第3話
俺に友達と呼べるようなやつは居ない。
だから”その日”も俺は、いつもどおり一人でバーにいた。
地下にあるそのバーは薄暗く、錆びた椅子はくたびれていて、下水が逆流したかのような匂いで満ちていた。
ウイスキーのような味がする酒は全てが偽物で、俺のような労働者が疲れを誤魔化すだけの、アルコールを薄めただけの液体だった。
バーテンと知性のかけらも無い軽口を叩いて吞んでいると、喧噪のなか女の声がした。
「しごと終わり?」
一瞬無視しようかとは思ったが、しかし俺は前を向いたまま答える。
「しごと終わりじゃなきゃ、こんなみすぼらしい格好でみすぼらしいバーで呑んでいない」
商売女か?とは思った。
そうじゃなきゃ何かの詐欺だ。この街の人間は他人から何かを奪うことしか考えていないからな。
女は話を続ける。
「確かにそうね。場末って言葉がぴったりだもの。ここも……あなたも」
「ずいぶんな言い方だな」
ぎしりと音を立てて椅子ごと身体を回す。
ここで俺は初めて女を見た。
無造作に結んだ髪に中肉中背。グレイのつなぎを着ているところからして、俺と似たような仕事をしているようだ。
美人というわけでは無い。しかし長い手足や細い腰は魅力的と言って良かった。愛嬌の良いどこか純朴な雰囲気だが……しかしだからこそどこか危うかった。
俺は続けて聞く。
「よそ者か?」
女は皮肉を含んだ笑顔のようなものを浮かべる。
「ずいぶんな言い方ね?」
そうして女は俺の隣の椅子に腰を掛け、手に持ったグラスをカウンターに置いた。
チリチリと音を出す裸電球が、ウェーブがかかった彼女の黒髪をオレンジ色に彩る。
よどんだ空気の中で女の汗を含んだ体臭が、確かに漂った。
俺はカマをかける事も考えはしたが……しかし面倒になり、思った質問をそのままぶつける。
「商売女か?そんな金は持ってないんだが?」
女の顔から笑顔が消え、俺を睨みつける。
「殴られたいの?」
「じゃあなぜ俺なんかに声をかけた?
もっとマシな男は他にいるだろ?
金を持ってそうな……”管理者”とかさ?」
さらに女の怒気が増す。
「呆れた……」
そう言った彼女は、テーブルに置いたグラスに手をかけた。
女は俺に酒を浴びせかけるつもりだ。そんな彼女の行動を予測した俺は、細い手を右手で押さえつける。
女は叫ぶことは無かったが、しかし拒絶するように俺の手を振りほどこうとする。
「放して!!」
俺は女の手を押さえつけたまま言う。
「忠告するわけじゃ無いが……あんたのような女がバーで軽々しく男に話しかけるんじゃない。
その右手で取ろうとした安酒をぶっかけるのもやめた方が良い。
だいたいが碌なことにならない」
疲れすぎていたのか?下心があったのか?分からない。ともかく俺が人に忠告するなんて事は珍しい。しかも女相手になんてことさらだった。
だから俺は彼女の右手を押さえつけながらも、自分の行動に少しの驚きを感じた。
「放してって言ってるでしょ!?声をあげるわよ」
「そんな事したって無駄だ。むしろ他の男の興味を引くだけだ」
「お酒を呑みたかっただけなの」
「だれと?」
「あなたと!」
「俺と……?
やっぱ商売女なのか?」
「……あなたやっぱり、殴られたいのね?」
そう言って彼女は空いた左手を振り上げようとしたが……しかし俺はなぜかバカバカしくなって、カウンターのほうを向いたまま笑ってしまう。
虚を突かれたような表情になった女は、所在無さげに左手を宙にさまよわせたまま言う。
「な、なに……?
急に肩を震わせて……?
笑ってるの??」
「いや……本当に……『変な女』がいるもんだなって思って……。
くだらなくなってきた」
「バカにしてるの?」
俺は肩を震わせたまま言う。
「バカにはしていないさ」
憤ったような声で女は言う。
「じゃあなぜ笑ってるの?」
「さあ?」
「やっぱり!バカにしているのね??」
しかし俺は無視して聞く。
「名前は?」
その俺の質問に驚いたのか、彼女の目がさらに見開かれた。
奥二重の瞳は、少し赤茶色に見えた。
戸惑ったまま彼女は答える。
「……イ、イチイよ。
私の名前はイチイ」
「イチイか。覚えておくよ」
その俺の言葉を聞いたイチイは何かを諦めたのか、振り上げた左手をゆっくりと降ろした。
怒気が無くなった彼女はどこか不安そうで、怯えたような表情をしていた。
そしてその夜俺は、イチイを抱いた。
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