第四章 戦地からの帰還
4-1
チェリーとノエルがアストン家に来てから、一年と少しの日々が過ぎた。
季節が
最前線の激戦地にて、バーナードは生き延びたということらしい。
「お兄様、いつお帰りになるかしら。夢みたい。ああ、早くお会いしたいわ」
喜ぶキャロライナの前に、熱々のマッシュポテトときゅうりのピクルス、
トマトのスープには、ハーブを刻んで散らし、
料理を目にしたキャロライナは、今度は青灰色の
「チェリーさんが来てくれて、この家も変わったわ! 心から感謝しているの。もちろん、ノエルにも感謝しているわよ。冬の間、ノエルと
キャロライナは、目を輝かせて話を聞いているノエルにも、感謝の言葉を口にする。以前にも増して、最近のキャロライナは
母であるヘンリエットはいかめしい顔をして、テーブルについている。チェリーが
「このスープの美味しいことといったらないわね! チェリーさんが作ってくれると、どんな料理も
すらすらと
(いよいよバーナードさんが帰ってくる……。三通目の手紙はなかったから、
気持ちの上では離婚するつもりでいるチェリーであるが、最近はアストン家の「若奥
様」として名前と顔が知られてしまっている。
離婚してチェリーが
「チェリーさん、昨日は教会と
スープをすすっているチェリーに、ヘンリエットが声をかけてきた。チェリーは
庭で育てた野菜を、屋敷に残っていたリネン類とともに、
だが、大っぴらに活動をしているつもりがなくても、いつしか心がけの立派な若奥様として、チェリーの名が知られるようになってしまったのである。
(荷台つき馬車を出して協力してくれるリンダさんが、
以前からの知り合いのリンダには、結局チェリーがアストン家にいる事情を打ち明けたのだ。すると「離婚なんかしないで、そのまま
実際のところ、ほとんど経験がないところからの家庭菜園だったのに、屋敷の五人で食べる以上に
チェリーは天候
それにもかかわらず、いまや「やり手の若奥様」の評判は、独り歩きをしている状態だ。
「今年も、春先から植えていた野菜が、かなり
季節が巡る
その心づもりでチェリーが言うと、ヘンリエットは表情を動かさないまま答えた。
「最近は、少し風向きが変わってきました。これからは、野菜を売っても良いのですよ」
思いがけぬことを言われて「え?」とチェリーは目を
ヘンリエットは、
「戦争が終わって、人の流れも物の流れも変わってくるでしょう。
じわじわと、その言葉の意味に、理解が追いつく。
新しい時代がくるのだ、と。
(戦争から男のひとたちが帰ってきて、仕事を始める。祝い事や喜びがあり、無理をしてでも少しだけ
戦時下の
屋敷の家事や雑務、家庭菜園を取り仕切っているのは「若奥様」のチェリーだが、そのチェリーを見つけ出して連れてきたのはヘンリエットなのである。チェリーは、適材適所の
開け放った窓から、食堂の中へ初夏の風が
庭で、エルダーフラワーの枝が葉を
「わかりました。収穫した作物に
「売れたら、そのお金はあなたの裁量で使って構いません。あなたの
そっけなく言って、ヘンリエットは食事を再開した。
(必要なもの……、私が
そんなこと、長い間忘れていた。
考えたこともなかった。
長屋暮らしのあのどん
「チェリー、ケーキ作って。ケーキが食べたい!」
大人の会話を聞きつけたノエルにすかさず主張されて、チェリーは「お祝い事があったらね」と答えてから、改めて思いを巡らす。
バーナードが帰ってくる、その意味を。
(奥様がいて、元気になったキャロライナさんがいて、バーナードさんが帰ってくる……。あてにしていた遺族年金は入らなくても、この方々ならこの先、きっとうまくやっていくのでしょう)
こうなると、ノエルはともかく、当主の妻のチェリーとしては、身の置所がない。もしかしたら、バーナードが帰ってくる前にさっさと屋敷を立ち去るべきかもしれない。
しかし、庭でナスとトマトが育ちすぎていて、放置するわけにはいかないという事情があった。いまはまだ、出ていけない。
バーナードとは書類上の
理由をつけてアストン家に留まる間にも、日々は過ぎていく。
*****
「今日は、収穫したナスとトマトを売れるだけ売って、ミンスパイの材料を買ってきます」
今日明日にでも兵士が帰ってくるのでは、と町で噂が出始めた頃、チェリーは朝の仕事をあらかた終えてからマリアに声をかけた。
「バーナードさんが、ミンスパイをお好きだと聞いたものですから。りんごは秋に収穫して
言い訳がましく、早口にまくしたてるチェリーに対し、マリアは「はて?」と不思議そうに告げた。
「ぼっちゃんはミートパイですよ。奥様とお
「ミンスパイじゃなくて? 甘いパイではなく、お肉のパイがお好きなの?」
ええ、とマリアは力強く
チェリーとしては、とっさに判断に迷うところであった。
