第四章 戦地からの帰還

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 チェリーとノエルがアストン家に来てから、一年と少しの日々が過ぎた。

 季節がめぐり、戦争が終わり、ほうは届かなかった。

 最前線の激戦地にて、バーナードは生き延びたということらしい。


「お兄様、いつお帰りになるかしら。夢みたい。ああ、早くお会いしたいわ」


 喜ぶキャロライナの前に、熱々のマッシュポテトときゅうりのピクルス、きにしたナスをよそった皿を差し出す。

 トマトのスープには、ハーブを刻んで散らし、いろどりよく。

 料理を目にしたキャロライナは、今度は青灰色のひとみかがやかせて「今日も美味おいしそう!」と声をはずませた。


「チェリーさんが来てくれて、この家も変わったわ! 心から感謝しているの。もちろん、ノエルにも感謝しているわよ。冬の間、ノエルといっしょているとすごく暖かくて」


 キャロライナは、目を輝かせて話を聞いているノエルにも、感謝の言葉を口にする。以前にも増して、最近のキャロライナはじょうぜつだ。

 母であるヘンリエットはいかめしい顔をして、テーブルについている。チェリーがこしを下ろすと、いのりの言葉を口にして、食事の開始を告げた。


「このスープの美味しいことといったらないわね! チェリーさんが作ってくれると、どんな料理もほうみたいに美味しくなるの。お兄様も、びっくりするわよ」


 すらすらとめ続けるキャロライナに礼を言いつつ、チェリーはそわそわとした落ち着かない気分になる。


(いよいよバーナードさんが帰ってくる……。三通目の手紙はなかったから、こんについては、帰ってから直接私と話すおつもりでしょうか)

 気持ちの上では離婚するつもりでいるチェリーであるが、最近はアストン家の「若奥

様」として名前と顔が知られてしまっている。

 離婚してチェリーがしきを出れば「バーナードが追い出した」と悪評が立たないか、という新たな心配の種に、頭をなやませていた。


「チェリーさん、昨日は教会ときゅうひん院へのほう活動、ごくろうさまでした」


 スープをすすっているチェリーに、ヘンリエットが声をかけてきた。チェリーはそくに「今回も喜んで頂けましたよ」と答える。

 庭で育てた野菜を、屋敷に残っていたリネン類とともに、しや傷病人の保護を行っているせつに寄付してきたのだ。それは「高貴なるものの責務」を胸に生きているヘンリエットの意向であり、チェリーは手伝っているだけというにんしきであった。

 だが、大っぴらに活動をしているつもりがなくても、いつしか心がけの立派な若奥様として、チェリーの名が知られるようになってしまったのである。


(荷台つき馬車を出して協力してくれるリンダさんが、面白おもしろがって若奥様、若奥様って言うから……)

 以前からの知り合いのリンダには、結局チェリーがアストン家にいる事情を打ち明けたのだ。すると「離婚なんかしないで、そのままだんを妻としてむかえればいいじゃない!」と言って、「やり手の若奥様」としてチェリーのうわさを積極的に広め始めてしまったのだ。

 実際のところ、ほとんど経験がないところからの家庭菜園だったのに、屋敷の五人で食べる以上にしゅうかくがあったのは思わぬ誤算だった。

 チェリーは天候などの条件にめぐまれて運が良かっただけと考えているので、自分のがらとしてふいちょうすることはなかった。

 それにもかかわらず、いまや「やり手の若奥様」の評判は、独り歩きをしている状態だ。


「今年も、春先から植えていた野菜が、かなりい勢いで実っています。収穫したら、またたくさん寄付をしてきます」


 季節が巡るころには、バーナードと離婚をして、屋敷を出ているかもしれない、とチェリーは考えている。それでも、いまはできる限りのことはする。

 その心づもりでチェリーが言うと、ヘンリエットは表情を動かさないまま答えた。

「最近は、少し風向きが変わってきました。これからは、野菜を売っても良いのですよ」

 思いがけぬことを言われて「え?」とチェリーは目をまばたく。

 ヘンリエットは、たんたんとした口調で続けた。


「戦争が終わって、人の流れも物の流れも変わってくるでしょう。つらいときはほどこしにたよるしかなくとも、これからは買ってでも手に入れたいと考えるひとも増えてきます。しかし、売られていなければ、買うことができません」


 じわじわと、その言葉の意味に、理解が追いつく。

 新しい時代がくるのだ、と。


(戦争から男のひとたちが帰ってきて、仕事を始める。祝い事や喜びがあり、無理をしてでも少しだけぜいたくしたい日がある。そういうときに、買いたいものが売られていなければ、戦後を実感する機会もないものね。さすが、奥様のお考えは深いわ……)


