに入れてくる奴が相手だし」


 宮下くんはもそもそと唐揚げを咀嚼して、ぬるそうなビールで喉に流し込む。動物の死骸の話をしながらそんなものを食べられる胆力が心底羨ましかった。 

 緩めたカッターシャツの首元から除く喉仏がごきゅごきゅと動くのをを恨めしく眺めながら、私もヤケクソでカンパリソーダを一気飲みする。


「……警察には隣の部屋の人が通報したよ。だから会社にも連絡はされてる……と思う。でも、さっきも言ったけどさ、芹山っていう社員はとっくに退職してるの。やばいやつが会社辞めた後にやばいことやらかしてても、会社としては何もできないはずじゃん」

「それもそうか」


 宮下くんはしばし考え込む。


「……その資料の登場人物のことは、先輩には聞いた?」

「……聞いてない」


 芹山翔一、田崎未羽、そして佐川湊。資料に登場する主な人物達と同じ名前の社員が確かに在籍していた記録は、私も確認している。

 けれど、それぞれの詳細――人となりや、退職の経緯などは、私だけではわからなかった。

 先輩社員に聞けば話は早いのだろうが、それには抵抗があって、未だに踏み出すことが出来ていない。


「はっきりさせたくない……」


 彼らが退職する前に異常な行動をしていたなどの証言がなされた場合が嫌なのだ。ほんの少しでも、あの資料がフェイクではない可能性を上げたくなかった。苦労して入社した会社が、そんな不可解な出来事の頻発する場所だとは思いたくない。

 

「先延ばしにするの、芦原の悪い癖な。内定時期からいつも課題提出ギリギリでさ」

「それは今、関係ないじゃん……。これだから寿退職する男は……」

「ちげーよ。寿退職って結婚退職のことだろ。死語だし、事実と乖離してる」


 私が寿退職という言葉をあえて使ったのには理由がある。宮下くんの退職理由はネガティブなことではなく、非常に珍しくおめでたいものだからだ。

 

 ――彼が学生時代から書いていた小説が出版され、大きな賞を取ったのだ。それをきっかけに、以前から夢見ていた作家の道を歩むことにした――というのが、彼の退職理由だ。

 

 知らせを聞いてから賞の名前でこっそり調べたけれど、贅沢しなければ退職してしばらくは暮らせる程度の賞金も出ていた。なんと来年の映画化まで決まっているらしい。

 

 会社から有名人が出るという事実に私たちはもちろんお祝いムードだし、会社の偉い人たちも表立っては文句を言えないらしい。


 内定時代から包み隠さずに小説を書いていると自己紹介していた彼に、私もだとこっそりとカミングアウトしたのはいつだったか。それ以来、私たちは共犯者めいた仲間意識をもって、良い友人関係を築いているのである。

 

 私が彼に相談したのも、作家を志す彼ならば、なんでもネタとみなして興味を持ってくれるのではないだろうかという期待からだ。

 

 それに、彼は芹山翔一と同じく営業部の所属だった。これも彼に話を聞いてもらった理由の一つだ。もっとも、こっちは本当に空振りで、彼は芹山の噂のひとつも聞いたことはなかったらしいけど。


 宮下くんはしばし思案すると、先程までとは打って変わった真剣な顔で、私に言った。


「……なぁ。その資料さ、俺にも見せてくれない?」 

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