(適当なことを言うといえば、マリアさんもなのよね。このお屋敷の
いざとなったら、どちらも作れるように準備だけはしておこうと思いながら、チェリーは市場へ向かった。
*****
その日はとても天気が良く、市場は
耳に飛び込んでくる人々の話によれば、駅についた列車から何人か兵士たちが下りてきたらしい。
(バーナードさんは最前線まで行っていたはずだから、もう少し
アクセサリー雑貨の店まであることに、内心
くしやネックレス、指輪が並んでいるようだった。そういったものを買う発想は、戦争中は
い聞かせる。買う理由がない。
適当な空きスペースを見つけて、ナスとトマトを
ものの見事に飛ぶように売れた。
くしゃくしゃで
戦場から日常に
チェリーは思い余って、すぐそばまで歩み寄り、声をかけた。
「何かお探しですか?」
青年は、
(あら、きっと帰りを待つ女性がいるのね)
久しぶりに会うのに、お
「好み? そうか。そうだよな。こういうのは相手の好みに合わせて選ぶものだよな」
言われて初めて気づいたとばかりに、青年は目を瞬いた。
その
「ありがとうございます。本当に、何も考えていなくて。今まで、女性に
話しながら急に
思いがけないことを告白されたチェリーも、とっさにうまいことを言えずに無言になってしまう。
(
戦争に行く前に、好きだと言えずに別れた相手に、指輪を持って真っ先に会いに行くつもりなのだろうか? と、人ごとながらドキドキとしてしまい、チェリーはそっと青年の様子を
すらりとして背が高く、
視線を感じたのか、青年は
チェリーは、
「あ、あの……、出過ぎたことを言ってすみません。私はこれで……」
気軽に話しかけてしまったのは失敗だったと、
青年は、はっとしたように目をみはり「待ってください」と呼び止めてきた。
「指輪を、見立ててもらえませんか?」
「そ、そんな責任重大なこと! 私じゃなくて、他にもっと誰か、適したひとが」
「誰もいません。つまり、誰かに聞けたら、こんなに悩んでいないので。その……、もし君が指輪を受け取るとしたら、どんな指輪が良いだろうか。それだけでも、教えてくれたら」
「そんなこと」
できませんよ、という言葉をチェリーは
(この方から指輪を贈られる女性は、どんな方なんだろう。きっと、お似合いのすごく
チェリーは心を落ち着けて「わかりました、やってみます」と答えてから、並べられた品物を
緑色のガラスのはまった、
「あの指輪が良いように思います」
「ありがとう。助かった。君はとても良い人だ」
青年は大げさな感謝を口にしながら、
ひらりと一枚紙が落ちて、チェリーの
黄ばんで
「ああ、ありがとうございます。それ、妻からの手紙なんです。戦場でずっと持っていたのでぼろぼろなんですけど、すごく大切なものなんです」
チェリーから手紙をいそいそと受け取り、
(いまの手紙……。
青年は、ついでのように、何かもう一つ買った。チェリーの元まで引き返してきて、それを差し出してくる。青いガラスのはまった、シルバーの
「これはあなたに。親切にしていただいたお礼です。せっかく戦争が終わったので楽しく暮らしてください。あっ、いらなかったら売ってもいいですよ。というかいらなかったですか。食べ物の方が良かったかな」
チェリーがぼんやりとしているので、青年は「これは、いら、ない?」とばかりに瞳に不安そうな色を浮かべて様子をうかがってきた。
青年はほっとしたように
「妻……。指輪は、もしかして」
チェリーは、
「妻は、戦場にいるときに、手紙で俺を
青年はそこで、不意に口をつぐんだ。
黙り込んだままのチェリーを前に、「話しすぎた」と後悔したように見えた。
(私は、あなたの話を聞くのがいやだったわけでも、おしゃべりに
胸がいっぱいで、なかなか言葉が出てこなかったのだ。
ようやく言えたのは、チェリーがずっと知りたかったのに、聞きそびれていたことだ。
「ミンスパイとミートパイは、どちらがお好きですか?」
アストン家の面々は、チェリーの作る料理をことのほか喜んでくれる。まだ見ぬ夫が帰ってきたら、彼の一番好きな料理を作ろうと思っていた。だから、これはチェリーにとってはとても大切な質問だったのである。
しかし、青年は不思議そうに首を
「ミンスパイとミートパイか……。気にしたことなかったな」
「気にしたことが、ない?」
チェリーが聞き返すと、青年は考えながら
「どっちも好きだけど、ミンスパイってひき肉が入ってることもありますよね? 実質ミートパイっていうか。家で出されたものを食べる分には、いちいち名前まで気にしてなかったな……。
ふわっと笑った顔が、子犬を思わせる
(気にしていないパターンだった! どっちがじゃなくて「お好きな食べ物はなんですか」って、いっそストレートに聞けば良かった!)
