第41話 トラウマ
「ず、狡いです!」
「いや、ずるいって言われても、部活の親睦会だから……」
エルの猛攻を受け流しつつ、すれ違った人たちに挨拶をする。
それにしても、あのおじさんいつもいるな……
まあ気にしなくていいか。
いつも俺が走ってる時間帯に被ってるだけだろうし。
そんなことより……
「ば、BBQとかしたんですよね!? そうなんですよね!? 私を除け者にして、海で遊泳して、至福の限りを尽くしたんですよね!?」
昨日、部活のメンバーで海に行ったことがエルにバレたけど、こんなめんどくさいことになるとは思わかった。
「まあそうだけど」
「う、うええぇぇぇん!」
エル、語彙力の壁崩壊。
蝉の鳴き声と拍車にかけて、騒騒しい夏である。
まあでも、エルには悪いことしたかな……
中学校ではまだ友達できてないそうだし、遊びたい年頃だから尚更だろうし。
「はあ、じゃあ次夏祭りがあるから、そっちで色々やろっか」
俺が代替案としてそう提示すると、エルはさっきのが嘘泣きだったのか、一気に泣き止んでこちらに振り返った。
それにしても反応早すぎだろ……
「い、言いましたね! 約束ですよ! 破ったら針一万本ですからね!?」
「はいはい、約束約束」
「な、なんか拍子抜けな返事です……」
エルの扱いに慣れてきた俺に死角などない。
エルって結構演技派だから、油断すると足元掬われるんだよね……
なるべく顔を直視せず受け流すくらいが丁度いいと思う。
というわけで……
息切れすることもなく、町内一周し終わった。
エルも喋る余裕があるから明日からはもっと、スピード速くしようかな。
「……なんか、背中がゾワっとしたような、気の所為でしょうか」
「気のせい気のせい。これで汗拭いて」
「……腑に落ちないです、ん」
走った後の汗を拭いてからいつものように喫茶店にお邪魔する。
今日は有栖がバイトをしてるはず。
実際有栖が働いてる時に行くのは初めて。
喫茶店の扉を開くと、心地良い鈴の音が鳴って、夏の外の空気とは違い、涼しい空気を感じた。
生き返る……
「あ、いらっしゃいませ!」
「いらっしゃあ、いつも通りね」
有栖は元気に彼方は淡々とした声で駆け寄ってきた。
……有栖だけメイド服なのは何故だろう。
酸欠なのか、心臓の鼓動が速くなった気がする。
凄い可愛い。
え?
「結? どうしたの固まって……あ、疲れてるよね、此方へ案内します!」
有栖のバイトとしての口調と普段の口調が混ざってるの凄い可愛いんだけど……それと気遣いが身に染みる。
なんだろう――
休みに来たのに、なぜか疲れるのは気のせいかな?
気のせいか……
有栖に案内されて席につくと、店内の柔らかい空気が心を落ち着かせてくれる。
古いジャズのレコードが静かに流れていて、外の騒がしい夏の音とは違う、落ち着いた時間が流れている。
「オススメのコーヒーセットでいい?」
いつもと変わらない淡々とした彼方の声が響く。言葉に少しも感情が乗っていないのが逆に安心するんだよな。
「うん、それでお願い」
「エルちゃんは?」
「私はいつもの紅茶で」
「いつものね」
立ち振る舞いがすっかり様になった彼方。
今は日ごとに変わる俺の好みを簡単に当ててくるし、相変わらず観察力が凄い。
注文を聞き終えた彼方は、他のお客さんの所にも聞きないき、すっとカウンターの奥に戻っていった。
「マスター、紅茶をお願い。私はコーヒーセットを作るから」
「了解、ああそうだ、これを使うといいよ」
穏やかな声でそう言うマスターの煎さん。
白いシャツに年季の入った黒いエプロンを身に着けたその姿らほんとかっこいいと思う。
彼方は煎さんの手から豆の袋を受け取り、丁寧にその香りを確かめる。
「うーん、少し浅煎り……香りが爽やかで、今日は抽出を少しゆっくりめにした方が良さそうだわ」
「いい判断だね。それならお湯の温度も低めにするといい」
「88度がいいかしら」
「そうだね」
カウンターの奥で手早く準備を始めた彼方は、慣れた手つきでドリッパーをセットし、お湯を注ぎ始める。
その動きは滑らかで美しく、一杯のコーヒーがまるで芸術作品のように仕上がっていく。
