第25話ハイラに吹く新しい風の予感

 それからハイラの文化・マナーを猛勉強。婚約式の準備もこなして、慌ただしくひと月が過ぎた。

 すっかり元気になったスカイフォード様は、休んで鈍っていた体力を取り戻すために、毎日剣術の稽古に励んでいる。


(風邪の次は、怪我でもしたらどうするのだろう…)


 と心配もしたけれど、その時は治癒魔法があるのだから便利なものである。

 風邪も魔法で治せば良かったのにと思ったけれど、風邪はどうやら魔法では治せないらしい。


(変なの)


 うん、と伸びをする。机に散乱する沢山の歴史書やマナー教本に隠れたミステリ小説に手を伸ばした時、ノックが響いた。

 慌てて手を引っ込める。


「失礼します。アイリス様にお客様でございます」

「…私に?分かったわ、すぐに行きます」


 あれからフォンミーも変わらずに仕えてくれている。彼女の淡々とした仕事ぶりは、私をいつも安心させてくれるのだ。

 これがもし距離感の近い侍女であったら、私は裏切られたあの日を、きっと毎日思い出してしまうから。


「…手が伸びている小説のことは見なかったことにして差し上げます」

「うっ…」


(それにしても、相変わらずよく見ている)





 応接間には、スターレスカ様とシャウダン伯爵が揃っていた。


「スターレスカ様、シャウダン伯爵様、ひと月振りでございます」

「いよいよ明日、婚約式ですわね。楽しみだわ」

「招待客の皆様にも喜んでいただける様努めますわ。それで、今日はどの様な御用向きでしょう?」


 ふふ、と微笑み合う二人の距離は近い。まさか、と思った。


「私たちも無事に婚約する運びとなりました」

「まあ!それは良かったですわ!おめでとう御座います!」

「本日はそのご報告に」


 二人はお互いを何度となく見つめ合っては微笑んでいる。このひと月で深まった愛情は、どうやら計り知れないらしい。


 シャウダン伯爵は、大人の落ち着きと気品に溢れていて、前回の印象を大きく払拭した。


(この方は、ズレたメガネも直さずにスターレスカ様のために走ってきたのだものね)


「…そういえば、シャウダン伯爵はクリアグラスをされないのですね」

「え?ああ、この眼鏡ですか?」

「突然すみません。私はものすごい近眼なので、スカイフォード様にクリアグラスを着けてもらったので…」

「私のこれは魔道具なので、視力を調整するそれとは異なります。そうだ、自己紹介が遅れておりました。私は石油の輸出を生業としております」


 石油はハイラの一大産業である。ならばシャウダン家の資産は相当なものになりそうだ。その資産を使い尽くした元妻というのは、どれほどに金遣いが荒かったのだろう。

 かちり、と魔道具だという眼鏡をかけ直して彼は続けた。


「この眼鏡は地層を調べることができるのです。どこから採掘するのが一番良いのかなど、そういったことに役立ちます」


 そんなことができるのか。ハイラは魔法力よりも、その応用力で発展してきた国なのだろう。

 イサクよりもかなり進んだ文化を目の当たりにして、呆気に取られてしまう。


「ハイラに来てから、驚かされることばかりです」

「しかし…ハイラは他国に売るばかりではなく、自国にももっと目を向けなければ…。石油だって無尽蔵に湧くわけではない。やがてこの国の資源は枯渇する」


(そういえば、スカイフォード様も以前その様な事を危惧されていた)


 シャウダン伯爵は「それで」と言うと、すっと書類を差し出した。


「これは?」

「以前スターレスカ殿にプレゼントした、オランジェットをぜひハイラで売り広めたく思います。その為の、チョコレート及びオレンジの輸入計画書です。それから、こちらはそれを製造及び販売する菓子店の計画書ですね」

「これを私に、なぜ?」

「端的に申しますと、ぜひ私達と輸入品の加工販売を手掛けてみませんか」

「えっと…どうして私なのでしょう?オランジェットはたまたま私が好物だったから持ってきただけで、輸入の知識など…」

「勿論、細かいことは私が担います。ハイラの商人はみな、どうにも『売ってやっている』という意識が抜けない。だから石油以外はあまり上手くいかないのです。アイリス様はその潤滑油となりえると」

「私がイサクだからですか?」

「正直それもあります。それ以上に、アイリス様は我々の知らない物を知っている新しい風なのです」

「買い被りすぎですわ。私こそ、ハイラでは初めて知るものばかりです」

「ええ!ですから、きっとお互い情報を交換する良い機会ではないでしょうか?」


 スターレスカ様は、にこやかに私達を見つめて紅茶を啜りながら、会話の行方を見守っている。なんだか少しだけ羨ましい。私はスカイフォード様が執務に励む姿など、あまり見ることができない。


「ですが、私の独断では…」

「勿論、殿下や国王陛下にご相談して下さい」


 シャウダン伯爵は、商売の話をするとき、十歳は若く見えるので不思議だ。

 汗をかいた額をハンカチで拭っている。それほどの熱量を持って私を誘ってくれているのかと思うと、協力したい気持ちが膨らんだ。


(冷たいお茶の方が良かっただろうか)

と思い、ファンミーに持って来させた。


 グラスに浮かんだ氷が涼しげな、涼茶が運ばれる。

 シャウダン伯爵は、「これはありがたい」と言って一気に飲み干した。


(一生懸命誘ってくれるのは嬉しいけれど、国王陛下やスカイフォード様が首を縦に振るかしら)


 今、私の立場がものすごく微妙だと言うことは十分自覚している。

 私の心を見透かすかのようにシャウダン伯爵は言った。


「アイリス様がこの国にいかに国益を齎すか、国民に示すチャンスだと私は捉えております。良いお返事を期待しております」


 なんだか、大変なことになってしまった。

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