今さらそれを聞くには、
つまり、自分がどこの誰で、彼にとって何であるかを、伝えなければならない。このタイミングでそれを口にするのは、勇気がいる。まだ確信も持てていないし、
青年は、にこにことしたまま続けた。
「もしかして、今日の晩ごはんを悩んでいるんですか? 俺が決めていいのかな? どうしよう、すごくお
「あれ?
そこは
「おまえ、バーナードか? バーナードだろ! うわ〜、よく無事だったな! 戦争行ったら一番最初に死にそうな顔してるくせに、
同年代くらいの、農民風の身なりをした青年であった。バーナードと呼ばれた青年は「あはは、本物だよ」と笑いながら、相手の背に
「ただいま。ジェドこそ、生きていてくれて嬉しいよ。またよろしく」
知り合いらしく、チェリーと話すときよりも
ジェドと呼ばれた青年は、左足の
「俺も良かったよぉ……。バーナードが生きてて良かったよぉ……! ああ、そうだ、お前な!
びくっと肩を
「子ども? 妻はいるけど、子ども? 初耳だな」
不思議そうな顔をしたバーナードを見ていられず、さらに一歩後退。
ジェドは大笑いをしながら、ばしばしとバーナードの背を
「そりゃ、やることやってりゃ子どもはできるだろうって! お前がいない間に生まれたんだろ! 帰ったら育った
ん? と首を傾げるジェド。その顔に、「あれ、これまずいんじゃ?」と察した気まずさが|露《
ろ》
バーナードは特に表情を変えることなく「なるほどなぁ」とのんびり呟いていた。
「俺の妻には子どもがいるのか」
ジェドが
(ヘンリエット様、ノエルのこと、説明なさっていないのですね……!)
この期に
その後もジェドが何か言っているのが聞こえたが、内容まで聞いていられない。
チェリーはくるりと背を向けた。そっと立ち去ろうとしたところ、背後から「ありがとう!」というバーナードの
(たまたま話しかけた相手がバーナードさんだなんて、そんなことある!?)
なんで話しかけてしまったのか、と
市場を抜けて、ひとけのない道まで来たところで、青空を見上げて
「結局、好きなものも聞けなかった! バーナードさん、故郷に帰ってきたらまず食べたい『あれ』って何なの? 言いかけたなら、せめて最後まで教えてよ……!」
逃げた自分が悪いので、ぼやきは完全に八つ当たりだ。
後悔を
ほどなくして、チェリーが市場に置き去りにしてきたバーナードもまた、屋敷へ
兄様ー、とキャロライナが彼を呼ぶ声が聞こえた。
(やり手の若奥様とか、子どもがいるとか、そうなんだけど、説明が難しい……。奥様と、キャロライナさんが先に少しでも話してくれないかしら……! いえ、人任せにしている場合ではないわ)
チェリーは一年以上もこの屋敷で暮らしているし、バーナードとは手紙でのやりとりもあったのだ。
しかも、まったく面識がないわけではなく、偶然とはいえ彼とはさきほど会っている。
彼はそのとき「妻」のチェリーへ、お土産まで用意しようとしていた。
目を
くしゃっとした金髪の、子どもみたいに笑う……。
思い出しただけで、チェリーは頭を抱えてしまった。
(なんだか、想像と
焦りすぎたせいで、よく見なかっただけかもしれない。
もう一度顔を合わせてみたら、また印象が変わるかもしれない。
その
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます