君と帰るところ

珈琲水筒

第1話 佐野橋悠加

「起立!」


 号令係が声をあげる。

 私はこの時間が嫌いだった。


「気をつけ!」


 正確には、嫌いになった。

 ホームルームが終わった後に私を待つのは、ただの苦痛な時間でしか無かったから。


「礼!」


 全てを手放せば、この苦しみから解放されると思っていた。

 でも、結果として私を待っていたのは、生産性の欠片も無い空虚な時間だった。




 自分の荷物を鞄に詰め込む。

 鞄はやけに重く感じる。

 雑談を交わしながら帰路につく人達の中、私は一人で憂鬱な通学路を行く。


 部活一筋「だった」私に、その憂鬱を分け合えるような仲間は残念ながら居なかった。


 かつての親友が、私の事を横目で見て来た。

 目が合うと、あの子はすぐに俯いて顔を隠した。


 今の私に苦しみは無いが、それ以上に他の何も無かった。






 変化の無い日々が続いた。

 何も無い日があって、何も無い日があって、何も無い日があった。

 ただ、それだけだった。


 けれど、そんな日々の中にも一つだけ目を惹かれるものがあった。


 下校中の道で毎日見かける女の子。

 学校で見たことはあるし、なんなら同じクラスだけれども、ほとんど話した事はない。

 名前は確か......


