蝉時雨

にわかの底力

蝉時雨

 何人にも死を予感させる天空の冷気は地に落ちて、遠い山の頂上に染み込み、時間をかけて一つに集められる。長い年月の末に一筋の流れとなって、私の元へ到達すると、冷気は私の足の指間をくすぐるように体内へと入り込む。意識を朦朧もうろうとさせる日光の下で私は、この冷気に生を実感していた。

 強い日光の下に麦わら帽子は、頭に熱せられた蒸気を集めるだけでまるで意味をなさず、ついに生まれ持った用途の変更を余儀なくされ、私の枕へとなり変わる。その身に鋼を忍ばせたかの如く真直ぐ伸びた土手の芝生も、私の背中に押し付けられると抵抗虚しく折れ曲がり、なお反発しようとする逞しい雑草の根性は、灼熱のような炎天下で眠気を誘う、地獄の子守歌のように私の身体を包み込んだ。

 頭上で金属の発する耳障りな摩擦音と砂利を跳ね除ける危なっかしい雑音が響いたかと思うと、まるで新雪が降り積もるような柔らかい音で生い茂る草木を踏みしめる一筋の影が、私と太陽の間に入った。

「なにしてんの?」

「見てわがんねぇ?」

「わがんねぇから聞いてんの」

 私たちが幼い頃の記憶にある、日光が透き通るほどの白さを誇る細い脚はどこへ消えてしまったやら、今やその日光に焼かれ、私の腕より健康的な彼女の脚に、何の気なしに手を掛ける。明確にセクハラの意思を持って行った行動であるが、彼女が私の意思に気が付いたことは、これまでに一度たりとなかった。

「俊くんさ、今夜、稲荷さんで祭りさあるんだけっど」

「知っとるがな」

「うち、俊くんのうちさ行ぐがらさぁ、うちと一緒に来てくんちぃ」

 辺りを見回して姿すら見えないのに、その声だけは矢鱈やたら聞こえるアブラゼミの鳴き声が、この瞬間は特に激しく耳に入り込んできた。足裏がなぞる川底の石の輪郭が、はっきりとしてきた。銅の針金のような光沢を持つ彼女の茶色掛った黒髪に反射する日光が、私の視界を埋め尽くした。

彼女の汗で青黒い水玉模様に変えられた純白のティーシャツと、強い力で引き裂かれ、無数の繊維を垂れ下げたハーフパンツの間から、その中が見えてしまうほどに、彼女は私の顔を覗き込む。彼女の首元から一滴の雫が目下に叩きつけられ、眼球に張り付いた粘膜を根こそぎ剥ぎ取るような鋭い痛みが五感すべてを振り払い、ろうにでもなってしまったかのように動かなくなった私の身体は、足元から激しい水しぶきをあげながら反射的に起き上がった。

「はぁ? おめぇのしゃでいと行きなっせ」

「いやや、もうあいつとなんて行きっちゃくね。うちもね、昨日誘ったんだけんど、あいつ全く聞いでぐんねえくって。ほしたら今日さ、あいつ急に色づきよって、気持ちきへぇわり。男と一緒に行ぐんでねぇがな。知ったこっちゃね」

ため息交じりに膝に手を付き、立ち上がる。本来彼女より背の高いはずが、土手の急坂にいる所為で彼女に見下ろされている私は、濡れた足のままサンダルを履くと、彼女に手を差し出した。

「一緒にっぺぇ?」

「持つよ」

「ん、あんがと」

 彼女が肩に掛けていた、ここのところほとんど見なくなった大きさのお化けスイカがぶら下がったネットを受け取る。肩に掛けると、ネットの紐が、鎖骨が浮き出た貧相な肩にぐっと食い込み、坂道であることも相まって、重心が後ろへと倒れた。

「ちょお俊くん相変わらず力無さすぎ。そんなんでお嫁さんできんでぇ」

「うるせぇ」

 彼女は土手の上の砂利道にほったらかしていた自転車のスタンドを上げると、私たちの家の方向へ自転車を押していった。私も彼女の後を歩く。自分も彼女と一緒に大きくなっていったものだから、彼女はまだ私の中では小さいままなのだが、風呂桶で背中を流し合っていた頃には感じなかった、私の身体との相違点が、互い成長するにつれて、徐々に徐々に浮き出てきた。そんな見かけだけの変化に、自分の心情が揺らぐなどという幻想は、私は信じたくなかった。私たちとの関係性は、もっと奥ゆかしく、動物的な衝動、或いは一時の気の迷い程度では決して揺るがないものであると信じていたからだ。しかし私はいつからだったか、そんな彼女の、自分とは異なる身体に対し、決して本能的ではない、私の心の知らぬ場所で理論的にしたためられた、容赦ない感情が込み上げてきた。私は幼少の頃から病弱であった故に、食が細く、また筋肉も脂肪も少なく、そのくせ身長だけはすくすくと伸びていったものだから、身体の至る養分を吸いつくされ、肋骨ろっこつすら浮き出た貧相な身体つきになってしまった。身体が女々しくても、私にも男としての矜持があるわけで、女性的な肉質を鍛えながら男子の私よりも太く引き締まった彼女の身体には、慙愧ざんきの念を覚えた。しかし、自分の身体への憎しみは、いつしか彼女の身体への興味に変貌した。女性的でありながら、男子の私が欲しいものが詰まった身体が、魅力的に感じたのだ。そして私は、その湧き上がる感情になされるがまま、吃驚きっきょうと無力感の中で自涜じとくし、裏切り者の罪悪感を抱いていた。

