魔女の条件

篝 麦秋

序章

 魔女、危篤。


 しらせを受けた私は、切符を片手に新幹線へ飛び乗った。高層マンションが迫り来る景色がひととき緑の山に変わると、暗いトンネルに入る。ガラスに映る自分の顔は強ばっていた。なんて不安げなんだろう。あだ名が魔女の自分でも、肉親の死は堪えるのか、やっぱり私も人の子なんだなと思い知らされた。


 端末が震えた。恋人からのメッセージ。明け方に必要最低限の荷物を見繕って飛び出してきた私の痕跡に、寝起きの頭は幾度となく自省したのだろう。


 ――オレが何かしたっていうならごめんなさい、謝ります、ごめんなさい、だから帰ってきてください、なんで、どこ行ったの、いつ帰ってくるの、連絡待ってます……やっぱ無理、待てない、今すぐ返事ください、お願いします、行き先だけでも教えてください……オレじゃなくてもいいから誰かに行き先……今どこなの、すぐ帰ってくる?


 あなたに思い当たる節なんかあるはずないのよ。車窓の私は笑っていた。本当、笑わせてくれる。この男、顔は上出来なのに、いや顔に全部奪われたんだろうね、頭がすかすかだ。人がすぎて、なんでもかんでもはいはいやります任せてくださいと答え続けた結果、どういうわけか今は社長だ。奴隷同然の扱いを受けていた人々を社員として受け入れて、人を人として見るという当然のことをしただけなのに、経営は順調だった。若手敏腕社長が、実は考えなしのただのアホだなんて、誰も知らなくていい。私だけ知っていれば、それで。


 ――母親がもうすぐ死ぬらしいの。だから看取ってくる。


 短いメッセージを送信して電源を切った。トンネルを抜けると、景色の色合いが緑からモノクロへと切り替わっていく。実家は海沿いの町だった。というと潮風に見守られた港町を想像されるが、ぜんぜん違う。黒い溶岩石にごうごうと吹き荒れる風が波をたたきつける。その波にもし人がまぎれていたら確実に死ぬね、という強風が四六時中吹いている土地が、私の故郷だ。事実、むかしは近くの砂浜によく死体が流れ着いたらしい。海への恐怖は心に根を張るまで植えつけられていた身、夏だ海だ海水浴だなんて願い下げ。二度と見なくて済むなら命が助かる、というくらい。

 それでも、どうしても顔を出しておきたかった。


 触るだけで擦り傷を負わせてくる無情な岩肌を持つ崖の真下では、今日も白波が舞う。岩場にぶつかるたび、波は体の一部がもげてちぎれて砕かれて、でもまたすぐに元どおり。そしてまた散り散りに。離れて近づいて、近づいて離れて……終わりのない海の旅。すべてのものに終わりはあると誰かが言ったが、どうか、この海にはそんなものありませんように。


 突き出した岩場の先端にあるお墓は、パッと見にはその辺の岩を立てて適当に造ったようにしか見えない。魔女はここに私を連れて来て、手の合わせ方を教えてくれた。一人でも来た。魔女の娘っていじめられたとき、人前では決して泣かなかった。でもここでなら、涙を流しても許されるような気がした。泣いたら、頬にあたる風が弱まって、まるでなでてくれているような気がしたから。


 新幹線を待つあいだ、駅の売店で花を買った。持ち合わせで買えたのは二本のバラだった。真っ赤なバラ。真っ赤すぎて、花びらがもう熟れすぎて、溶けて、腐る一歩手前。いくら持ち合わせがなかったとはいえ、ひどかったね。でも、これはこれでキレイだと思った。お墓の前で掲げたあと、海に放り投げた。


 みんな、見て。私帰ってきたよ。


 白い外壁も、寄る年波には勝てなかったようだ。灰褐色にくすんだ壁の手前で整列するラベンダーは、夏の宵空色の花を咲かせている。芳香剤とは違い、命ある植物が放つ香りの生々しさは、生きているからこそ感じられるのだ喜べといった傲慢さが少なくない。


「ただいま」


 傲慢な香草は手がかかる。危篤と連絡をよこしたわりに、何をやっているんだか。私は肩をすくめた。

 ラベンダーとばかり顔を合わせていた白髪の女性が振り返る。


「おかえり」

「私は詐欺にでも遭ったの? すっごく元気そうな母親が見えるんだけど」

「この健康そうな母親はもうすぐ死ぬんだよ」

「なんでわかるの」

「魔女だから」


 これを鼻であしらえたら、私は魔女の娘なんていじめられなかった。

 彼女は本物の魔女なのだ。


「あんたも帰ってきたことだし、それじゃあ、本当に危篤っぽく振る舞おうか」


 魔女は地面にシャベルを突き刺し、立ち上がるなり両手をはたいて土を落とす。もうすぐ死ぬと言うわりに、また明日手入れをするからねとラベンダーに言い残したようだった。

 本当に危篤っぽく振る舞うようで、魔女は家に入るとすぐベッドへ潜り込んでしまった。背の高いラベンダーが顔をのぞかせる窓際で、そんなふうに横たわられると、なんだか本当に、もうすぐ逝ってしまうように見える。深いしわとくすんだシミが刻まれた頬や、荒い骨と太い血管の目立つ手の甲をまじまじと眺めていると、魔女が歩んだ歳月の長さを感じられる。


 改めて、ああ死期がやってきたのかと思う。

 魔女にも、死ぬときが来たのかと。


「お墓どうしようか。庭に作る?」

「灰も骨も海にぶん投げてくれていい。岩場にお墓があるだろう。あれは海で死んだ連中の墓だから、灰だけでも海に沈めば、同類と見なしてくれるはずだから」

「あれってそういうお墓だったんだ」

「この辺はむかし、よく死体が流れてきたんだよ」


 その供養塔だよ、と魔女は窓の向こうを見てつぶやく。ここは防風林にさえぎられて、海の風景はおろか潮風も飛んでこない。自然に守られた、魔女が選んだ土地だ。

 ふと、魔女が顔をこちらに向けた。濁りのない黒い目は、今、何を映している?


「そうか、そうだったね。死ぬわけだから、話しておかないわけにはいかなかったね」

「何を? ってまあ、この際だからじゃあ、父親がどんな男だったのか教えてよ」

「むかしの話だよ」


 家の外壁が、白く輝いていたころの話だと言う。

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