俺は素人だから、これ以上は分からないけど、彼方が頑張って勉強してることが凄い伝わってくる。
一方、有栖はホールの担当として慣れないながらも一生懸命に働いていた。
ぎこちない動きでテーブルを拭き、ミルクやシュガーポットを補充しながら、どこか楽しそうに仕事をしている。
初日でこれって凄いな……
常連としていつも彼方とか煎さんの動きを観察してたから、ここでバイトしたいってのは前々からあったんだろうか。
本当に有栖の一生懸命さが伝わってきて、なんだか俺も嬉しくなる。
「結、何か困ったことあったら教えてね。お水とかすぐ持ってくるから!」
有栖が明るく微笑みながらそう言う。
その言葉に、彼女が初めてのバイトで緊張しているのが伺える。
「ありがとう。有栖、初めてなのに頑張ってるね」
「えへへ、ありがとう。でもまだ慣れないことばかりで……」
そう言って、恥ずかしそうに笑う有栖。
この笑顔は天下を取れると思う。
そうして、店内には他にもお客さんが数人いたけれど、有栖は全員に笑顔で接していた。
少し不器用だけど、真面目に一つひとつ丁寧にこなしている様子は見ていて気持ちがいい。
「ごめん、有栖、これ結たちの所に持って行って」
「承わりました!」
しっかりと丁寧な口調に直して、有栖がトレーにコーヒーセットと紅茶を載せて運んできた。
「お待たせしました〜!」
「ありがと有栖」
「有難うございます」
とりあえずミルクとお砂糖入れて飲む。
ほのかな苦味と豆の香りがコーヒーの程よい甘さが疲れた体に染み渡る。
「やはりランニング後の紅茶は格別です」
エルは目を瞑りながら、ちょびちょびと紅茶を味わっていた。
ゆったりとした時間が流れる中、店内の静けさに包まれながらコーヒーを楽しむ。
外の暑さを忘れられるこの瞬間が、いつもの日常を少し特別に感じさせてくれる。
______
____
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もうすぐお昼時という時間に、扉の鈴の音が鳴り、一人のお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ!ご注文はお決まりですか?」
明るく元気な声で、ちょうど入店した年配の女性に声をかける有栖。
「あら、初めて見る顔ね。新人さん?」
「はい、今日が初めてなんです。緊張してますけど頑張ります!」
有栖はにっこり笑いながら答えた。
「じゃあ、コーヒーセットをお願いしようかしら。おすすめは?」
「あ、えっと……おすすめは……えーっと……」
急に質問されて一瞬固まる有栖。
そこで彼方があくまでも自然に有栖の横を通り過ぎながら―――
「今日はブレンドの『スローバード』がおすすめよ。浅煎りで後味が爽やかだから、夏にぴったりなの」
そう助け舟を出した。
ファインプレーすげぇな……
「あ、そうです!それです!スローバードがイチオシです!」
有栖が慌てて同調する。
「じゃあ、それをお願いね。楽しみにしてるわ」
「はい、ありがとうございます」
有栖は元気よくお辞儀をすると、注文をカウンターへと伝えに向かう。
もちろん、彼方は注文内容を知っていたため、既に準備に取り掛かっていた。
そんな穏やかな店内の空気を壊すかのように、突然の怒鳴り声が響いた。
「これ、全然熱くないじゃないか! こんなのコーヒーじゃない!」
そっちに目を向けると、見慣れない中年の男性客が声を荒げている。
そのテーブルには、明らかに手をつけられていないコーヒーが置かれていて、結構前に有栖がその客の席に運んでいたから、ずっと放置され、冷めてしまったんだと予測できる。
だからその怒りはあまりにお門違いだ。
「え、えっと……申し訳ありません、すぐにお取替えします……」
有栖が、怯えた様子で応対している。
その声はか細く震えていた。
だが、男は有栖の申し出を無視するように、そのままテーブルに肘をついて椅子にふんぞり返る。
苛つく。
何様だよあいつ……!
「……あの人の自業自得ですね」
エルがそう言う通り、有栖に怒りを向けること事態間違ってる。
「取替えれば済むと思ってるのか!サービスがなってない!」
「は?」
こいつ、わざと怒らせてんのか?
