鏡の中の人魚姫

空式

人魚姫

 いいえ、別に、気にしませんよ。こんな姿なので、驚くのも当然です。実際私も、たいそう驚きましたから。

 ……ええ、はい。話しますとも。

 私は、人魚に出会ったんです。

 それは、暑い夏のことでした。私はちょっと格好つけて海辺で黄昏てみようかな……なんて思いながら砂浜へとむかったんです。

 平日の昼間でした。この時間には誰もいないだろうと思ってのことです。だけど、砂浜にはいくらかの人が居ました。誰もが若く、楽しそうに笑っています。恋人同士であろう男女だとか、複数人で遊びに来たグループだとか、それらの横を通り過ぎる時、どうしようもなく自分が恥ずかしくなって、私は逃げるように端へと歩いていきました。

 そうして砂浜から少し離れ、今度こそ人の来ないだろう岩陰に向かうと、そこには一人の先客が居ました。

 それは私の目を捉えて離しませんでした。その人物には足がなく、代わりに魚のようなひれが付いていたんですから。……それに、その人魚はとても美しかった。整った目鼻に、薄い唇。透き通るような髪。そのどれもが絶妙なバランスで並んでいて……。ええ、まるで作り物、人形のような見た目でした。

 それはどうやら眠っているようでした。

 体は水浸しで、今地面に打ち上げられたばかりだろうと思いました。きっと、居眠りでもしてしまって、流されてしまったのでしょう。

 私は眠っているそれを延々と眺めていました。半裸の女性を眺めまわせるなんて、こんなチャンス、めったにないですからね。

 そうして日が沈むころ、目の前の人魚は目を覚ましました。ゆったりとした動作で目を擦り、その後、どうやら私の存在に気が付いたらしく、怪訝そうな目でこちらを見ています。

 次の瞬間、彼女の目の色が変わりました。彼女は私へと飛び掛かり、首筋に噛みつきました。私を食おうとしたのでしょう。

 私は必死で抵抗しました。幸い、人魚の力は人並みだったようで、それでいて男と女なので、力負けするようなことはありませんでした。

 ——いえいえ、ちゃんと、鍛えてますから。

 私は人魚の頭を殴りつけると、そのまま海へと落としました。

 なんて恐ろしい。これじゃあ獣と変わらないじゃないか。

 そう思いっていながらも、思い出すのは人魚と取っ組み合いになった時の、触れた肌の感覚や、息遣い。人間の女性がどんなものか、私は知りませんが、おそらくそれは同じものだったんでしょう。

 不思議な高揚感でした。それは神秘に触れたような、……下賤な言い方をするなら、小学生の頃河原でいかがわしい本を拾ったような、そんな感覚です。

 翌日から私は、毎日あの海岸へと足を運びました。人魚と会えるのは十日に一度ほどでしたが、それで私は満足でした。

 どうやら人魚は複数いるようで、人魚は会うたびに別の容姿になっていました。そして、どの人魚も私を見ると、とたんに目の色を変え、襲い掛かってくるのです。

 何度も繰り返すうちに手慣れたもので、初めのうちは多かった怪我も、だんだんと少なくなっていきました。

 ——武器? 使いませんよ。それだとわざわざ危険を冒す意味がない。

 個人的には絞め技が気に入っててですね、苦しそうな呼吸だとか、首を絞めた時の腕に感じる鼓動だとか、触れ合う肌の温かさも、どれも美しいのです。

 はは、そんな顔しないでください。相手は人間じゃないんですよ。

 そして私はある日、人魚が人を食っている姿を見たのです。

 いつものように海岸を歩いていると、砂浜が赤色に染まっているのを見たんです。近づくにつれ、血と体液の強烈な臭いが鼻を突く。私はその赤色の中に、動く何かを見ました。だからこそ、あんなものに近づいて行ったんです。

 近づいてみると、それは人魚でした。

 血走った眼と、血だらけの体。周囲に一切目もくれずに、彼女は食事をしています。散らばった人間の体に貪りつくその姿はとても恐ろしく、思わず後ずさりしてしまいました。

 彼女は物音に気付いたのか、びくりと体を動かし、目線をこちらへと向けました。

 私はそのまま、逃げ出してしまいました。

 なんて恐ろしい。人のような姿をしていて、人をあんな風に喰おうだなんて!

