文子

宝飯霞

第1話

 文子は、いつも怒ったような顔をしていた。

「どうして、姉ちゃんだけ」

 私が庭先で転んで足に擦り傷を作ったときだった。

 母が私の足に消毒液を塗って、絆創膏をはってやると、文子はそばにたって、羨ましいと言いたげに、むずがった。

「姉ちゃんだけって、あんたも怪我したいの?」

 母が頬を膨らませて呆れたようにいうと、文子は両手で顔を隠し、畳の上に仰向けに寝そべって地団太を踏む。

「文子も、文子も」

「はいはい怪我したらね。そのときやってあげるわ」

 すると、文子は家の柱の前に走っていって、柱に額を打ち付けた。何度も何度も、頭を強くふった。どうんどうんと家が揺れた。

「やめなさい! なにやってるの!」

 驚いて母が文子を柱から引き離すと、文子の額は赤くなって、木のささくれで傷ついたのか、切り傷ができて、血がにじんでいた。

 文子は口をつぐみ、上目になって、むすっとしていたが、母に睨まれると、にへらと笑みを浮かべた。

 文子は母から消毒と絆創膏を貼ってもらうと、にわかに元気になった。私は、そんなことをしてまで、私と同じように母に接してもらおうとする文子の執着が恐かった。

 私が、新しい緑色のブラウスを買ってもらったときも、文子は、意地汚く爪を掻みながら私のところへやってきた。

「姉ちゃん、その服どうしたの」

 私は言うと、荒れることがわかっていたので言いたくなかった。

「なんでもないのよ」私は新しい服を畳んでタンスの引き出しの中に入れた。

「うそ、買ってもらったんでしょ」

 文子は私を睨みつけて、握り拳を振り上げて怒りを露わにした。

「それ、あたいの服にする」

「ばか、サイズが合わないでしょ」私は文子の頭を軽く押した。

「腕まくりして着るもの」

「あんたには似合わないわよ。あんたはもっとピンクとか黄色とかの色のほうがいいんじゃない」

「いやだ、着るもん、お母さん」

「なに」母は台所から返事した。

「あたいも緑の服着たい。良いでしょ」

「だめよ、お姉ちゃんのよ」

「いやだ、着るもん」

「あんたが着たらお姉ちゃんの着る服が無くなるじゃないの。あんたが大きくなって、お姉ちゃんが緑色の服小さいって言うようになったら、そしたら、あんたにあげるから着ればいいわ」

「やだ、新しいのじゃなきゃ嫌だ」

「我が儘言わないで。服くらいで。どうだっていいじゃないの」

「よくない」

 文子はタンスの引き出しに飛びかかり、緑色の服を引きずり出した。私はそれを止めようと、緑色の服の袖を引っ張った。服が両方から引っ張られて伸びた。とうとう文子は私の腕に噛みついた。

「痛い!」

 私が手を離すと、文子は服を持って、自分の部屋へ引き上げた。

 文子に噛まれた腕に歯形がついていて、わずかに薄皮がめくれていることに気づき、私は憎らしいようなきがして、むっつりと唇を曲げた。

 小学校を卒業し、私はセーラー服のある中学校に入学が決まった。制服のサイズ合わせにお店に行くと、母と一緒に付いてきた文子が私の制服姿を見て、苦々しそうな顔をした。そして、不服そうに私を睨みつけてきた。その目があまりにも人を軽蔑するような不愉快な目つきだったので、私は、腹が立ったが、わざと自慢するように

「ほら、似合うでしょ」

 とひらりと回ってスカートを広げて見せた。文子はうらやましさで我慢できなくなったのか、母の腰にしがみつき、うわあと泣いた。私は文子が泣くとせいせいした。

 文子は私が良い思いをするのが気に入らないようだった。

 中学校にはいると、勉強が忙しくなった。私は、学校で勉強した後、家でも勉強した。教科書の小さい文字に目を細めて、ノートに漢字や英数字を書いていると、目がしょぼしょぼしてきた。文子は私が遊ばないのを不服そうに、風船を私の方へ叩いて飛ばして当てたり、ゲームをしようと誘ったりしたが、私が忙しいというと、鼻にしわを寄せ歯をむき出して、変な顔をしてみせた。次第に、学校でも後ろの席から黒板が見えないので、私は眼鏡がいると母に打ち明けた。私は母と買いに行った。眼鏡屋で視力を検査し、私にあう眼鏡が作られた。一週間後、取りに行き、私は透き通るガラスの眼鏡をはめた。

