Dirty Innocent
as
第1話 AROMA
※直接的な性行為に関する描写が含まれますのでご注意願います。
その首筋から香る甘ったるい匂い。
何度も思い出そうとして失敗する。
無機質なビルとビルの間に突如として現れるオアシス。
水が静かに流れる。ゆるやかなピアノ。忙しなく動く心臓を落ち着かせる。
けっきょくいつも思い出すのは展覧会の絵画ではなくて、美術館の造形とかそこに至るまでの道筋とか。
どんな絵が飾ってあった?額縁の色や装飾は?順路に沿ってなされた演出は?
楽しみにしていたはずのことって実は大して重要じゃなくて、
単純にそういうことがあったという事だけが大切なのかもしれない。
*
この夏の最高気温を更新する日々は終わっていたが、刺すような暑さが続いていた。
僕は目的もなく毎日ふらふらとしていた。
i-Modeの地元系出会い目的の掲示板で「明日会える人ぼしゅう」という文字に目が止まる。
この頃は人と接する機会がまったくなくて、まして女の子と遊びに行くことなど皆無だったから飛びつくようにメールした。
数名にメッセージを送ってやりとりをしていたが、
こういう掲示板は業者のサクラが多く本当に出会えることは稀だということは知っていたので殆ど期待していなかった。
その日の夜、都内の専門学校に通う同い年の女の子から携帯にメールがきていた。
ドキドキしながらメールを送る。するとすぐに返信がきた。
>突然ごめんなさいッ よかったら明日会いませんか?
随分と急な展開だな、と半信半疑で承諾する。
相手から写メが送られてきたが、あまり信用できないので取りあえず
>可愛いね! 今人気の女優に似てるってよく言われない?
と適当に返しておく。
たまに言われますって返事が来たけれど、まぁ会ってみればわかるだろう。
待ち合わせ場所は池袋のいけふくろう。
平日の昼間だからそれほど人通りも多くないだろう。
高鳴る鼓動を抑え眠りについた。
翌日午前10時にふくろう前。
現れたのは女優というよりはふくろうによく似た体型の女だった。
でかい。胸とかお尻とかっていうより全体的に。
「香織さんですよね?」
「はい!今日はめっちゃ暑いですね。熊谷よりマシだけど。とりあえず行きましょうか」
下調べを済ませておき、徒歩圏内の手頃な値段のホテルを選んでおいた。
ホテルまでの道すがら会話らしい会話はなかった。
ただひたすら歩いた。刺すような夏の日差しから日陰に逃れるために。
*
ひんやりとしたホテルのエレベータホールに着いた。
エントランスから既にアロマのいい匂いが漂っていて、それだけで来て良かったとおもった。
この頃から僕は女の逢引きそのものというよりも、色彩豊かなラブホテルを物色するのが好きだった。
あまりに面白くてひとりでショートステイするのにハマったこともある。
バリやハワイアンといった南国風のテイストやゴシック調でシックな内装、
田園風景のど真ん中に建つシティ風、大都会の中心にあるボロ宿。
そのどれに対してもドラマチックな情緒を感じた。
男と女が一組でやってくることを目的に設えられた空間。
一般名詞的な愛の行為を存分にどうぞとアフォードする。
一般名詞的な愛ってなんだろうな。
緊張というより好奇心。
初めて訪れる部屋は想像よりコンパクトな佇まいだった。
初めて出会った二人に用意された空間としては広すぎた。
取りあえず荷物を置き、ソファに腰掛ける。
香織は沈黙に耐えられなかったのか、並んで座ったままどうでもいいことを口にする。
熊谷から池袋までは電車のアクセスが意外とよくて、1時間半くらいで来れるの。
本当は大宮でもよかったんだけどあそこはビジネス街って感じだから、
今日はちょっと遠くてもおしゃれなお店がたくさんある池袋まで来れてよかった。
この後どこかカフェにでも行けたらいいですね。
ほんとうにどうでもいいな。
僕はキスするでも抱き寄せるでもなくいきなり胸に手を伸ばした。
香織はさっと身を竦める。それにも構わず両の手を動かした。
かすれたような声と吐息を耳元で感じる。