 私が彼女に憧れを抱いていたことは私自身が認めている。彼女は私より足が速く、頭もよく、身体も健康的であった。どこをとっても彼女に敵う箇所が見当たらず、それがいつしか私の中で僅かに劣等感へと変化した。私の彼女に対する扱いが粗雑になり始めたのは正にその瞬間からであった。初期は彼女もやや困惑気味であったが、彼女の中ではそれを、私の反抗期の到来であると認識したらしかった。そんな彼女の、私が経験した苦悩と葛藤を知らぬ態度が、彼女がなんの苦労なしに手に入れた憧れのボディに対する自身の身体への劣等感を、更に募らせた。

 そんな劣等感が私を自涜に走らせたのであるとすれば、私はとんだ卑怯者だ。

 結局私は、行為に許しを請うていたのだ。自身が彼女より劣等な種族へと自ら成り下がることにより、私は自分の中に暮らす彼女を穢す犯罪者としての権利を、地獄の神に求めたのだ。彼女に対する粗雑な態度は、穢した彼女が私の行為を全肯定してくれるものだから、私の行為を否定する彼女を置いて均衡を保とうとした結果である。

そうか、結局そうなのだ。私の病弱を理由にして片が付いた劣等感の本質は、私の動物的衝動から来る野蛮な行為に合理的理由をつけようとした結果なのだ。私は自身の身体が病弱であったが故にその不幸を呪っていたのではなく、実際にはそのように振る舞い心の底では病弱であったことに感謝していたのだ。病弱であったから犯罪者に成り下がったのではない。犯罪者の素質を基から備えており、病弱を犯罪に利用したのだ。

 目の前を歩く彼女は、私が犯罪者であると知った時、一体どのような反応をしてくれるのか。何も知らず口笛ばかり一丁前に吹き鳴らして、全く呑気なものである。周りのアブラゼミは相変わらずうるさく鳴いている。仕方あるまい、彼らは一生をこの求愛行動に懸けているのだ。相手が見つかろうがどうしようが、彼らは求愛が終われば命を落とすその覚悟がある。

 それに比べて人間というのは難儀なものだ。理性を身につけ、人生に意味を見出し、ただ一瞬のエクスタシーに己の生命を捧げることを極端に避けるようになった。私は果たして、死の淵に立たされた瞬間、彼女に何を伝えるのであろうか。




「ごめんくださぁい。俊くんおりますか?」

 玄関の引き戸が二回ほどノックされた。

「はぁい、おら、咲ちゃん来ちるよ。ぐずらしっさんね、早ぅ行きなっせ」

 地元自治会で祭囃子を演奏することになっていた私は、法被姿で祭りに向かわなくてはならない。このような男性的な衣装は、私の貧相な身体には不釣り合い。袖を通すと案の定、法被に歩かされているような気さえする。私よりかこの衣装に相応しいであろう玄関の彼女の前にこのまま現れるのは、羞恥心が警鐘を鳴らしていた。

「俊! なにぐずらもずらしせんの!」

「だぁらっしゃい! いま行ぐ!」

 古い我が家の急な階段を軋ませながら降りてゆくと、玄関に半分扉を開けて待つ母の姿と、磨りガラス越に映る紺色の浴衣が見えた。彼女が浴衣姿で来るのは初めての事だった。

「ようやっと来た」

「いこうぜ、咲」

 足袋を履き、母を押しのけるようにして引き戸を開ける。玄関の引き戸の前に居たのは、一人の女の子であった。私がこれまで見てきた彼女とは似ても似つかぬ、形状から作法に至るまで、一切の雑念が働かずに女性的なものだけが洗練された、一人の女の子であった。日に焼けた健康的な肌は紺の浴衣との境界線を失い、引き締まった身体も浴衣の影に隠され、張りつめ、丸みを帯びた肉質の柔らかさを予感させるものだけが浮かび上がっていた。私は彼女の中から憧れの部位を探し求めた。しかし、一向に見当たらず、それに伴う一切の劣等感が排斥はいせきされていた。

「どお? 私の浴衣」

「あぁ、うん、いいんじゃねぇがな」

「え、そだけ?」

「ん、そだけ」

 彼女を待たせていた私が先を歩くと、カラコロと下駄を鳴らしながら駆け寄る足音が背後から迫ってきた。その足元がかかとと接触する寸前に、肩と背中にかなりの重みを感じた。