 戦時下のあらなみの中を、一見して生活力のまったくないアストン家が、結果的に非常にうまく乗り切ってきたのは、ぐうぜんではない。そのときそのとき、最善の判断を下してきたヘンリエットの存在あってこそだと、チェリーは実感していた。

 屋敷の家事や雑務、家庭菜園を取り仕切っているのは「若奥様」のチェリーだが、そのチェリーを見つけ出して連れてきたのはヘンリエットなのである。チェリーは、適材適所のさいはいがあったから力を発揮できたに過ぎない。

 開け放った窓から、食堂の中へ初夏の風がき込んできた。

 庭で、エルダーフラワーの枝が葉をらしている。白い小さな花もせいだいいていた。


「わかりました。収穫した作物にゆうがあれば、市場に持って行ってみます」

「売れたら、そのお金はあなたの裁量で使って構いません。あなたのかせぎなのです。何か、必要なものもあるでしょう」


 そっけなく言って、ヘンリエットは食事を再開した。


(必要なもの……、私がしいもの?)


 そんなこと、長い間忘れていた。

 考えたこともなかった。

 長屋暮らしのあのどんまりのじょうきょうからけ出すことができて、ノエルと二人で生き延びられただけで、十分だと思っていたから。


「チェリー、ケーキ作って。ケーキが食べたい!」


 大人の会話を聞きつけたノエルにすかさず主張されて、チェリーは「お祝い事があったらね」と答えてから、改めて思いを巡らす。

 バーナードが帰ってくる、その意味を。


(奥様がいて、元気になったキャロライナさんがいて、バーナードさんが帰ってくる……。あてにしていた遺族年金は入らなくても、この方々ならこの先、きっとうまくやっていくのでしょう)


 こうなると、ノエルはともかく、当主の妻のチェリーとしては、身の置所がない。もしかしたら、バーナードが帰ってくる前にさっさと屋敷を立ち去るべきかもしれない。

 しかし、庭でナスとトマトが育ちすぎていて、放置するわけにはいかないという事情があった。いまはまだ、出ていけない。

 バーナードとは書類上のけっこんは済んでいるので、やはり一度本人に会って、しっかり離婚もしなければならない。

 理由をつけてアストン家に留まる間にも、日々は過ぎていく。



*****



「今日は、収穫したナスとトマトを売れるだけ売って、ミンスパイの材料を買ってきます」


 今日明日にでも兵士が帰ってくるのでは、と町で噂が出始めた頃、チェリーは朝の仕事をあらかた終えてからマリアに声をかけた。


「バーナードさんが、ミンスパイをお好きだと聞いたものですから。りんごは秋に収穫してかんそうさせた分がありますけど、干しブドウはどこかからお分けいただかなくては。それから」


 言い訳がましく、早口にまくしたてるチェリーに対し、マリアは「はて?」と不思議そうに告げた。


「ぼっちゃんはミートパイですよ。奥様とおじょうさまはときどき適当なことを言いますから」

「ミンスパイじゃなくて? 甘いパイではなく、お肉のパイがお好きなの?」


 ええ、とマリアは力強くうなずく。

 チェリーとしては、とっさに判断に迷うところであった。


(適当なことを言うといえば、マリアさんもなのよね。このお屋敷のみなさんは、そろっておおらかだから。命に関わることでもないし、目くじらたてるところじゃないのだけど)


 いざとなったら、どちらも作れるように準備だけはしておこうと思いながら、チェリーは市場へ向かった。



*****



 その日はとても天気が良く、市場はみょうに活気にあふれていた。

 耳に飛び込んでくる人々の話によれば、駅についた列車から何人か兵士たちが下りてきたらしい。


(バーナードさんは最前線まで行っていたはずだから、もう少しおそいお着きよね)


 あわてることはないわ、と思いながらチェリーはいくつかの店の前を通り過ぎる。

 アクセサリー雑貨の店まであることに、内心おどろいた。見たところ、安っぽい作りの櫛

くしやネックレス、指輪が並んでいるようだった。そういったものを買う発想は、戦争中はいっさいなかった。少しだけ見てみようかと足が向きかけたが、そんな場合ではないと自分に言

い聞かせる。買う理由がない。

 適当な空きスペースを見つけて、ナスとトマトをてんに並べた。

 ものの見事に飛ぶように売れた。だれも彼もがかれた空気だった。

 ぜにふくらんだぶくろを持ち、今度は自分が買い物をしようと辺りを見回したチェリーは、さきほどのそうしょく品の露店の前で、ぼんやりとたたずんでいる軍服姿のひとかげに気づいた。

 くしゃくしゃでほこりっぽいきんぱつの青年は、品物を見ているのか見ていないのか、とにかく気の抜けた様子で立っていた。

 戦場から日常にもどってきて、まだうまくこの世にたましいめていない様子だ。

 チェリーは思い余って、すぐそばまで歩み寄り、声をかけた。


「何かお探しですか?」


 青年は、みどりの瞳でチェリーを見下ろして「指輪……」とつぶやいた。


(あら、きっと帰りを待つ女性がいるのね)


 久しぶりに会うのに、お土産みやげが欲しいのだろう。

 ほほましい気持ちになりつつも、青年の困りきった様子が気になって「相手の方のお好みは?」とさらにみ込んでたずねてみた。


「好み? そうか。そうだよな。こういうのは相手の好みに合わせて選ぶものだよな」


 言われて初めて気づいたとばかりに、青年は目を瞬いた。

 そのしゅんかん、ぼんやりとした印象だった瞳に、光が差す。表情が生き生きとしたものになり、チェリーをまっすぐに見つめて、明るい口調で言った。


「ありがとうございます。本当に、何も考えていなくて。今まで、女性におくものをしようとしたことがなかったから何も気づかなくて……あっ、いや。ええとすみません」


 話しながら急にずかしくなったように、青年はほんのりとほおを染めて、横を向いた。

 思いがけないことを告白されたチェリーも、とっさにうまいことを言えずに無言になってしまう。


こいびとへの贈り物……じゃない? もしかして、これからプロポーズ?)


 戦争に行く前に、好きだと言えずに別れた相手に、指輪を持って真っ先に会いに行くつもりなのだろうか? と、人ごとながらドキドキとしてしまい、チェリーはそっと青年の様子をうかがってみた。

 すらりとして背が高く、かたが広い。たんせいな横顔には、品の良さがただよっている。

 視線を感じたのか、青年はそうな顔で、チェリーに向き直ってきた。

 チェリーは、んだ翠の瞳を見ていられずに、まぶしさを感じて目を細めた。


「あ、あの……、出過ぎたことを言ってすみません。私はこれで……」


 気軽に話しかけてしまったのは失敗だったと、こうかいの念にられて、かすれた声でそれだけ告げる。チェリーはその場から立ち去るべく、一歩後ずさった。

 青年は、はっとしたように目をみはり「待ってください」と呼び止めてきた。


「指輪を、見立ててもらえませんか?」

「そ、そんな責任重大なこと! 私じゃなくて、他にもっと誰か、適したひとが」

「誰もいません。つまり、誰かに聞けたら、こんなに悩んでいないので。その……、もし君が指輪を受け取るとしたら、どんな指輪が良いだろうか。それだけでも、教えてくれたら」

「そんなこと」


 できませんよ、という言葉をチェリーはみ込んだ。青年の態度があまりにもしんせまっていて、今さら投げ出すわけにはいかない、と感じたせいだ。


(この方から指輪を贈られる女性は、どんな方なんだろう。きっと、お似合いのすごくてきな方ね)


 チェリーは心を落ち着けて「わかりました、やってみます」と答えてから、並べられた品物をはしからながめる。

 緑色のガラスのはまった、しんちゅうらしい材質の指輪が目に留まった。すぐにびてしまいそうにも見えたが、色の組み合わせが、青年のかみや瞳をほう彿ふつとさせる。


「あの指輪が良いように思います」

「ありがとう。助かった。君はとても良い人だ」


 青年は大げさな感謝を口にしながら、ふところに手を入れてくたびれたかわさいを取り出す。


 ひらりと一枚紙が落ちて、チェリーのくつ先にたどりついた。「あっ」と慌てた青年の声を聞きながら、チェリーはそれを拾い上げる。

 黄ばんでよごれたその紙には、何やら見覚えのある字が書かれていた。


「ああ、ありがとうございます。それ、妻からの手紙なんです。戦場でずっと持っていたのでぼろぼろなんですけど、すごく大切なものなんです」


 チェリーから手紙をいそいそと受け取り、ていねいに礼を言ってから、青年は店主に対して指輪を指し示しつつ声をかける。チェリーは半信半疑のまま、その広い背中を見つめた。


(いまの手紙……。いっしゅんしか見えなかったけど、まさか)