「わあ、姉ちゃんいいなあ」

 眼鏡姿の私を見て、文子はおかしがるどころか、羨ましそうに頬を赤くした。

「私もほしい」

「ばか、眼鏡何てね、できればしないほうがいいのよ」

「でも、高いんでしょ。きらきらして綺麗だわ」

「でも、重くて鼻が痛いわ」

 お風呂に入っているときなど、私が外した眼鏡を盗み、文子はかけてみて遊んでいた。私がお風呂からあがって眼鏡がなくてないないといっていると、

「姉ちゃん見えない」と文子が脱衣所に顔を出し、からかう。文子の顔には大きい眼鏡は、鼻の中頃までずり落ちていた。それが可愛らしかった。

「返して。壊したら高いのよ」

 私は怒って、髪をまだ拭ききらない、髪の毛先からぽたぽた落ちる水滴を足下に感じながら、手をぐいっとつきだした。

「やーだよーうだ」

 文子は背中を向けて居間に逃げていく。私はそれを追おうとして、床の水たまりに足を滑らせて転び、大きな音を立てた。それに母が驚いてすっとんできた。

「どうしたの、真子」

「文子に眼鏡取られたの」

 私は泣き出しそうに言った。転んだのが恥ずかしくて痛かったのが私を泣き出しそうにした本当の理由なのに。母は私が泣くのはすごいことだとあまりにも心配していつもよりも強く怒った。

「文子! お姉ちゃんに眼鏡かえしなさい! 返さないと叩くよ!」

 母が怒鳴ると、文子はしぶしぶ戻ってきて、眼鏡を私に手渡した。そして、私を恨めしそうにみた。卑屈な態度で、私に謝るものか、憎々しいと言いたげに。そのころから、私は文子とは相容れない間柄な気すらしたのだ。子供のいたずらだと言えばそれまでなのだが、私は文子の私を睨む目が気に入らなかった。あの目で見られると、腹の底からむしむしするような嫌な気が起こるのだ。そして、憎しみと怒りがどっとあふれてきて、私は慌ててその荒い気持ちを押し静めるのだ。

 私が私立の高校に入学と同時に、文子は中学校に入学した。文子のために制服を買いに行くと、文子は大喜びで制服を試着した。

「やっと、あたいの服が着れるのね」

 母としては、私の制服のお古を文子に着せたかったらしいが、文子は三年間のうちにぐんと背が伸びて、私を追い越してしまった。体重も私よりも少しふくよかで、思春期のにきびなんかが、頬のあちこちにできていた。とても私の制服など小さくて着られやしなかった。

 真新しいのりのきいた制服を文子は鏡の前で踊るように動かしてみて、わあ、だの可愛いだの言っていた。文子の満足そうな顔を見ると、私は良かったと思った。

 文子の制服を買うと、今度は私の制服を買わねばならなかった。私の学校はブレザーだったので、緑のスカートにスーツのようなだいだい色の上着、緑のおおぶりのリボンの制服で、それを試着するとよく似合った。すると、文子はそれを見て、腹が立ったみたいに顔をしかめた。

「どうしたのよ、文子」

 私はあまりにその態度が気になって聞いた。

「姉ちゃんだけいつも良い物を着るんだわ。あたいよりいつも一足先にいい思いをしているんだ」

「何を言うのよ」私は馬鹿馬鹿しくなっていった。

「あんただって、可愛い制服の高校を選んで入ればいいのよ」

「ふん、お姉ちゃんは頭がいいから。選び放題でしょ。でも、あたいは頭が悪いから。小学校のテストでいつも悪かったもの。それに授業だってなんのことやら付いていけなくて、まわりはどんどん追い越していって、わたしなんか何も分からないまま卒業しちゃった。あたい、馬鹿なのよ」

 そう言って、文子はくるくるした天然パーマの短い髪をかきあげて、あちらの方をみた。目が潤っている。涙を見せたくないのだ。

「馬鹿な訳ないでしょ。貴方は人より勉強していなかったからよ。お姉ちゃんみたいに家に帰ってきたら机にかじり付いて必死に勉強していた? あなたは遊んでばかりいたでしょ。頭何てね、勉強すれば良くなるの。あなたも中学生になったんなら、勉強に励みなさい。それが貴方の将来のためなんだからね」

「ふん、なんだ、姉ちゃんは勉強が好きなんじゃないか。あたいは勉強が嫌いだもの。姉ちゃんは好きだから頑張れるけど、あたいはそうはいかないよ」

 制服を買った後、私たちはレストランで食事にした。ラーメンを食べながら、私はふと思い出して、

「ねえ、文子、昔あんたほしがってた緑色のブラウス。あれ仕立て直して着る?」

 文子はぶすっとして、

「いらないわ」

「どうして」

「お古なんていらないわ。別にほしくなかったもの。新しいから欲しかっただけだもの」

「そうだったの」

「新しいからって良いことはないのよ。ちょっと堅いってだけで」母はそう言ってたしなめた。




 中学校には行ってから文子は家族と余り会話しなくなった。それは思春期がきたのだと勝手に解釈していたのだが、違っていたようで、それは、ある日、文子が朝、泣きながら学校に行かないと叫んでいるときにわかった。