「だぁぐっつぐなうったぁしい」

「だってぇ、俊くんなんか素っ気ねんだもん」

「ほだからってこれ見よがしにくっつぐでね、暑ぐるしい」

「俊くん、似合ってるよ、その法被。男らし」

 彼女が離れた後も暫く、法被には彼女の体温が暑苦しく残っていた。


 集落からだらだらと、曲がりくねったガードレールを辿って坂を上り、陽が落ちかかってきた頃、私たちは麓の神社の石段の前に着いた。境内の外にも屋台が溢れかえり、近所のおっさんと山の向こうからやってきたヤクザ連中が仲睦まじく開店の準備を始めていた。

 赤い鳥居をくぐり、裏の参集殿に向かうと、既に囃子方が何人か集まっていた。法被姿の地元自治会の副会長さんが、相変わらずのがに股で私たちのところに近づいてきた。

「おう、俊坊! 今日はあんがとない。そんで咲ちゃんも、よぉ似合ってるで」

「でしょ! そうなんだけっちょ俊くん、何も言っちゃくれんぐてー」

「はっはっは! しっしゃあねぇ男(おとご)っつうのはそういう生きもんだってぇ」

 鋼のように硬い剛腕が鞭のようにしなり、私の背中を容赦なく打ち付けると、副会長は去っていった。

「俊くん、あの、祭りのあと、ちょっと一緒に来でぐれん?」

「……ええけど」

「おい! そこのめんごいの、わりぃがちっとこれ向こうさのせといてぐんね?」

「あいよ、じっちゃん」

 彼女は祭りの手伝いに呼ばれたらしく、下駄を履いていることなど想像もできない速さで表参道の屋台の島の影に隠れた。




 赤い提灯に火が灯り、陽も完全に堕ちて集落の人が集まってきた。囃子を演奏する櫓から境内全体を見渡すと、参道にだけ光のドームが架かり、昼間に逆戻りしたかのように明るかった。その明るさに遮られ、人の顔など判別できないが、一点だけ浮き出た黒い点が存在した。咲だった。学校の女友達と一緒にいるのだろうか、三人ほどの女子に囲まれ、彼女たちの手はりんご飴とよーよーで埋まっていた。人の声は太鼓と笛の音にかき消され、なにも聞こえはしないが、地位や時間を忘れ、全てから断絶された、ただ純粋な光のみが支配するこの空間ならば、私もこの人たちのように、過去の自分との関係を絶てるのではないか。しかし今の私は所詮、その空間を演出する舞台装置の一つに過ぎなくて、それに彼女から憧れや劣等感を見出せなくなった今の私に、何を振り払う過去があるのかと、そう思うと私は、今この時であれば、蝉のように、瞬間のエクスタシーに人生の全てを懸けられるだけの覚悟ができるようなきがした。だがしかし、今現在私は彼女に対して、如何なる想いを抱いているのか、自身でもわからない。私は雑念を振り払うかのように、私は横笛を吹き鳴らすのだった。




 祭が片付いた頃、すっかり十時を回り、いよいよ天の川が主役の空が訪れた。会長が大股で、私たちのいる参集殿にやってきた。

「いやぁ、お疲れさん。今日は皆あんがとうな。ちびっこたちぁ気ぃづけて帰(け)えれ。俊と、雅人と、翔はどうだ、呑んできなっせ」

「おっしゃ」「俊も早ぐ来っさ」

「わしゃええです。昨年お巡りさんにお説教くらったばかしなんで」

「そか、気ぃづけて」

 私は彼女との約束通り、皆より先に祭り会場を後にした。境内へ続く石段の、赤い鳥居に、彼女は鳥居の影に擬態するようにもたれ掛かっていた。

「お疲れ、俊くん」

「ああ、待たせた」

 集落で唯一コンクリート舗装された県道を歩く私たちは、終始無言を貫いた。この時間だと、昼間あれだけうるさかった蝉がどこ行ったか、今度は鈴虫が静かな音を立てていた。

「うちさ、来年、神奈川行くん。神奈川の、大学」

 鈴虫の声を遮り、彼女が繰り出した発言は、看過できない衝撃が伴った。砕け散りそうな心をなんとか繋ぎとめようと、私はいつもみたく、平静を装った。

「そか、ほしたらまず方言をどうにかしっせぇ」

「ちっとは心配してくれてもいいんだけっど」

 足裏の足袋から、コンクリートの感触が一切感じなかった。私と彼女の関係は、ここで終焉を迎えるのか、まさに私の心は、死の淵に立たされていたのだ。この場で私が死に絶えれば、何も残るものがない。私が過去に犯した罪の清算も、羨望の眼差しも、全ては墓石の下に眠ったまま、私は彼女にとって、人生の一部分に登場した、ひ弱な同級生で片付けられてしまう。今までの私に死が訪れるとわかった今、過去や未来など、時間がもたらす変化などもはや眼中にないのだ。今この瞬間、彼女に対する感情をぶつけ、少ない命を、その瞬間のまま終わらせる。アブラゼミのように潔く。

「好きだ。咲」

 鈴虫のような上品さに、男の矜持を詰めて。

「……その言葉、ずっと、待っとったよ」

 結局私は、どこまでも卑怯であった。彼女に対する恋情を、いつまでも彼女に隠し通し、自分にさえ隠し通し、とうとう死の淵に立たされるまで、その感情を、偽り続けてきたのだから。

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