第10話 老人火

 朝の静けさが漂う草薙市内。薄明かりが街を照らし始める頃、美咲はランニングシューズを履き、軽やかな足取りで家を出た。彼女にとってランニングは、心と体をリフレッシュさせる大切な時間だった。日常のストレスや仕事の疲れを忘れ、無心で走ることで、新たなエネルギーを得ることができる。


 草薙市の街並みは、美咲にとって懐かしいものであった。彼女が幼い頃から親しんできたこの街は、時間とともに少しずつ変化していたが、どこか変わらない温もりを感じさせる場所でもあった。


 朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込み、美咲は軽やかに走り出す。目指すは草薙神社。彼女のランニングコースの中でも最もお気に入りの場所だ。神社までの道のりは、木々が生い茂り、鳥のさえずりが聞こえる自然豊かなルートで、日々の喧騒から離れて心を落ち着けるには最適だった。


 ランニングの途中、美咲はふと、最近の出来事を思い出した。蜂須賀蛍の死、そして出頭してきた岡本達也のこと。事件が起きた草薙神社に向かっているという事実が、少しだけ彼女の心に影を落とした。美咲はペースを少し上げ、雑念を振り払うように前方を見据えた。


 やがて、草薙神社の鳥居が見えてきた。朝の光が鳥居に反射し、神秘的な雰囲気を醸し出している。美咲は、境内の入り口で立ち止まり、深呼吸をして心を落ち着かせた。普段通りの静けさが神社に戻りつつあるように感じられるが、まだどこか冷たい空気が漂っている。


 美咲はその場で軽くストレッチをしながら、草薙市が再び平穏を取り戻すことを願った。そして、再び走り出し、朝の街並みへと溶け込んでいった。


 信州(現・長野県)と遠州(現・静岡県)の境で、雨の夜に山奥で現れる魔の火。老人とともに現れ、水をかけても消えないが、獣の皮ではたくと消えるという。


 一本道で老人火に行き遭ったときなどは、履物を頭の上にのせれば火は脇道にそれて行くが、これを見て慌てて逃げようとすると、どこまでもついてくるという。


 別名を天狗の御燈ともいうが、これは天狗が灯す鬼火との意味である。


 江戸後期の国学者・平田篤胤は、天狗攫いから帰還したという少年・寅吉の協力で執筆した『仙境異聞』において、天狗は魚や鳥を食べるが獣は食べないと述べている。また随筆『秉穂録』によれば、ある者が山中で肉を焼いているところへ、身長7尺(2メートル以上)の大山伏が現れたが、肉を焼く生臭さを嫌って姿を消したとある。この大山伏を天狗と見て、これら『仙境異聞』『秉穂録』で天狗が獣や肉を嫌うという性質が、老人火が獣の皮で消せるという説に関連しているとの指摘もある。


 草薙市内を歩いていた美咲は、突如として異様な雰囲気に包まれた。その瞬間、彼女の視界に現れたのは「老人火」と呼ばれる妖怪であった。この妖怪は、炎のように揺らめく老いた男性の姿を持ち、周囲に冷たい空気を漂わせていた。その冷徹な目と薄ら笑みは、見る者に言い知れぬ恐怖を与えるものであった。


「老人火」は古くから草薙市に伝わる妖怪であり、その存在は近づく者の魂を焼き尽くすと言い伝えられてきた。美咲は一瞬、足がすくむような恐怖を感じたが、同時にこの妖怪に隠された謎を解明しなければならないという使命感が芽生えた。


冷静さを取り戻した美咲は、伝承や過去の記録に基づき、老人火に対抗する手段を見出そうと決意する。この出会いが、草薙市に潜むさらなる闇の存在を解き明かすための端緒となり、美咲の運命を大きく変えることとなるであろう。


 美咲には田中光男の亡霊に思えてならなかった。


 折原拓也は、草薙市内において、まさにヤマトタケルの伝説を彷彿とさせる状況下で無残に命を奪われた。草薙市は古来より数多の伝説が語り継がれてきた土地であり、その中でもヤマトタケルにまつわる伝承は特に有名であった。


 折原は、古い神社の近くで不可解な事件に巻き込まれた。彼の死は、まるで古代の英雄ヤマトタケルが火中に立たされ、苦難の末に命を失った故事を再現するかのようであった。事件現場には焼け焦げた跡が残されており、折原の遺体は炎に包まれたかのような状態で発見された。まるで伝説の炎が再び蘇り、彼を焼き尽くしたかのようであった。


 この事件は、草薙市に伝わる神秘的な伝説と現代の悲劇が交錯する象徴的な出来事として、人々の間で広く語られることとなる。折原拓也の死は、単なる偶然ではなく、何か深い因果の糸に絡め取られた結果であるかのように思われた。彼の死が伝説の再現であるならば、草薙市に潜む真の闇とは何であるのか、誰もがその謎に恐れを抱くこととなった。

 

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