未來のアダム
篝 麦秋
Ⅰ
人は、死ぬとほんの少しだけ軽くなる。
それはそれは微々たるもので、何十グラムという世界の話。
その失われた重みを、魂が抜け出てしまったからなのだと耳にした人は改めて実感する。魂にも重さがあって、それを失って軽くなってしまったこの人はもう、死んでしまったのかと。そして遺族は、大事な人の死をようやく認め、悲しむという段階へ突入できるようになる。
そうして苦痛を乗り越えようと必死な人々に、よけいな説明はしない。
だからといって無粋なまねをしたことは一度もなく、悲しむ人々の肩に手を添えては、死体検案書を渡していった。
「晴子さん。先日三歳の男の子を亡くした女性、覚えていますか」
補佐役にふと聞かれ、記憶を探る。
けれどもそれは――彼には想像もつかないのだろうけど、ひどくつらい。子どもを亡くした親を見るときほど忍びないものはなく、できるなら思い出したくも、記憶に刻みたくもなかった。
「三歳の男の子ってことは、部屋から転落して亡くなった子よね? まさか事故じゃなかったの?」
「いえ、そうではありません」
事故と事件では話が違いすぎる。その微妙なラインを見極めなければならない監察医の責任は、非常に重い。判断によっては大勢の人の人生を狂わせる。もちろんそこには自分も含まれた。生やさしい覚悟でつとまる仕事ではなかったが、覚悟を決めたからこそ、よりいっそう生きている人間を大事にできるようにもなった。そんな気がするのに、いつもふらりといなくなるあの人にはまったく困ったものだった。
「その方から電話が来たんです。息子が生きているって」
「生きている?」
思わず眉をひそめ、急いで記憶から親子の姿を探した。
その子どもの検死をしてから何日経った。彼に訊ねると七日と返ってきた。母親に渡した死体検案書は死亡届として、役所に提出すると火葬許可証が発行される。そこではじめて火葬ができ、火葬が済むとその用紙は死体埋葬許可証となって返ってくる。
七日。いくらドライアイスで腐敗をとどめて葬儀場の空きを待ったとしても、多すぎる数字だった。そもそも死亡届は死後一週間以内に提出しなければ軽犯罪法違反にあたる。母親が、子どもはまだ生きていると信じて葬儀を行わせないのだとしても、あの子どもにはそれが当てはまらない。
男の子は、母親を守る強い男になりたかった。テレビで見たスーパーヒーローが強くてかっこよくて、僕もあんなふうになってママを守るんだ。
ママ、見てて!
彼は母親に喜々としてそう告げて、マンションのベランダから飛び降りた。キッチンにいた母親が死にもの狂いで駆けつけても間に合わない。背面からコンクリートの地面に落ちた、後頭部の粉砕骨折による脳の損傷が著しかった。誰が見ても、一目で死んでいるとわかるほどだった。
それが七日も経って、実は生きていた?
「いえね、髪の毛が伸びたんだそうです。男の子で、丸刈りだったでしょう。その短い髪の毛が、ほんの少し伸びたそうで。だからこの子は生きていると言い張って、葬儀をしないでいるようで」
「髪の毛がって……水分の飛んだ皮膚が縮んで後退して、相対して髪の毛が伸びて見えただけよ」
「そう説明しました。もう腐敗も始まっている時期でしょうし」
まさか本人に? 晴子の不安を先に読みとった彼は、いえいえと苦笑いして続けた。
「本人ではなく、ご家族の方にです。あの方、旦那さんも不慮の事故で亡くしているらしいので」
息子を亡くして気が動転している彼女に、手を添えていた男性の姿を思い出す。
ああ、彼は人ではなかったのかと、今さら記憶に後付けした。
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