<5・立ち向かわなければ、明日はない!>

 嫌だ、と思ったのだ。

 れもんだって結局のところ普通の小学生で、女の子で、死にたいはずなどない。

 よくわからない狼みたいなモンスター相手に、恐怖がなかったはずがない。誰かに助けて、と言いたい気持ちがなかったわけでもない。

 それでも真っ先にその声が出たことに――一番ほっとしたのは、れもん自身だったのである。


「逃げろ!」


 自分は強い。きっと、白亜よりは強い。その自負があればこそ。


「この不審者、わけわかんねーこと言ってんだ!魔王の生まれ変わりがどうのとか、そいつを殺さなきゃいけないとか!」


 そこまで言った時、狼の背の向こうでローブ男が顔を顰めたのがわかった。やらかした、と気づく。この言い方をしては、白亜がれもんの“心当たり”だと暴露してしまったようなものではないか。

 案の定、凍り付いて白亜は呟く。


「それは、俺のこと、なのか……?」


 ああ、失敗した。

 気づいたが、こうなったらもう仕方ないと開き直るしかない。


「お前のことなのかそうじゃないのかは知らないけど、とにかく魔王の転生者だとか、わけわかんねー勘違いしてんだよ!いや、勘違いじゃなかったとしてもだ。この世界でなんも悪いことしてねーのに……それなのに、前世がどうとかイミフな理由で殺されるなんておかしいだろ!あたしは絶対ごめんだし、超絶ムカつくんだよ!」

「き、橘田、……」

「とにかく、こういうよくわかんない狼みたいなやつけしかけてくるから気をつけろ!あたしならなんとかなるけど、お前はきっと無理だから!がっ……」


 そこまで言ったところで、さらに狼の爪が肩に食い込んできた。正直、かなり痛い。涙も滲んできた。でも。

 心まで折れたくはない。どれほど恐ろしくても、絶望的でも、考え続けたいと心が叫んでいるのだ。

 ここで“助けて”なんて言わない。言ってはいけない。そんなことをして、白亜が傷つく方がずっと嫌だと思うのだ。――それを良しとしてしまったらもう、それは橘田れもんではないのだから。


「逃げろ、早く!」


 タイミングを見計らって、この獣を蹴り飛ばす。股間あたりにヒットさせれば、いくらモンスターだって痛くて悶絶するはずだ。ぶっちゃけ性器への攻撃でダメージを受けるのはオスだけではないのである。


「……そうか、君が。同じ小学生とは、皮肉だな」


 ローブ男が、残念そうに呟くのが見えた。さっきまでの行動と言動。おかしなことばかり言ってはいるが、けして理性のない人間でないのは見て取れる。本当は、子供を手にかけるような真似などしたくはなかったのだろう。なんだかんだいって、れもんがまだ殺されていないのがいい証拠だ。ひょっとしたら、周囲に人がいない時間とタイミングを見計らったのも偶然ではないのかもしれない。

 けれど、罪悪感があれば何をしてもいいなんて、そんなことはないのだ。

 男が杖を振ると、れもんを抑え込んでいたレッド・ウルフが退いた。後ろに跳んで、男の傍まで戻ったのである。同時に、さっきれもんが吹っ飛ばしたもう一体が川から上がってくるのが見えた。――れもん自身は組みつきから解放されたものの、危機的状況が変わったわけじゃない。むしろ、白亜を守らなければいけなくなった分、危険が増したとも言える。


「確かに、気配がする。忌まわしい魔王の気配。……記憶を取り戻しているのか定かではないが、子供のうちに芽は摘んでおかねばなるまい。悪く思うなよ」

「や、やめろ!」


 獣たちが唸り声を上げ、身を低くかがめる。土手の上にいる白亜に、今すぐとびかかれる姿勢。

 そして、情け容赦なく、男が杖を掲げて。


「行け」

「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 どうして、こうなるんだろう。自分に力がないからか。手の届くものだけでも助ける、救う、守る。そう決めたのに、そんなヒーローになりたいと願ったのに、自分は結局目の前で殺されそうになっている男の子一人守ることができないというのか。

 そんなことってない。

 ああ、そんなことってないだろう。


――嫌だ!


 赤い獣たちが、白亜にとびかかった、次の瞬間。


「……“Barrier”」


 呟く声と共に、白亜の周囲を真っ白な光が覆った。キン、とグロッケンを叩いたような甲高い音。小さな悲鳴とともに、二匹の狼たちが弾き飛ばされる。


――今、何が?


 唖然とするれもんの前で。白亜がぎゅっと閉じていた目を、ゆっくりと開いていくのが見えた。アメジストの瞳には、くっきりとした怒りの色が浮かんでいる。


「……俺は、間違っていた」


 彼は一歩、土手の階段を降りる。


「大人しくしていれば、隠れていれば、逃げていれば。それでやり過ごせると思っていた。誰とも関わらなければ、一人でいれば、きっと巻き込まないと。……でも、そうじゃなかった。どれほど俺が普通の人間らしく生きようとしても、結局逃げることなんてできやしない。俺を、助けてくれようとした人を傷つけてしまう。だったら」


