第6章:「狂気の渦」

 イザベラ警部の警察署の警部室は、昼夜を問わず明かりが灯されていた。壁一面に貼られたミアの写真が、異様な雰囲気を醸し出している。イザベラは、血走った目でそれらの写真を凝視していた。彼女の指先が、ミアの顔を優しく撫でる。


「ミア……私の愛しい子……」


 イザベラの声は、かすれていた。何日も眠っていないのだろう。彼女の机の上には、山積みの書類が乱雑に広げられている。その多くは、ミアの母親とその恋人の殺害に関する「証拠」だった。しかし、注意深く見れば、それらが全て偽造されたものだということがわかるだろう。


 イザベラは立ち上がり、窓際に歩み寄った。街の灯りが、彼女の憔悴した顔を照らし出す。


「全て、あなたを守るため……正義のため……」


 彼女の目に、狂気の光が宿る。イザベラの中で、「正義」の定義が完全に歪んでしまっていた。


 翌朝、警察署の会議室。イザベラは、全警官を集めて緊急会議を開いた。


「諸君、今日からミア・アンダーソンの保護収容作戦を開始する」


 イザベラの声に力強さはあったが、その目は異常な輝きを放っていた。警官たちの間で、動揺の空気が広がる。


「しかし、警部……彼女は未成年です。しかも何の罪も犯していません」


 若手の警官が、恐る恐る口を開いた。


 イザベラの目が、鋭く若手を射抜く。


「彼女は重要な証人だ。我々の……私の正義のために、絶対に必要な証人なのだ」


 イザベラの言葉に、狂気の色が濃くなっていく。警官たちは、不安そうに視線を交わした。しかし、誰も強く反論することはできない。イザベラの異常な雰囲気が、警察組織全体を支配し始めていた。


「作戦は今日の夕方から開始する。街中のあらゆる場所を捜索し、ミアを確保せよ。必要とあらば、街の封鎖も辞さない」


 イザベラの命令に、警官たちは黙って頷くしかなかった。彼らの中にも、正義の名の下に行動することへの疑問が芽生えていたが、それを口に出す勇気は誰にもなかった。


 会議が終わり、警官たちが退室していく中、イザベラは再び壁に貼られたミアの写真を見つめていた。


「もうすぐだ、ミア……もうすぐ私のものになる……」


 イザベラの狂気は、もはや誰の目にも明らかだった。しかし、誰もそれを止めることはできない。歪んだ正義の名の下、街全体が狂気の渦に巻き込まれようとしていた。


 イザベラは再び自分の事務所に戻り、机の引き出しを開けた。そこには、ミアの幼い頃の写真が大切そうに保管されていた。イザベラは、その写真を手に取り、胸に押し当てた。


「ミア……あなたは私の娘だったのよ……」


 イザベラの過去が、彼女の記憶の中でフラッシュバックする。15年前、彼女はまだ若き警官だった。ある日、麻薬取引の摘発作戦中に、一人の赤ん坊を発見した。それがミアだった。


 当時のイザベラは、その赤ん坊を我が子として育てることを決意した。しかし、彼女の仕事の忙しさと、心の闇が、その決意を挫折させてしまう。結局、ミアは養子に出されることになった。


 それ以来、イザベラは密かにミアの成長を見守り続けてきた。しかし、その思いは次第に歪んでいき、今では完全にいびつな執着と化していたのだ。


「私が……私があなたを守る……どんな犠牲を払っても……」


 イザベラは、再び立ち上がった。彼女の目には、もはや理性の光は残っていない。ただ狂気と執着だけが、その瞳を支配していた。


「全ての警官を総動員せよ! ミアを見つけ次第、即座に連絡を入れろ! 私が直接保護する!」


 イザベラの叫び声が、警察署中に響き渡る。警官たちは、その異常な雰囲気に戸惑いながらも、命令に従うしかなかった。


 街には、不穏な空気が漂い始めていた。パトカーのサイレンが鳴り響き、警官たちが家々を訪ね歩く。市民たちは、何が起きているのか理解できず、不安そうに窓の外を覗いていた。


 その頃、サラのアパートでは……。


 イザベラの狂気が街全体を覆い尽くそうとしていた。しかし、その渦中にいながら、まだ誰もイザベラの本当の狂気の根源に気づいていなかった。それは、彼女の歪んだ愛情と執着が生み出した、恐ろしい妄想の産物だったのだ。


 街の喧騒が徐々に大きくなっていく中、イザベラは再び窓際に立った。彼女の目は、遠くを見つめている。そこには、幻のようにミアの姿が浮かんでいた。


「待っていてね、ミア……もうすぐ、私たちは再び一緒になれるわ」


 イザベラの狂気の渦は、今まさに頂点に達しようとしていた。そして、その渦は街全体を飲み込もうとしていた。サラとミア、そして全ての市民たちの運命が、今、大きく動き始めようとしていた。

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