「どうしたの、具合悪いの」

 母が聞くと、文子は首を横に振り、そんなもんじゃないと言いたげに歯を食いしばって、涙袋をこんもりさせて、顔を真っ赤にした。

「じゃ、なに」

「いやなの」文子は歯ぎしりしいしい言った。

「なんで」

「いじめられているの」

 文子は押さえきれずわっと泣いた。

「いじめられているって、なにかされたの?」母は慎重にたずねる。

「悪口言われるの。ブスだのデブだの」

 確かに文子はここ最近一気に太った。だが、これくらいの体重が気に障るとは思えない。私は姉らしくたしなめようとした。

「悪口くらいみんな言うわよ。考え過ぎよ。そんくらいで学校いかないなんて。それに言われたことは本当の事じゃないの。本当のこと言われるのが嫌なの?」

「違う、なんで分からないんだ」

 文子は激しく怒って、私を睨みつけた。文子の言うのは本当のことをいうのでも、それを言うとき、相手を馬鹿にしてけ落としてやろうとするのが見えて、そういう嫌らしい人間性を嫌っていたのだ。私はいじめられたことがなかったのでわからなかった。

「いかないったら、いかないんだ!」

 私も気持ちが分からないもんで、無闇に文子の我が儘に腹が立って叱った。

「行きなさい! だめよ。今からそんなわがまま。ささいなことでしょ。嫌なら言い返してやりなさいよ」

「姉ちゃんにはわからないんだ、あたいの気持ちなんか。姉ちゃんは美人だから」

 思わず美人と言われたことに私は、はっと胸を打たれた。少し嬉しかった。私は自分の頬にさわって、私の輪郭が綺麗なのを確かめながら、制服も着ないでパジャマ姿のままだだをこねる太った醜い文子を眺めていた。

「じゃあ、あんた、今日行かないのなら明日は行くのね」

「行かないよ、ずっと行かないよ」

「そんなのだめです」

「なんでだ!」

「なんでだって、学校行かないのは悪いことだからよ。勉強しないであんた将来何になるつもり? 家の恥になることはしないでよ。お姉ちゃんだって悪口ぐらい言われたわ。どこへ行っても言われるのよ。だって、私たちは人間だから。あんた人間じゃないの? 人間じゃないのなら学校へ行かなくても良いわよ。でも人間なら、人間の習性に馴染んで、いちいち変なものでも見たように驚かないことね」

「馬鹿姉! お前に何が分かる。あたいはずっとつらい思いをしてきたんだ!」

「ほうら、いま馬鹿って言った。でも私は平気よ。あんたも悪口を言う人間なんだから他人の悪口ぐらい許してやったら」

「馬鹿姉!」

「ほらほら喧嘩しないの」母は私たちの喧嘩にほとほと疲れたように言った。こんなみっともない喧嘩などみたくも聞きたくもないのだ。

「それじゃあ、文子、お母さんが途中まで学校に着いていってあげるから。ね、それなら学校いけるでしょ」

「そういうことじゃないんだよ。あいつらが、学校のあいつらが全員死んだら学校に行くよ」

「ま、何てこと言うんだろうねこの子は」

 他人の死を願う娘に母は呆れ半分、失望して顔をしかめた。

 母がショックを受けたことをいいことに、文子は更にわめいた。

「そうだ、死んだらいい!」

「簡単に死んだらいいとか言うな! あんた本当最低だね! 私やだ。あんたが妹なんて!」

 私は本当に妹の存在が汚らわしく思って吐き捨てるように言った。

 文子はぶるぶる震える拳で床をどしんどしんと叩いた。

「死ねは言ったらだめで、ブスとかデブとかきもいは言ってもいいんだ。同じだろ、全部!」

「うるさい! 近所の人に聞こえるでしょ!」母は古い家で響く足音さえ気にするタイプなので、文子の与えた重低音に酷く怯えたように叫んだ。

「あたいは学校に行かない!」

 それから、文子は自室にこもり、トイレ以外は部屋から出てこなくなった。母が部屋に入ろうとすると、とんでもない力でドアを押さえつけて開かないようにするのだ。母は憔悴し、私は、こんな大きなお荷物背負って気の毒だねと母に目配せすると、母は疲れたように首をふった。

 私は、はっきりいうと、学校に行くという最低限の義務を果たさない文子に苛立っていた。どうしていやがるのか。友達でも作って楽しくやればいいのに、友達はいないのか。なぜなのか。なぜ、やる気がないのか。わがままだ。これは。そう思ったのだ。私には文子の気持ちなどわからないのだ。

 トイレに行く文子とすれ違う時がたまにあった。すると私は、文子をわざとじろじろとみて、居心地悪い思いをさせることをやめなかった。文子は言い返せないことをしているという気があるのか、なにも言わないが、むっつりと口をつぐみ、目を細く据えて、遠くを見ていた。

 日を追うごとに風呂に入らない文子からは悪臭がするようになった。すれ違うとき、酸っぱいにおいが鼻の穴に入ってくると、私は思わずうっと息を止めた。

「あんた風呂ぐらい入りなさいよ。臭いよ」

 私が言っても、このころには文子は返事すらもしなくなっていた。

 どんどんぶくぶく太って、壁にすり寄るように密かに動いているこの肉がたまりが私は不快だった。

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