第17話 その背中
「……いない?」
セリスが王宮で迎える最初の朝。
常識の範囲内では早めの時間にセリスの部屋を訪れたゼファードは、不意打ちを食らう。
部屋はすでにもぬけの殻。姫付きの女官達が緊迫した様子で「さらわれてしまって」と他の兵士に詰め寄り、「あれは人さらいではなく上司だから」という妙な会話をしている有様。
ゼファードは、唇をひくっとひきつらせ、額を手でおさえて呟く。
「うーん……。ラムウィンドスめ、そうきたか」
* * *
ゼファードは、すぐに王宮中庭の練兵場に向かった。そこには、総司令官直々に剣の稽古をつけられている幸福の姫君の姿があった。
「私のかわいい姫に何をさせているんだ!?」
簡素な
「何、とは。見ての通り。姫の鍛錬の成果を確認していた」
背後では、朝の訓練に勤しむ第二師団の勇ましい掛け声が響いている。
長い髪を風になびかせたアーネストが、素振りをする一団の前を早足で歩いていた。
兵たちの動きは実にうつくしく統制がとれており、一切の無駄を感じさせない。軍隊の模範たるべき姿がそこにあった。銀の髪の少女が紛れ込んでいても、誰一人浮ついた態度を見せていない。
素晴らしい。
素晴らしすぎたが、ゼファードは不満を爆発させた。
「体を鍛えることはあっても頭は鍛えることのない我が軍の総司令官に無理なお願いをした私がバカだったよ! 姫になんて格好をさせているんだ!」
「騒ぎたいだけなら、横に避けているように。何、とはこちらが聞きたいところだ。どうして姫はこんなに弱いんだ」
こゆるぎもしない、きつい眼差しにあてられ、ゼファードは横を向く。
「十五歳の姫に、どんな強さを期待していた」
視線だけ流しながらゼファードが言うと、ラムウィンドスは重々しい口ぶりで答えた。
「姫には、身を守れる強さを。せめて、危険が迫ったときに、そうと気付いて逃げられるだけの体力をつけさせる」
「体力」
感心とも揶揄ともとれぬゼファードの呟きに、ラムウィンドスは表情を変えることもなくつけ加えた。
「知恵は王子から与えるように。俺は、俺のなすべきことをする」
音もなく歩み出す。
象牙色の
人を寄せ付けない厳しい物言いが多いくせに、その背に心酔しきった熱視線を送る部下が、いかに多いことか。
若さと見た目で、その戦いぶりを知らぬ文官たちからはお飾りとも陰口叩かれている現総司令官だが、いざ戦場に出たら、王よりも王子よりも信頼と熱情を集めるのは予想に難くない。
必要なときに、その能力を出し惜しむような男ではないのだ。
ゼファードもまた兵たちと同じくその背に視線を向けながら、吐息まじりに呟いた。
「知恵は王子から、か。よく言う」
* *
セリスが大慌てのマリアと選んで身に着けたのは、離宮で常日頃まとっていた装飾性のない
それでも、廊下で待機していたラムウィンドスは、顔を合わせるなりひどく冷たい口調で「却下」と告げた。その上で、アーネストが用意していた動きやすい服一式を渡された。
「稽古のときは、気持ちから兵士になるように」
断る理由はなかったので、セリスは素直に着てみた。しかし、それがどうもゼファードの気に召さなかったらしい。
「兄様……、この装いは、似合わないでしょうか」
あまり機嫌の良さそうではない様子に萎縮しながらそう尋ねると、ゼファードはぐしゃぐしゃと髪をかきまぜつつ、なぜかヤケっぱちな勢いで「まさか!」と高らかに言い切った。
「私には少年を愛でる趣味はないがね。たとえば、客観的に見てアーネストが類稀なる美貌だってことはわかるが、男である以上私にとってはカナブンみたいなもので、まったくそそられない。だがしかしだよ、我が妹姫のうるわしさときたら、たとえ兵装に身をやつしていてもまぶしい限りだ。美の神に愛されてしまった悲劇の神話の少年とはかくやというほど様になっている。姫だとわかっていても、胸をかきたてられずにはいられないよ!」
セリスは小首を傾げ、そばにいたラムウィンドスに尋ねた。
「カナブンってなんですか?」
「虫だな。よく飛ぶ」
「アーネスト団長って、飛ぶんですか?」
「王子にはそう見えるらしいな」
ゼファードは髪をかきむしり、胸を抑えていた。息苦しそうだった。それから、呼吸を整え、何かを断ち切るように顔を上げると、ラムウィンドスをぎりりと睨みつけた。
「それで、姫へのこの訓練はいつ終わるんだ?」
「心配せずとも、終わり次第、俺が部屋まで送る」
「心配せずとも? この状況を見て私が『ああそうかい』なんて言って帰れると思うかい?」
「帰れないのか? 道を忘れたなら誰かに送らせよう」
「まったく、お前の失礼さには度肝を抜かれるね!」
「わざとだからな」
悪びれなく、ラムウィンドスは言い切った。
ゼファードは、ふっと目を細めた。
探るような視線を流す。ラムウィンドスはそれを泰然自若とした風情で受け止める。ゼファードは、目を伏せて浅いため息を吐いた。
「ここは私が折れる。但し、限度はわきまえてくれ。姫には他にもなすべきことがたくさんある。それこそ体力がもたなくては困るし、何より姫が心配だ。いいね」
「言われずとも」
二人の間で話し合いがついた気配を察し、セリスはほっと胸をなでおろす。
「良かった。身体を動かすのって、楽しいなぁって思ってたところなんです。離宮ではこんな風に本格的に何かを教えてもらう機会なんてなかったから……」
頬を染めて呟くセリスを、ラムウィンドスは無感動な面持ちで眺めていた。
何か言うのかな、と待つセリスに、不自然な沈黙を経て、ぶっきらぼうに告げる。
「姫、では訓練の続きを。時間がもったいない」
「はい!」
二人は訓練に戻り、ゼファードは重い身体をひきずってすごすごと建物の中に引き返して行く。
そして一人呟いた。
「あいつ、姫が『立ち回るのが下手』の意味を完全にはき違えてる……」
口に出してから、ふっと先程のラムウィンドスが思い出された。
(……ラムウィンドスの、私への態度が加速度的に悪くなっている気がする。姫が王宮に来たことに関係しているのなら、面倒なことになったかもしれない)
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