 青年は、ついでのように、何かもう一つ買った。チェリーの元まで引き返してきて、それを差し出してくる。青いガラスのはまった、シルバーのすかりのブレスレットだった。


「これはあなたに。親切にしていただいたお礼です。せっかく戦争が終わったので楽しく暮らしてください。あっ、いらなかったら売ってもいいですよ。というかいらなかったですか。食べ物の方が良かったかな」


 チェリーがぼんやりとしているので、青年は「これは、いら、ない?」とばかりに瞳に不安そうな色を浮かべて様子をうかがってきた。だまっていてはさらに話がこじれそうだと思い、チェリーはいさぎよく「ありがとうございます」と言ってブレスレットを受け取った。

 青年はほっとしたようにみを浮かべてから、とてもうれしそうに「親切な方に会えたので気持ちが軽くなりました。俺は妻がいる身なので食事にさそったりはしませんが、あなたにこの先、幸せなことがあると良いなと思います」と言ってきた。

「妻……。指輪は、もしかして」


 チェリーは、まばたきも忘れて、青年を見つめた。青年はがおで、「はい」と認める。


「妻は、戦場にいるときに、手紙で俺をはげましてくれたんです。俺が生きて戻れたのは、妻が帰ってこいって言ってくれたからだと思います。帰りたくても、帰れなかった仲間もたくさんいるんですけどね……。何人かの遺品も預かっているので、いつか届けに行かないと。生き延びた俺は、どうしてお前だけ生きているんだって、責められるかもしれないけど」


 青年はそこで、不意に口をつぐんだ。

 黙り込んだままのチェリーを前に、「話しすぎた」と後悔したように見えた。


(私は、あなたの話を聞くのがいやだったわけでも、おしゃべりにあきれたわけでもないんです。ただ、とても驚いていて)


 胸がいっぱいで、なかなか言葉が出てこなかったのだ。

 ようやく言えたのは、チェリーがずっと知りたかったのに、聞きそびれていたことだ。


「ミンスパイとミートパイは、どちらがお好きですか?」


 アストン家の面々は、チェリーの作る料理をことのほか喜んでくれる。まだ見ぬ夫が帰ってきたら、彼の一番好きな料理を作ろうと思っていた。だから、これはチェリーにとってはとても大切な質問だったのである。

 しかし、青年は不思議そうに首をかしげながら、チェリーを見つめてきた。


「ミンスパイとミートパイか……。気にしたことなかったな」

「気にしたことが、ない?」


 チェリーが聞き返すと、青年は考えながらりちに答える。


「どっちも好きだけど、ミンスパイってひき肉が入ってることもありますよね? 実質ミートパイっていうか。家で出されたものを食べる分には、いちいち名前まで気にしてなかったな……。なつかしいな、パイの得意な料理人がいて、昔はずいぶん作ってもらった」


 ふわっと笑った顔が、子犬を思わせるひとなつっこさだった。ノエルのような子どもを相手にしているようなさっかくおちいり、チェリーはドキッとして視線をそらした。


(気にしていないパターンだった! どっちがじゃなくて「お好きな食べ物はなんですか」って、いっそストレートに聞けば良かった!)


 今さらそれを聞くには、えなければならない難関がある。なぜそれを知りたいのか。

 つまり、自分がどこの誰で、彼にとって何であるかを、伝えなければならない。このタイミングでそれを口にするのは、勇気がいる。まだ確信も持てていないし、かくもついていない。

 青年は、にこにことしたまま続けた。


「もしかして、今日の晩ごはんを悩んでいるんですか? 俺が決めていいのかな? どうしよう、すごくおなか空いてきたな。お腹空いているのはいつもなんですけどね、故郷に帰ってきて最初に食べるならやっぱり、あれかなぁ……」

「あれ? あれ、、ってなんですか?」


 そこはくわしく知りたいです、と聞こうとしたところで、横合いからっ込んできた男がどかんと青年に体当たりをした。


「おまえ、バーナードか? バーナードだろ! うわ〜、よく無事だったな! 戦争行ったら一番最初に死にそうな顔してるくせに、がんったなぁ……。手足も全部揃って帰ってくるとは。本物だよな? ゆうれいってやつじゃねえよな?」


 同年代くらいの、農民風の身なりをした青年であった。バーナードと呼ばれた青年は「あはは、本物だよ」と笑いながら、相手の背にうでを回した。


「ただいま。ジェドこそ、生きていてくれて嬉しいよ。またよろしく」


 知り合いらしく、チェリーと話すときよりもくだけた口調になる。肩にうずめた横顔には本当にやさしい微笑みが浮かんでいて、チェリーはそばで見ていただけなのに、またもやドキドキとして落ち着かない気分になってきた。