 佐野橋悠加。


 クラスの中でも中心人物に近いような扱いをされていた、綺麗なロングヘアの少女。

 所謂陽キャというような人だった。


 帰宅部だと聞いて見下していたが、今となっては私も同類。

 あらためて通学路で見かける彼女を観察してみると、帰宅途中でありながらどうにも楽しそうに見えた。


 道端の花を眺めていたり、寄り道してコンビニでアイスを買っていたり、友達と一緒に笑い合いながら帰っていたり。


 本当の意味で彼女は帰宅部なのかもしれない。

 その姿に、少しだけ惹かれる物があったので、私はついつい佐野橋を目で追ってしまっていた。

 決してやましい気持ちがある訳ではない。

 純粋に人として惹かれるものがあったというだけである。




 そんな変化のない日々はある日突然終わった。

 その日の私も、退屈な六時間の授業を終え、さらに退屈な通学路をとぼとぼ歩いていた。


 蝉の鳴き声がどこか遠くから聞こえる。今年に入ってから初めて聞くその声に、妙なノスタルジーを感じる。


 夏の気配を感じるこの季節は、一番体温調節に困る。

 鬱陶しいくらいに吹き付ける風に、今日だけは少し感謝してみようかと思った。


 今日の佐野橋は誰かを待っているようで、一人で道の端に立ってスマホを弄っていた。

 スマホカバーは当たり障りが無くシンプルだが可愛らしい桃色のもの。


 気になりはするが、話かける程の勇気も、理由も無い。

 何も言わず通りすぎようとしたその時だった。


「おっ、待ってたよ」


 突然背後から佐野橋の声。


 振り返る。

 佐野橋は何故かこちらを向いている。私の後方に誰か......いや、居なかった。

 勘の鋭い方では無いけれど、彼女が「待ってた」人物はおそらく私なのだろうと分かった。


「えっと......私?」

「そうそう、君だよ、きーみ。安曇七!」


 フルネームで呼ばれ、少し困惑する。

 あまりいい予感はしていない。


「あー、何の用?」


 ぎこちない作り笑いをして聞き返す。


「いやあ、あんまり深い意図は無いんだけど、良ければ一緒に帰らない?」

「......はい?」


 ちょっと変な声が出た。

 突拍子も無い頼みに、私は再び困惑した。あんまり深い意図が無いと言うが、意図なしにこんなお願いをするだろうか。


「どうして?」

「えっとね、七、いつも一人で帰ってるよね」

「あー、うん」


 もう雑な返事しか出ない。

 それよりも下の名前で呼び捨てされた事の方が驚きだ。この子はいつもそうなのだろうか。


「だから、せっかくだし一緒に帰ろうかなぁと!」


"せっかく"という部分が分からん。

 そういう物なのか? 初対面の人とでもそういう風なノリが通る物なのか。


「あー......まあ、良いけど」


 そうは言っても、断る気は起きなかった。

 どうせ断ったところでいつも通りの何も無い帰宅が始まるだけ。

 それならばいっそ、ほぼ初対面の人と一緒に帰宅してみても良いだろう。


 実際、佐野橋には興味があった。

 移動時間という最も無意味な時間をここまで楽しんでいる姿が気になった。


 なにより、佐野橋に誘われるのは、何故だか嫌な気がしなかった。




 そうして二人で駅へ向かって歩く。

 歩くだけだが、佐野橋があんまりにも楽しそうだから、それに釣られて楽しくなってしまった。


「ところでさ、『昼』って言葉あるじゃん?」

「うん」

「『お』を付けて『お昼』にした途端に昼ご飯って意味が生まれるのおかしくない?」

「たしかに!」


 こういう風に、佐野橋はずっとよく分からない話題ばかり出してくれる。

 通学路の端に生えている草の判別方法や、どうでもいい雑学、あとは授業中の内職のコツなど、ほんとうに馬鹿馬鹿しい話題ばかりを提示してくる。

 どうやら私にとってはそれが心地よかったようで、久しぶりに笑顔で過ごせたような気がする。


「いや〜、今日は七の笑顔が見れて良かったよ〜!」

「へ?」


 佐野橋が突然そんな事を言い出す。


「だってさ、七、最近教室でもずっと元気なさそうだったじゃん? みんなで帰るのってなんだかんだ楽しいから……せっかくだし、一緒に帰ろうかなって。お節介だったかな?」


 少しときめいてしまった。

 私なぞをわざわざ帰宅に誘ったのは、佐野橋なりの優しさだったのだ。

 とんだお人好しである。


 しかし、「最近」という言葉が妙に引っかかった。

 佐野橋はこう見えて、人の事を結構観察する方なのだろうか。

 なにより、お人好し、お節介だからといって、初対面の私をわざわざ帰宅に誘う事があるのか?

 しかし、今はこの幸せを噛み締めたかったから、それを考えるのは後にした。


「ふふ.......そんな風に思ってくれてありがとう。ほんとに楽しい。佐野橋と下校すんの」

「えへへ、私も七と下校すんの楽しい」


 佐野橋のはにかんだような笑顔に、部活を辞めてからは感じなかったような、深い喜びと安心感を覚えてしまった。

 部活だけが心の拠り所だった私にとって、人の表情一つで一喜一憂するのは数年ぶりの事だった。


「あ、あのさ、私の話、ちょっと聞いてくれる?」


 今、私は、今日ほぼ初めて話したような人に心を許し、自分についての話をし、あろう事か悩みを相談しようとしている。

 それ程までに自分の精神は限界に近かったのか、それとも私が単にチョロいだけなのか。


「勿論! 気まずくて聞きにくかったから、七から話してくれて嬉しい」


 そんな事を言われたので、ほぼ初対面の佐野橋に心を許してしまった事への後悔なんて物は頭から消え去ってしまった。


「私ね、最近......いや、もう結構前になるのかな。演劇部辞めたの」


 佐野橋はただ頷いて聞いてくれる。


「理由は......人間関係の拗れ。あんまり細かくは話せないんだけど。それでさ、辞めて自由になれると思ったのにさ、私、なんか毎日虚しくてさ。でも! 今日は佐野橋が居たから久々にほんとに楽しくて......」


 あんまり細かくは話せないし、話したくないけど、こういう自分の感情をさらけ出すというだけでも私にとっては異常な事だった。

 上手く喋れた気はしない。


「そっか。話してくれてありがとう!!」


 佐野橋が私の手を握る。

 体温が伝わってきて、少し心地よい。


「嫌だったら良いんだけどさ、これからも、ちょっとずつ七の事教えて?」


 その提案が心から嬉しかったが、それと同時に怖かった。しっかり私の過去の話をしたら、佐野橋から嫌われてしまうかもしれないという恐怖。


「じゃ、じゃあさ! 明日以降も一緒に帰ろ?」


 それでも、私は佐野橋と一緒に居る選択をした。嫌われるのを恐れて初めから関わらないなんて本末転倒でしかないから。


「うん! 勿論、毎日ね!」


 佐野橋が笑顔で返してくれて、私は心の底から湧き上がってくるような喜びを実感した。

 演劇の大会で初めて賞を取れた時のような、あの感覚。自分が認められたんだというあの感覚。

 ただ一人の人間と一緒に帰れるというだけでこれなんて、私も甘くなったものだ。


「でもさ、七、なんで部活やめてから虚しいって思うようになっちゃったの?」

「あー......なんでだろう。今までずっとなんかしてたから、放課後何もしない事への抵抗感みたいなのがあったんだよね」

「でもさ、ほんとに何もしてない訳じゃないよね?」


 言われてみればそうだ。家に帰ってする事は多い。それなのにも関わらず私は虚しいままでいる。何故だろう。


「......多分私、部活をしてるって事実で満足してたのかもしれない。心のどっかで、部活サボって家に帰って、それが良くないってイメージがあるから、こんなに虚しいのかも」


 自分でも驚く程スラスラ言語化できてしまった。悩まされてきた虚しさがこの一瞬で解決しようとは!


「なるほど......じゃあさ、提案があるんだけど......」


 何か思いついたように佐野橋が自慢げな顔をする。








「帰宅部を、ほんとに部にしない?」

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