 彼の右手が、流れるように持ち上がる。人差し指を一本立てて、そして。




「だったらもう、戦うしかない。例えそれが……世界にとって悪だとしても!」




 整った唇が、呪文を紡いだ。




「“Lightning-Vortex“!!」




 瞬間。白銀の稲妻がオオカミたちの上に降りそそいだ。




「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」




 二匹の獣たちが、凄まじい悲鳴を上げてドス黒く焦げていく。否、高圧電流はそれさえも超えて二匹を真っ黒な炭にし、粉々に打ち砕いてしまった。

 魔法は、実在する。

 さきほどフード男の狼召喚でそれを見たばかりではあるが、それでもさっきの男とは桁が違う魔法だとわかる。まさかこれが、これこそが魔王の力だというのか。


「ぐっ……!」


 使役したモンスターが倒されたことで、ある程度ダメージが跳ね返ったのか。フード男が悔し気に膝をついた。


「中級程度の魔法で、これほどの威力……やはり魔王は、魔王かっ……!」


 男はぎりっ、と悔し気に青い目を細めた。


「いいだろう、今日は退く。だが、覚えておくといい。我ら“勇者同盟”はけしてお前を逃しはしない。前世の罪は、必ず償わせる。我が名は“銀杏弦いちょうげん”。次は必ず、お前の首を貰う……!」


 彼が黒いテニスボールのようなものを足元に落とすと、ぶわり、とそこから靄のようなものが噴き上がった。そして銀杏と名乗った男の体が飲み込まれ、陽炎のように揺らめいて消えてしまう。

 河原はいつの間にか、静けさを取り戻していた。この場にいるのはれもんと白亜だけ。聞こえるのは遠くで鳴くカラスの鳴き声と、流れる川のせせらぎだけだ。


「……橘田!」


 河原にしゃがみこんだままのれもんの傍に、白亜が駆けつけてくる。


「大丈夫か!」

「あ、うん、まあなんとか……あたたた」


 問題ない。笑って立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。ついでに、狼の爪が食い込んだ両肩が痛い。服が破れて血が滲んでいる。大した怪我えではないのだろうが、腕を持ち上げようとするとびりびりとした痛みが走った。


「俺のせいで、ごめん……“Heal”」


 白亜がれもんの肩口に手を翳し、魔法を唱える。するとどうだろう。破れていた服ごと、怪我が治っていくではないか。何ちゅう便利な、と状況も忘れて感嘆してしまった。傷が治っても服が破れていたら、あらぬ誤解をされたところである。右肩を治したら、次は左肩。ついでに、押し倒された時に出来たたんこぶや擦り傷も丁寧に治して貰った。


「……まさか、こんなに早く……あいつらが追いかけてくると思ってなかったんだ。転校して、まだ全然日が過ぎてないのに」

「ひょっとして、君がうちの学校に、こんな中途半端な時期に逃げて来たのは……」

「あいつら……勇者同盟から逃げるためだ。あいつら、俺を殺そうと狙ってる。魔王のオーラってやつが分かるらしくて、どこに逃げてもすぐ追いかけてくるんだ」


 悔し気に、少年は拳を握りしめる。


「……本当は、俺も自分のこと、全然わかってない。前世が魔王だったって自覚は俺にもあるけど、前世の記憶なんてちょっとしか覚えてないんだ。どうして前世の自分が、異世界を滅ぼしてしまったのかもわからなくて。それなのに、あいつらは追ってくる。俺が魔王だから、完全に覚醒する前に消さなければいけないと。生きていてはいけないと……」

「勇者同盟ってことは。あいつらは、異世界で勇者だったやつらの生まれ変わりって認識で、あってる?」

「多分そうだろう、としか。……参ったな。今回はもう、完全に顔を見られた。さっきの銀杏ってやつから、俺の情報は伝わっていくだろう。これからはもう、本当にどこに行っても逃げられない。もう、国外にでも逃げるしかないかな……」


 本当にごめん。

 彼は深々と頭を下げてきた。


「橘田を、巻き込むつもりなんてなかったんだ。他のみんなのことも。だから距離を取って……友達になりたくないって、みんなが思う奴になろうとしてた。……それなのに結局駄目だった。俺が、あいつらとちゃんと戦う勇気を持てなかったせいだ。魔法の力も、一部とはいえ戻ってたのに。……本当の本当に、ごめん」


 ああ、彼はどんな気持ちで言っていたのだろう。れもんは今日、学校でこの少年が言っていた台詞を思い出して切なくなった。

 祈れば助けてくれる、都合の良いヒーローも神様もこの世にはいない。それは、本当にその通りで。きっと彼はそれを、この年で嫌というほど思い知ってきたに違いない。

 生きていてはいけない人間と、あいつらにそうレッテルを貼られ、追われ続けたせいで。


「……なあ」


 きっと彼の頭には、すぐまた転校しなきゃ、ということでいっぱいになっているのだろう。

 だから、れもんは言うのだ。


「頼みがあるんだけど」

「……何だ」

「橘田っての、やめてくんね?あたし、下の名前で呼ぶのも好きだけど、呼ばれるのも好きなんだ。あたしの名前は、橘田れもん。れもんって、覚えやすいしわかりやすいし、いい名前だと思わね?」


 もう、ひとりぼっちで逃避行などさせない。

 れもんは笑顔で少年に手を差し出す。


「あたしのことも、名前で呼んでくれよ。もう友達だろ?」


 考えよう。子供なりの力で、この優しい転生魔王様を守る方法を。

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