(4)

 ***



 エイトは驚愕した。目を覚ましたら実に三ヶ月もの月日が経過していたのだ。


 自らの失態を悟る時間をわずかに挟み、小うるさい上司から査定に響くとおかんむりのお小言をいただく。しかしエイトの頭にそれらが入ったかどうかは怪しい。ほとんどは、右耳から入り左耳へと抜けて行った。


 上司から個人用のスマートフォンを返却してもらったのは、それから事故の再発防止云々という名目の聞き取り調査が終わってからだった。エイトは始末書に手をつける前に、返却されたスマートフォンでまずチャットアプリを開いた。


 しかしそこにはエイトの頭いっぱいを支配していた――ジジからのテキストメッセージはない。不在のあいだに着信があったというメッセージもない。


 会社から連絡が入ったので、ジジはわざわざエイトのスマートフォンにメッセージを送信したり、電話をかけたりしなかったのかもしれない……。エイトはしばらくしてからそのことに気づいたが、胸にかかった不安の雲は消えなかった。


 エイトはすぐにジジのスマートフォンに電話をかけた。


 しかし、通話することはかなわなかった。


 延々と続く電子音ののち、留守番電話サービスへの案内が流れるばかりで、いつまで経ってもジジは電話口には出てくれなかった。テキストメッセージを送信しても、既読マークすらつかない。


 エイトの脳裏に、嫌な想像ばかりがよぎる。


 ジジの身になにかあったのではないかと考え、いてもたってもいられなかったが、気持ちは急いても体は急かせない状態だ。なにせ三ヶ月ものあいだ、エイトは寝たきりだったのである。


 そもそも、仮に体が動かせたとしても医者がすぐに外出を許可するとは思えない。これからひと通りの検査をして、リハビリテーションを始めなければならない。エイトの現状は、そんな感じだった。


 エイトは会社の後輩に連絡を取って、自宅マンションの部屋を見に行ってもらうことにした。もしかしたら、中でジジが倒れているかもしれないし、具合悪く臥せっているかもしれないと考え、鍵を渡し、エントランスのロックを開けるための番号を教えた。


「いませんでしたよ」


 後輩はジジの存在は知っていたが、面識はない。そういった事情がなくとも、どこか常にドライな態度のこの後輩は、しれっとした顔でエイトにそう報告した。エイトが不安で不安で仕方がなくて、胃がねじきれそうなほどにジジのことを心配していることを察してもなお、だ。後輩はそういう人間だった。


「――留守だったってことか?」

「そうなんじゃないですか? 部屋の中も綺麗でしたし」


 エイトが知る限りでは、ジジが自らの意思で外出するのは食材を買い出しに行くときくらいであった。それ以外の、日用品はエイトと一緒に買いに行く。口で言って決めたわけではなく、自然とそうなっていた。


 留守にしていたということは、きっとジジは元気に動き回れる状態なのだろう。部屋が綺麗だったということは、今日までジジが掃除をしているということだろう。エイトはひとまず安堵する。


「あ、でも書き置きがありましたよ」

「……なんだって?」

「書き置きです。あと指輪」


 後輩は微笑を保ったままスマートフォンの画面を操作して、エイトの家で撮影してきたらしい写真を見せる。メモ用紙の書き置きと、その上にはエイトがジジに贈ったとおぼしきシルバーの指輪がぽつんと文鎮のように置かれていた。


『エイトへ


 しばらく家からばいばいします。


 わたしはだいじょうぶなので、さがさないでください。


 ジジより』


 後輩から見せられた写真に書かれた文言に、エイトは一瞬、思考を停止させた。そして次に体が、気まぐれな猫に蹂躙されたジグソーパズルのごとくばらばらと崩壊していくような感覚に陥った。


「愛想つかされたんですか?」


 この後輩には一切悪意はなかったが、思いやりもなかった。ただ、現状得られる情報からもっともあり得そうな結論を提示したに過ぎないのだが、エイトには酷な話だった。


 エイトは思わず口元に手をやり、顔を青白くさせて「は?」とか「え?」とかいう、吐息のようなセリフを口にすることしかできない。


 後輩はそんなエイトへ、かわいそうなものを見る目を向ける。


「逃げられたんですか?」

「ジジは……そんなことは……」


 「そんなことはしない」――そう言い切れたらよかったのだが、エイトにはそう言い切ることができない様々な事情があった。


 エイトは、ジジの無知につけ込んで一般的には婚約指輪と呼ばれるような指輪を贈ったのだ。左手の薬指につけるように「アドバイス」したのも、もちろんエイトだ。「変な輩が寄ってこなくなるよ」――なんて笑顔で言って。


 「事情」と言うか、エイトのそれは「悪行」であった。当然、エイトはジジとは違い、社会常識が備わっているから、己のそれが「悪行」であるという自覚はあった。


 いかにも善人といった顔を貼りつけて、無知なジジを騙しているという自覚は、常にエイトの中にあった。


 もし――ジジが、自分がエイトに騙されていることを、なにかの拍子に知ってしまったとしたら。


 青白い顔をして黙り込み、地蔵のようになってしまったエイトから興味を失った後輩は、「じゃあ、リハビリ頑張ってくださいね」と形だけの言葉を言い置いて病室から去って行った。

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