18、ゲオルグside
当主である兄が家を継ぐことは決まっている。子を成すのも兄の仕事だ。次男の俺は何も期待されていない。
だから、女と関係を持つのは欲の発散のためだけだった。
だが、実家の閉塞感が嫌で都市連邦バナヘイムに留学した俺は、己の常識をことごとく覆す女性に目を奪われた。
その女の名前はフリッカ・コロンナという。
「ゲオルグって頭の回転は早いけれど偏見に凝り固まっているのね。着想が定型の域を出ないから、聞いてても面白味がないわ」
意訳すると「あなたは馬鹿」である。
これまでの人生で俺よりも頭のいい人間に出会ったことなどなかったし、書物以外で俺に新鮮な知識を与えてくれる存在もなかった。
そんな俺が生まれて初めて見下されたのだ。
10歳も年下の、平民の女に。
最初は不愉快極まりなかった。腹が立った。力で黙らせようかと思ったこともある。だがそんな感情はすぐに消え失せ、俺は彼女の一挙手一投足に釘付けになった。
彼女は歌うように説を提唱する。
記録と会話し、楽しそうに知識と手を取り踊り明かす。
発掘調査で泥だらけになった手のひらを示して目を輝かせる。
知識を深めるためならどんな勉強も怠らないし、自分の耳目で論拠を確認するまでは絶対に諦めない。彼女は確かに頭が良かったが、惹かれたのはそれが理由ではなかった。
「古代琴は神話を伝承するために作り出されたと思う。だって石碑には古代琴の演奏風景が記されているのに、世界樹が堕ちた森に消えたとされる時代になると記載がほとんどなくなるの。これは神話を記録する媒体が音楽から書物に移ったからだとも考えられる」
「昔の人って『国家』のことを『家』って呼んでいたのよ。新しい家ができました、って大喜びしてる感じが伝わってくる。こういうの見てるとさ、『国家』の誕生日をお祝いしてあげたくなるのよね」
それまでの常識に縛られない発想と言葉。フリッカの前に現れた知識は、彼女の手でそれまでとは違った輝きを帯びることになる。
俺はその魅力の虜になった。
◇
「君、フリッカに告白したの?」
フリッカの実家に誘われて、なぜか書庫の整理を手伝わされていた俺に話しかけてきたのはフリッカの父親だ。
ステファーノ・コロンナ元バナヘイム軍大将。
いつもヘラヘラと笑っているその人が、とんでもない傑物であることを俺は知っている。
彼はバナヘイム軍最高司令官である“元帥”に昇り詰める逸材とされていた。
運悪く、彼の同期にもう一人元帥候補と目される人物がいたのだ。コロンナ先生はそのライバルこそが元帥に相応しいと考え、派閥争いが起きる前に自ら退役を願い出た。
俺がこの家に訪れるときでさえ、先生を慕った軍人が門を叩く。未だに彼を軍に復帰させようと考える高官も少なくない。
けれど本人はいつも通りヘラヘラと笑って相手にしなかった。「今の生活のほうが楽しいからね」と言って相手を帰す。そんな人だった。
「告白、とは」
「照れなくていいよ。うちの娘に惚れてるんだろう? 見ていれば分かる」
コロンナ先生の前では隠し事は無意味だ。
この人は全てを見通す。娘と同様に、いやそれ以上の観察眼の持ち主なのだ。
「……まだ、何も伝えていません」
「あっそう」
「ただ、その、結婚は……申し込むつもりです」
先生は「だろうね」とこともなげに言う。
自分が無力な子どもに戻ったような錯覚を覚えた。
「じゃあ早めに言ってあげなさい。……娘も、君が卒業したらどうするのか不安に思っている。口では言わないだろうけどね」
「フリッカが?」
率直に驚いた。
フリッカは感情豊かだが、決して人に不安を漏らしたり弱みを見せたりはしない。
だから、てっきり俺は「多少話の分かるアシスタント」「金が湧き出る男」くらいに思われているのだと考えていた。俺もそれで満足していた。
彼女に必要とされるのであればそれで十分だ。
「ところで君は、留学が終わったら帝国に帰るの?」
「戻りません。バナヘイムで暮らそうと思っています」
「実家はいいの? 子爵家なんだろう」
「戻りません。あそこは俺には必要のない場所ですから。爵位も放棄します」
「そう」
コロンナ先生は笑みを消してじっと俺を見た。
笑い皺とは異なる年輪が、バナヘイム軍を率いるはずだった男の顔に刻まれている。
「ねえ、ゲオルグ」
この皺が刻まれる年月の分だけ彼女を育ててきた、偉大な人だ。
「フリッカは父親の私から見てもすごい子だ。叡智の祝福を受けて生まれてきたんじゃないかと思うことがある。ちょっと自身過剰で夢見がちで情緒が未発達なところもあるが、根は優しくて純粋だしね」
「はあ」
褒めと
「けれど、新たな知識を前にすると途端に無防備になる。自分に危険が迫ると分かっていても彼女は手を伸ばしてしまう。悪意の巣窟とも言われる帝国貴族の社会で、脇の甘い彼女がやっていけるのかどうか不安だった。……君が帝国には戻らないと聞いて、少し安心してしまったよ」
俺も同感だった。
人権意識が培われているバナヘイムに比べ、帝国は未だ社会が未成熟で身分差別も激しい。あんな濁った世界にフリッカを閉じ込めてしまえば、彼女の輝きが失われてしまう。
次男である自分がいなくなっても父も兄も困りはしない。
家を捨てることでフリッカのためになるなら喜んで捨てよう。
「先生」
今度は俺のほうから告げる番だった。
「フリッカは俺が守ります。だから、彼女との結婚を認めてください」
◇
皇宮の廊下を歩きながら
「なんだと?」
もう一度言え、との意味を込めて隻眼の青年を睨む。
「フェンサリル子爵家令嬢が
「お前が必要と判断したのなら構わん。それよりも、なぜ寄宿学校にいるはずの令嬢が
ヘイムダルは珍しそうにこちらを一瞥してから、粛々と状況を説明した。
聞けば聞くほど不可解極まりない。仮にも子爵家の一人娘だ。なぜそんなところに赴いて布地を探す必要がある?
連れていたのも侍女一人だという。それで貧民街へ? 理解できない。
だが一番理解ができないのは自分自身の感情だった。
どうしてこれほどまでに、あの娘のことが気になるのか。
当初、内乱に際して前皇帝側についた間者かと思っていた。
だから見張らせた。
それだけのはずだった。
「それと……」
「なんだ」
「彼女は最後にこう聞きました。『その槍術はバナヘイムのものだ。誰から習ったのか』と」
「槍……?」
俺はコロンナ先生から槍の指南を受けた。
そして、それをヘイムダルに―――兄の私生児だった彼に教えた。
頭痛がピークに達する。
疲れもあるが、今かけている丸眼鏡のせいでもある。
俺には合わない。
そもそも俺がかけるために作られていないからそれも当然だ。
これは、
「陛下、お顔色がすぐれませんが……」
「大事ない」
この国の皇帝が槍の使い手だと知る人間が一体どれほどいるというのか。
そんなはずはないという思いと、もしも
15年分の未練と後悔が、
俺は吐き出すべきではない言葉を吐き出した。
「馬車を出せ」
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