殴っていいよな?
よし殴ろう。
「結……怒るのも無理はないけど、ここは任せときなさい」
低い声が耳に届く。
隣を見ると、彼方が俺の手首を軽く押さえていて、その目は冷静だったが、そこにはいつも以上に鋭い光が宿っていた。
「……はぁ、わかった」
もやもやしたまま引き下がる。
あの野郎、路地裏でくたばんねぇかな……
なんて思いながら。
「有栖、下がっていいわ」
「あ、彼方ちゃん……」
有栖の隣に行き、彼方はそう言う。
その声はいつもの冷静なトーンだが、少し低く、堂々としている。
「申し訳ございません、お客様。温度が十分でなかったようで、ご不快な思いをさせてしまいました。すぐに新しいものをお淹れしますので、少々お待ちくださいませ」
「……最初からちゃんとしろよ」
そいつの苛立ちは完全には収まらないが、彼方の冷静な対応に圧されてそれ以上は何も言わなかった。
「僕が新しい一杯を用意しよう。彼方、有栖を少し休ませてあげて」
煎さんが穏やかな声でそう言うと、彼方は有栖をスタッフルームの奥へと連れて行った。
◆◇
スタッフルームの空気は冷たく澄んでいた。
外の店内とは違う静けさが広がるその空間で、有栖は片隅に座り込んでいる。
背を丸め、抱え込むように両膝を抱いた姿は、小さな動物のように――
その呼吸は荒く、不規則で、震える肩がその緊張を物語っている。
顔を隠すように垂らした前髪の下で、うっすらと濡れた目が虚空を彷徨っているのがわかった。
怒鳴られた瞬間の声が、まだ耳の奥にこびりついて、男の低い怒声が有栖の耳に反芻する。
唇が震え、小さく開いては閉じるその動きは、何かを言おうとする未遂のようで、言葉にならない感情がそこに溜まっているのが彼方の目に見て取れた。
普段の有栖とは考えられないような反応と、昔、有栖に再開し、結が何故か怒っていた時の記憶を思い出した彼方。
「なるほど、ね……」
答え合わせを済ませ、彼方は淡々と呟く。
彼方はゆっくりと有栖の隣にしゃがみ込み、そっと有栖の手を両の手ぎゅっと掴む。
「……ごめんなさい」
有栖が小さく言葉を漏らした。
その声はまるで消え入りそうな風音のようで、謝罪の言葉というよりも、苦しい心情を吐き出したに過ぎなかった。
「有栖、何も悪くないわよ」
彼方の声は、冷静で優しかった。
その重みが、有栖の荒れる呼吸をほんの少しだけ緩める。
「でも……」
有栖の声がかすれる。
手の甲で何度も涙を拭おうとする仕草が続く。
しかし、それは乾くことはなく……涙ではなく、胸の奥に溜まった「怖い」という感情そのものが溢れ出しているからだった。
「お客様全員がまともとは限らないわ。それにね、さっきのはあなたのミスじゃない」
彼方の言葉は、一つ一つが深く沈み込むようだった。
その声のトーン、間合い、言葉の選び方すべてが、有栖に寄り添っていた。
有栖はまた頷いた。
大きく息を吸い込んで、小さく「うん」とだけ返事をした。
それでも彼女の震えは完全には止まらない。
彼方の言葉が、有栖の恐怖の影を完全に拭い去るにはまだ時間が必要だった。
スタッフルームの空気は、相変わらず冷たく澄んでいた。ただ、その静寂の中に、少しだけ温かい余韻が混じっていて……
「有栖……大丈夫、いつもあなたのそばには結がいるでしょう? だから大丈夫」
その言葉に、有栖ははっとさせれた。
「彼方ちゃん……」
「ちゃんはいらないわ。彼方でいいわよ。私ももう有栖って呼んでるしね」
「……うん、彼方、ありがとう」
そうして、再び立ち上がって、頬を叩きスタッフルームを出る有栖。
そうして部屋には時計の秒針が進む音が鳴り響く。
「仕事は私がやるけど、アフターケアは任せるわよ」
有栖が出て行ったことを確認した彼方は、誰かに向けて、そう呟いた。
彼方が一番の信頼を注ぐ誰かに――
◆◇
後書き
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