衣服を一枚ずつ脱がせていく。まるで発掘された化石が破損しないように細心の注意を払って土埃を取り除くみたいに。
全ての衣服を剥がされた香織は、胸元で白銀色に光るSV925ネックレスをそっと外してサイドテーブルに置いた。
着けてくれていたままでよかったのに。
ベッドに移動して、女の上に覆いかぶさる。熱い吐息が耳にかかる。
下に手を伸ばすと既に濡れていた。指を入れようとすると「中はダメ」と拒絶される。
受け身の様でいて主導権を握り、体を投げ出しながらも一線を守る姿勢に感心した。
無理に主導権を奪い返そうとすると不協和音が生まれる。
それもまたいいけれど今回は流れる旋律にそのまま身をゆだねることにする。
手と指と舌でやさしくもぎこちなく愛撫する。
甲高い声が部屋中に響き渡る。
夢中で攻めるふりをしながら「平日の昼から何やってんだろう」という妙に冷静な声が頭に反芻していた。
20分も経っただろうか。
女は汗だくで疲れた様子で、「お風呂に行こう」と誘ってきた。
風呂場まで行き、服を脱ぎ、バスタブにお湯を張る。
攻守交代。
欲望そのものを好きなだけ受け止めてもらえるはずの時間。
「もっと気持ちよくなってくれていいんだよ」という香織の声に、曖昧な返事を返しただけだった。
正直言って気持ちよくもなんともなかった。
視覚的な刺激を物理的な刺激が大きく下回ると脳はエラーを起こすらしい。
ホテルのエントランスに到着したのをピークにテンションはカーブを描いて下降していた。
帰りの電車の時間とか乗り換えのこととか考えていまいち集中できない。
情欲も思いやりもどこかに置き忘れてきたみたいだ。
お湯が溢れそうになっていた。僕らは湯船に入ることにした。
夏場とはいえクーラーの効いた室内で小一時間も裸でいると流石に寒い。
お湯の中で向かい合って他愛のないことをしゃべる。
香織が「○○くんにソックリ」と頬を撫でてきた。
ヴィジュアル系のバンドメンバーだろうか。知らない名前だ。
「私の友だちに似ている」「先輩に似た人がいる」
「声がそっくり」「背格好がアイツと同じでさ」「名前も雰囲気も似てるよね」
そんな印象を伝えられてばかりいる。
初対面の一回限りの場でさえ”他人と類似点を有している”というその人にとっての主観的な事実。
当の僕にとってはこの上なくどうでもいい客観的な真実。
そんな言葉を投げかけられるのに慣れていたし、他人に対しても投げかけてばかりいた。
他人の言葉とイメージの中でしか生きられないのって、動物園の檻の中にいる動物と何が違うっていうんだろう。
その檻の中に有無をいわさず入れられる。僕も檻をせっせと製造する。
そんなことをぼんやりと考える。
昼間のラブホの湯船で哲学的な思考を巡らせてもユリイカは降ってはこない。
「のぼせちゃいそう」
そう言って一足先にあがる香織。
なんかまじでどうでも良くなってきたな。
浴槽のカラフルなライトを点滅させて遊びながらひとりごちる。
シャワーで体を洗い流す。タオルで体を拭く。服を着る。
備え付けのケトルでお湯を沸かして、インスタントコーヒーを淹れる。ソファで並んで二人で飲む。
香織の会話。
あの流行りの曲かっこいいとかあの服ほしいとか。
ま、それが普通ですわな。
ホテルを出て、待ち合わせをした”いけふくろう”よりずっと手前で僕らは別れた。
その後2,3通メールのやり取りをしたが、それっきりで二度と会うことはなかった。
今となってはあの豊満な乳房の感触も、淫らに響いた喘ぎ声も、首筋から香るその匂いも思い出せない。
誰も僕そのものを見ていなかったように、僕も香織そのものなど見てはいなかった。
*
見慣れた景色のある街に戻り、ベンチに寝そべった。
木々から漏れる日差しを顔に感じた。
数時間の出来事だったがとても長く感じた。
近くを通りすぎていく人々の声や遠くから聞こえる工事の音。
その全てが周波数の合わないラジオのように途切れ途切れで、どこか滑稽にさえ響いた。
日が沈むまでここにいよう。
瞼の裏の暗闇で西に傾いていく太陽を見ていた。
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