 ジェドと呼ばれた青年は、左足のひざから下がないようだ。つえをついている。バーナードは背にまわした腕で相手の体重を受け止めて支え、「会えて良かった」とかえした。


「俺も良かったよぉ……。バーナードが生きてて良かったよぉ……! ああ、そうだ、お前な! にょうぼうと子どもがいただなんて、いつの間に? 赤毛の若奥様がアストン家を仕切っているって聞いて、びっくりしたぞ! ずいぶんなやり手らしいじゃないか!」


 びくっと肩をふるわせて、チェリーはその場で一歩後退した。

 やぶから棒に、自分の話題が飛び出したことに、おののく。


「子ども? 妻はいるけど、子ども? 初耳だな」


 不思議そうな顔をしたバーナードを見ていられず、さらに一歩後退。

 ジェドは大笑いをしながら、ばしばしとバーナードの背をたたいた。


「そりゃ、やることやってりゃ子どもはできるだろうって! お前がいない間に生まれたんだろ! 帰ったら育ったむすがいて、『このひと誰?』なんて聞いてくるんだろうな。……あれ? でも子どもは四歳くらいって聞いたかな。お前が戦地へ行く前に生まれていないと計算が合わないような」


 ん? と首を傾げるジェド。その顔に、「あれ、これまずいんじゃ?」と察した気まずさが|露《

ろ》こつに浮かぶ。

 バーナードは特に表情を変えることなく「なるほどなぁ」とのんびり呟いていた。


「俺の妻には子どもがいるのか」


 ジェドがあせりのままに「いやいやいや? いやいやいや俺のかんちがいだったかも!」とフォローをするが、空気はどんどん妙なものになっていく。


(ヘンリエット様、ノエルのこと、説明なさっていないのですね……!)


 この期におよんで、その大前提にれていないとは。しかし、ヘンリエットを責める気持ちはない。なぜなら、チェリー自身彼と手紙のやりとりがあったにもかかわらず、そこに触れなかったのだから。

 その後もジェドが何か言っているのが聞こえたが、内容まで聞いていられない。

 チェリーはくるりと背を向けた。そっと立ち去ろうとしたところ、背後から「ありがとう!」というバーナードのさわやかな声が聞こえてきたが、り返ることもできぬまま、走ってその場からげ出してしまった。


(たまたま話しかけた相手がバーナードさんだなんて、そんなことある!?)


 なんで話しかけてしまったのか、ともうれつな後悔の念におそわれる。この後、顔を合わせたときに、「妻」は見ず知らずの男性に声をかけるはしたない女だと思われないだろうか。

 市場を抜けて、ひとけのない道まで来たところで、青空を見上げてさけぶ。


「結局、好きなものも聞けなかった! バーナードさん、故郷に帰ってきたらまず食べたい『あれ』って何なの? 言いかけたなら、せめて最後まで教えてよ……!」


 逃げた自分が悪いので、ぼやきは完全に八つ当たりだ。

 後悔をかかえながら走り続け、屋敷へと帰り着く。他に帰る場所もないからだ。

 ほどなくして、チェリーが市場に置き去りにしてきたバーナードもまた、屋敷へとうちゃくした気配があった。

 兄様ー、とキャロライナが彼を呼ぶ声が聞こえた。げんかんホールにむかえに出ているようだった。チェリーも、自分もそこへ行くべきだと思ったのだが、足がていこうしてその場から動けなかった。逃げた手前、合わせる顔がない。


(やり手の若奥様とか、子どもがいるとか、そうなんだけど、説明が難しい……。奥様と、キャロライナさんが先に少しでも話してくれないかしら……! いえ、人任せにしている場合ではないわ)


 チェリーは一年以上もこの屋敷で暮らしているし、バーナードとは手紙でのやりとりもあったのだ。

 しかも、まったく面識がないわけではなく、偶然とはいえ彼とはさきほど会っている。

 彼はそのとき「妻」のチェリーへ、お土産まで用意しようとしていた。

 目をつぶれば、あのときの笑顔が浮かんでくる。

 くしゃっとした金髪の、子どもみたいに笑う……。

 思い出しただけで、チェリーは頭を抱えてしまった。


(なんだか、想像とちがう! もっと、ヘンリエット様みたいに貴族っぽくて、ぜんとして生真面目そうでとっつきにくいひとかと思っていた!)


 焦りすぎたせいで、よく見なかっただけかもしれない。

 もう一度顔を合わせてみたら、また印象が変わるかもしれない。

 そのこう心に負けて、チェリーはそっとキッチンを抜け出し、玄関ホールへ向かった。




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