 心底恐ろしい。汚らわしい。そう思っていても、心の底ではあの人魚を憎めない。その理由さえつかめずに、私は一人、部屋で震えていました。

 余談ですが、私には姉が居るんです。

 姉も私と同じで、頭の悪い、どんくさい人でした。それに、性格もたいそう悪く、とても尊敬できるような人物ではありません。

 だけど、彼女は幸そうです。結婚をして、家を出て、もうすぐ子供も生まれるそうなんです。

 ええ、羨ましいですとも。できるなら代わってほしい。

 ――いえいえ、そんなことないですよ。はい、本題に戻ります。

 私は結局、翌日からも海岸へと出かけました。

 そうしてようやく、人魚と出会えたんです。

 彼女はこちらと目を合わせると、不思議そうにこちらを見つめていました。

 そうです。襲い掛かっては来なかったのです。

 彼女と目を合わせながら、ゆっくりと間の距離を詰めていきます。世界が急に狭まったようで、波の音さえ耳に届きません。

 私は彼女の目の前でしゃがみ、視線を同じ高さに持っていくと、彼女の方へと手を伸ばしました。

 彼女は私の腕を両手で掴みました。咄嗟に手を引こうとしましたが、しっかりと握られた手は簡単には離れてくれません。彼女は私の手を握ったまま、もの言いたげな目でこちらを見つめます。

 敵意は感じなかった。だから私は目をつぶって、彼女に身を任せたんです。

 体が引き寄せられ、暖かいものに触れる。呼吸の音が聞こえてきます。鼓動すらはっきりと伝わってきたほどです。

 私は腕を回し、彼女を抱きしめました。

 強く、強く。離れないように、離さないように。熱をよく感じれるように。私の熱を伝えるために。

 とても暑かった。熱くて暑くて、その暑さが跳ね上がる心臓からくるものなのか、それとも噛みつかれた首筋から流れ出たものなのか、私にはわかりませんでした。

 ええ、食われたんです。賢い人魚だったのでしょう。まんまと騙されました。でも、不思議と彼女を憎くは思わなかったんです。むしろ、このまま死ねたら、どれほど幸せだろうと思ったぐらいです。

 今にも私は殺されようとしているのに。ばらばらにされ、臓物をぶちまけ、元が誰だったかわからない何かに、数十秒後にはなってしまうというのに! 私は抵抗できない。首元にかじりつく人魚の無防備な後頭部に拳を振り下ろし、かち割ってしまえばいい。たったそれだけで、私は助かるというのに。

 わたしにはそれができない。その理由に気付いた時、私に躊躇いはなくなりました。


 ——ここまで言えば、後の説明は不要だと思いますが。食べたんですよ、人魚を。

 首元にかじりついた彼女の首を無理やり引きはがし、今度は私が彼女の首元にかじりついたんです。血管を噛み千切る感覚と共に、暖かい血が喉に流れていく。その時初めて、私は不死身の人魚を殺したんです。

 ——人魚の肉を食べたら不死身になれるっていうでしょう? それは人魚の肉を食べることで不死身の人魚になる。という話なんです。

 これで、あなたの感じていた疑問も晴れますね。私、もともとは男だったんですよ。この姿で、まるで自分を男のように語るんですから、戸惑うのも当然です。

 整った目鼻。透き通るような白い肌。そして、下半身のヒレ。誰もが見惚れてしまう、美しい人魚。

 私がこの姿をしているからこそ、私なんかの話を熱心に聞いてくれたんでしょう?     ええ、否定なんてしませんとも。ただ、一つ、提案があるんです。

 ——あなたも、どうですか? いいものですよ。誰にも否定されることはない。一目で好意を抱いてもらえる。いずれ理性を失い、獣となってしまうとしても、その一瞬には、人生をささげる価値があると思うんです。


 違いますか?

 

 

 

 

 

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