シュレディンガーの恋

@Eclair_Au_Chocolat

第1話

 量子物理学の世界では「観測するまで物事の状態は確定しない」と言われている。

例えば、とある小さな粒が一定の確率で崩壊する性質を持っている。これらは見た目で崩壊するかの判断が付かないので実際に目視するしかない。このような場合、この粒は、崩壊する可能性と、しない可能性が共有されているのだと言う。これが「観測するまで物事の状態は確定しない」と言う主張である。これを否定するために提唱されたのが「シュレディンガーの猫」と言う思考実験である。猫を箱に入れ、その小さな粒が崩壊すれば箱に毒が入る装置を作る。すると猫は死んでいる状態と生きている状態の両方を併せ持つのか?と反論したわけだ。 結局今日では、「観測するまで物事の状態が確定しない」と言う考えが主流だ。その為シュレディンガーの猫は、元々の主張に反して……


 本の上を目が滑る。要するに観測した瞬間に猫の生死は確定すると言う事だろうか。本の片側を人差し指で抑え、そのまま閉じた。視線を上げる。朝7時の電車の中は、僕と同じ高校生が点々としていた。6両編成の先頭、1号車の扉横の座席が通学時の僕の定位置だった。この時間は人が少ないので、改札に近い中央の号車でも座ることは出来る。ただ、読書をするには学生ばかりなのでうるさいのだ。

 視線を正面に戻す、向かいの座席には誰もいない事を確認して、さらに視線を横にずらす。ドアの上の案内板が駅名を示していた。電車が停止し扉が開く、一人の女の子が先ほど確認した空席、つまり僕の向かい側に座った。断っておくが、この子の前に座るために、この定位置を選んだ訳ではない。

 彼女は僕が定位置を決めてから半年後ぐらいに来るようになった。それだけなら僕も気に掛けなかっただろう。問題は本だった。彼女も本を読みやすい環境を探して、この一号車に辿り着いたのだろう。座るなり本を広げて読んでいた。僕が読んでいるのと同じ本を。正確には彼女が上巻、僕が下巻だったが、ほぼ同じ本と言っていいだろう。それ以来、彼女に対して親近感を感じていた。いつしか彼女が乗ってくる駅を心待ちにしている自分が居る。これは恋なのだろうか。一目惚れなど迷信だと思っている。名前どころか声も聞いたことも無い。ただ同じ本を読んでいるだけで恋をするものなのだろうか。自分でもよく分からなかった。彼女は僕が降りる駅の三つ手前で降りる。どこの高校に通っているかは知らない。分かっているのはブレザーが制服の高校だと言うぐらいだ。彼女に声をかける気は無かった。話をしてみたい気持ちはあった。本の感想を聞いてみたり、なぜその本に行きついたのかを知りたかった。しかし、それ以上に怖かったのだ。別に本に対して何のこだわりも無いかもしれない。僕が好意を抱いているのは、ただ僕の想像する彼女なのだ。実際にどのような人なのかは関わりらなければ分からない。観測すると事象は確定してしまうのだ。

 彼女は僕など眼中にないだろう。もし僕を視界に収め、それについて何か思考を巡らせたのなら、その瞬間にこの気持ちの結末が決まってしまう。

 僕は猫を殺したくはない。それならいっそ可能性が存在したままの方が良い。

 彼女が降りる駅で電車が停まる。彼女はカバンに本をしまいながら降りていく、途中チラリと視線が合った気がした。急に視野が狭くなり、鼓動を感じた。これが喜びなのか、絶望なのか判断がつかなかった。

 次の日から、彼女は電車に乗ってこなかった。始めは体調不良かとも思ったが本を読み終えても、彼女が定位置に来ることは無かった。別の定位置が決まったのかもしれないし、バス通学にしたのかもしれない。どちらにしても僕には関係が無かった。元々確定させる気は無かったのだ。 そう自分に言い聞かせながら誤魔化すように新しい本に目を落とす。


転校初日、少女は電車に乗り、本を広げる。新しい家、新しい学校、そして新しい制服。変わらないのは読みかけの本だけだった。マイナーな本の下巻。引っ越しのバタバタで読みかけのままだった。少女はふと目線を上げる。向かいの座席には誰もいない。

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