(3)

 意識不明の重体。


 面会謝絶。


 ジジがその電話で理解できたのは、エイトが死の水際を脱したものの、未だ意識が戻らず、また会社側の事情で顔を見ることも叶わないという現実だった。


 ジジはエイトが民間軍事会社と呼ばれる企業に勤めていることは知っていたが、それ以上の事情は知らない。だから会社側からの電話で説明された事情に、どれほどの妥当性があるのか判断できるほどの情報も、また社会性も持ち合わせていなかった。


 かろうじて、エイトは容態は安定しているが意識は戻らず、彼と会うこともできないという事実だけを呑み込めた。


 ジジはなんだか急に喉がカラカラに渇いたが、かろうじてその電話口で「エイトをよろしくお願いします」と言うことはできた。電話の向こうの声はジジの喉のように渇ききって、非常に事務的に聞こえた。それはジジの気のせいだったかもしれないし、会社側にとってはエイトは割合、どうでもいい社員なのかもしれなかった。


 だが、ジジにはわからない。わからないことだらけで、もしかしたらこの部屋から外の世界すべては、ジジの未知なのかもしれないと思えるほどに。


 ただ、ジジはエイトからクレジットカードを渡されていたし、ATMで現金をおろす方法も実地で教えられていた。エイトがしばらく帰ってこずとも、当面のあいだは問題なく暮らして行けるだろう。


 けれどもジジは不安でいっぱいだった。エイトの不在により、己が今後どうなってしまうのかという不安もあるにはあったが、大きいのはエイトが戻ってくるのかということだった。


 会社側はどんな状況で、どのような怪我をエイトが負ったのかまでは教えてはくれなかった。意識を失うほどの怪我を負ったことだけはたしかで、それがどれほどひどい怪我なのかとジジはその自身の「生い立ち」から容易に想像することができた。


 しかしなんだか空想の中でハッキリとした像を結ぼうとすると、胃が引っくり返りそうになったので、すぐにそれをするのはやめた。


 ジジは次いで手足の指先が冷たくなって行くのを感じて、びっくりした。臓腑から震えが立ちのぼってくるかのような、そんな心地を覚えて、不安になった。


 ――自分はいったい、どうしてしまったのだろう。


 ジジは再度、状況を整理する。実のところ先ほどからずっと、それの繰り返しをしていたが、ジジの思考はスリップした自動車のタイヤのように止まることを知らない。


 エイトは、しばらくは帰ってこない。帰ってこれない。


 ジジは、そのあいだひとりで生きていかねばならない。


 ジジが本当の意味でひとりぼっちだった期間は、人形兵として「製造」されてからエイトに「支給」されるまでのあいだのことだ。それはほんのわずかな期間で、自己の意識が生じてからのほとんどはエイトと共にあった。


 けれども、今、ジジはひとりぼっちだ。


 ジジは無意識のうちに大きなため息をついていた。そして天板がガラス張りのローテーブルにスマートフォンを置き、かたわらに置かれた三人がけのソファに腰を下ろす。


 ジジがこうして不安を抱えて、寄る辺ない顔をしてソファに座っていても、声をかけてくれたり、近づいてきてくれる者は――エイトは、いない。


 ジジはソファの縁に足の裏を乗せて、折り畳んだ脚を両腕で引き寄せる。ぎゅっと己自身を抱きしめるようにしてみたものの、心に開いた穴で寒風が音を立てているような、そんな感情はなくなりはしなかった。


 エイトは、従軍時代はジジのそばから片時も離れず、眠るときもしっかりと抱きしめてくれた。思えば、その行為にはジジを守るという意味が、意思があったのだろう。人形兵は人間ではない。どんなひどい扱いをしてもいいという認識のほうがスタンダードで、エイトはハッキリ言って軍内では異端だった。


 そしてジジはあたたかなエイトの体温を布越しに感じ、その心音に耳を傾けるのが……今思えば好きだった。


 それは「安心」だった。


 今、ジジを渦潮に囚われた小舟のようにしている感情――「不安」とは、まったく逆の感情。寒い冬の季節でも、体を温めてくれる毛布のような、そんな手触りの感情。それは春の穏やかな息吹からはほど遠いかもしれないけれど、間違いなくジジを包み込んでくれる、そんな感情。


 ……けれども己の中にある感情を「不安」と認識できても、ジジはそれをどう処理すればよいのか、どうすればそれは解消されるのか、それができなければどう折り合いをつければよいのか、まったく見当がつかなかった。


 ジジの、今一番上にある本心は「エイトと会いたい」というものだった。エイトの顔を見て、「安心」したかった。


 しかしそれが叶わないことをジジはすでに知ってしまっている。そもそも、エイトが今入院している病院は教えてもらえなかったのだ。会社の所在地もジジは知らない。知っていたとしても、押しかけるような真似はエイトに迷惑がかかってしまうだろう。


 ジジは、エイトを待つしかないのだ。彼の意識が戻ることを信じて、待つこと以外にジジができることはない。


 ――本当にそうなのだろうか? それしかないのだろうか? ……いや、そんなことはない。


 自問を経て、自答を得たジジは――「武者修行」に出ることにした。


 「不安」を抱くのは、己の心が弱いから――。ジジはそう結論を出し、エイトと暮らしているこの家の外へと出て行く決心をした。幸いにもインターネットに繋がったスマートフォンはある。ジジの疑問の大体は、これが解決へと導いてくれるだろう。


 ジジはこの時点ではどうすれば人間社会で「働く」ことができるのかは知らなかった。小学生でも漠然とだけでも知っていることを、ジジはまったく知らなかった。この家から外の世界は、ジジの知らないことだらけなのだ。


 けれども「武者修行」という言葉は知っていた。「家事が終わったら暇だろうから」というエイトの計らいにより、彼がサブスク契約してくれた動画サイトにあるアニメで観たからだ。己の弱さを痛感した主人公は、「武者修行」を経てパワーアップしたのだ。ジジはそれを思い出し、インスピレーションを得た。


 ジジは「武者修行」に出るにあたり、左手の薬指に嵌めていた指輪を外した。シンプルなシルバーリングに傷がついたり、失くしたりしては大変だと思ったからだ。それはエイトからジジに贈られたもので、ジジの――エイトを除けば――一番の宝物だった。


 指輪を外したのはその値段を考慮してのことではなかった。そもそも、ジジにはその指輪の値段を類推できるほどの知識がない。単に傷がついたり、失くしたりするのが嫌だったから外したのだ。


 外した指輪は、メモ用紙の上に置いた。メモ用紙に書き置きを残しておく。「武者修行」のあいだにエイトの意識が戻り、家に帰ってくる可能性を考慮してのことだ。


 しかしジジは語彙が乏しく、必然、書き置きの文章はそっけないものとなる。


 ただ、自己の意思のもと家を空けていることが伝わればいいと考えたジジの書き置きは、以下のようなものとなった。



『エイトへ


 しばらく家からばいばいします。


 わたしはだいじょうぶなので、さがさないでください。


 ジジより』

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