第4話 瘴気
その日、氷華は一枚の怪異報告書を押し出した。
学校内部ではなく外部の情報だ。地図を引っ張りだし、照らし合わせて地域を特定する。
街を見下ろす高台にある公園。
小高い山の上まで続いている小さな緑地公園で、高台の方は街を一望できる。このあたりの人々の憩いの場だという。
――このくらいなら、歩きでも行けそうですね。
放課後になって生徒達があらかた下校してから、学校を出る。日中はまだ暖かかった日差しも、夕暮れが近づくにつれて彼女にとっては過ごしやすい空気になっていた。冷たい風が吹き抜け、彼女の黒髪と制服が揺れる。彼女はときどき地図を手にして、目的の公園へと赴いた。
目的地にたどり着くと、周囲を林に囲まれた広い公園があった。舗装された道は、高台に続く長い階段へと続いている。遊具もあるが、時間のせいか子供連れはさすがにいない。代わりに犬の散歩中とおぼしき学生や、腕を振ってウォーキングをしている老人とすれ違う。緑地公園としては小さいが、公園としてはずいぶんと広い。ちらほらと人影はあったものの、高台の階段を登ると途端に誰もいなくなった。高台は夜景を見られるように作ってあるだろうに、どことなく陰鬱な空気が漂っている。
「……うん。見立て通り」
メモを取り出す。
最近、高台公園で小さな事故が頻発しているせいか、気分が悪いとか、不気味だとか言われることが多い。高台から自殺した女の霊だとか、呪われているとか、そういう噂まである。
呪いや幽霊なんてのは管轄外だったが、明確にそうした類のものは見つからなかった。
その代わりに、地面近くに小さな黒い煙のような、霧のようなものが渦巻いているのが見えた。
瘴気だった。
普通の人には目に見えないが、なんとなく気分が悪いとか、不気味だとか感じやすいのは瘴気が溜まっているせいだ。人が多ければ多いほど、負の感情や淀みによって溜まっていく。それが瘴気というものだ。これだけなら、なんだか気分が悪いだけで済む。けれどもそれが不調やミスの原因になることもあるし、人によっては多大な影響を受ける。
――……。
おまけに、瘴気は人の噂や信心によって徐々に形を獲得し、その姿を得て、時には怪異へと変化する。実際に自殺した女がいなくても、誰もが信じることで、瘴気が自殺した女へと変異することがある。
普通なら、退魔師や祓い師と呼ばれる人々が浄化して片付けるものだ。
誰もいないことを確かめてから、彼女はその場に立ち尽くした。拳に冷気を集める。彼女に浄化はできやしない。しかし、凍らせることはできる。冷気が瘴気の固まりのひとつを捕らえると、次第に氷の塊になってその場に収束した。彼女はその様子をじっと見つめてから、指先を上から下へとゆっくりと動かした。
その途端、浮き上がった氷の塊が地面にすべて激突し、粉々になって砕け散った。
「……こんなもの……ですかね?」
氷華は少しだけ戸惑った。
あっけないというべきか、果たしてこれでいいのか、と誰かに聞きたかった。
誰も答えをくれない。くれるはずがなかった。
退魔師が行ったわけではないから、清浄ではないが、瘴気も無い。多少は噂が蔓延っても、基になるような瘴気が無いから怪異が現れる前に噂は消滅してしまうだろう。
こうすることが一番いいと彼女は思っていた。
悪戯や悪いことをしたわけではない。しかしなんとも言いがたい焦燥感とむずがゆさで彼女は逃げ出すように踵を返した。
――とにかく。とにかくこれでいきましょう。これで……。
退魔師の代わりに、瘴気を掃除し続ける。
これが彼女のいまの目標だった。
――これで、『約束』が果たせるなら。
鞄を抱えて高台公園から急いで階段を降りる間、氷華は誰とも出会わなかった。
――このために、あの学園に潜入したのだから……!
氷華は急いで帰路につく。これが自分にとって正しいことであると、言い聞かせながら。
翌朝、氷華はいつもと変わらず学校へと向かった。
特に変わったことはない。教室に行く前に生徒会室に寄ったが、自分が作ったシステムはそのままだったし、教室棟に入ってからも、最初に抱いた印象と特に変わらない。
教室の前で少しだけ息を整える。誰が閉めたのか、教室の扉に手をかけようとした。
「よっ。氷華、おはよう!」
「ひゃっ」
独特のイントネーションと、突然声をかけられたことにびっくりして目を丸くする。
後ろを見ると、夏樹が立っていた。
「やー、今日もかわええなぁ! ……どうした?」
「い、いえ、なにも。……おはようございます」
いつも通りだ。
何かが変わるはずはない。お互いに見つめ合う恰好になる。
「……あ!」と叫ぶ夏樹。
「え!?」
「もしかしてようやくオレに惚れちまったか!?」
「それは無いです」
「あははは! 直球やなあ!」
笑いながら、何事もなかったかのように夏樹は教室の扉に手をかけて中に入っていく。逆に、ほっとした。
普段通りだ。少なくとも、普段通りのように見えた。それなら、これでいい。氷華は夏樹に続いて教室へと入った。
「あー! おはよう、神宮寺さん!」
陽葵が声をかけてくる。
「おはようございます」
氷華はにこりと笑いかけた。
人間として、人間社会に溶け込む。雪女としての能力のひとつは、遺憾なく発揮されていた。
それは彼女の日常のひとつに組み込まれていった。
一週間、二週間が経つ頃には、氷華は作り上げられた日常を完璧に着こなしていた。
「失礼します」
職員室へと入る時の礼儀も、しっかりと身につく。
「久保田先生。B組の提出物をお持ちしました」
「ああ、ありがとう神宮寺」
教師の名前も次第に頭に入ってきた。一度掌握した以上、普通にしていれば、こちらから変に媚びを売る必要も無い――。それ以上は逆に身を危険にさらすだけだろう。いまのところは大人しく、自分の約束を果たすことを考えればいい。それに、神宮寺の名前を使えばたいていの事はなんとかなった。
人間というのはこんなものかと思い始めていた。
――……他愛もない。
その日も授業を終えたあと、生徒会室に急ぐ。
執行部からの報告書に加えて、このあたりの噂が入れられている。同じ噂もあれば、別の事故もある。自分の仕事に取りかかる。執行部からの報告書に目を通したあとは、学生たちから寄せられた噂をひとつひとつ検分していく。
――これは……。たぶん、不審者情報ですね。こっちは先生たちの方に回しておきましょう。
――こっちは、事故……。それと、こっちは……。
生徒会長から回されてくる不審者や事故の情報は重宝されるようになっていたし、学生たちから寄せられる情報も少しずつ増えていった。
レザーチェアに背中を預けて一息つくと、窓の外に目をやる。
「……おや」
はらり、と空から落ちてくるものがあった。
――これはまた、幸先が良い。
彼女を祝福するように、雪が降り始めた。
しかし、まだ雪の季節には早いということに彼女が気付くのは、もっと後のことだった。
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