妄言

那珂文一

妄言

 私の中には私がいる。

 不可思議なパラドックスであると思われるかもしれないが、事実である。

 私が日々の暮らしを送る時、その影は常に側に在る。普段は本当に私の目から逃れるように立っているのに、時折隙をついては私を混乱させるのだ。


 それは私を俯瞰しているように思える。私の行動、思考を逐一丹念に観察していて、私がどのようであっても、――楽しんでいようと、苦しんでいようと――、私の思考に入り込んでくる。

 私はその性質に酷く不安を覚えてしまう。まるで自分が何かに操作されている機械で在るかのように、またはその私こそが真の私であり私自身が感じる美しさや驚嘆は全て嘘で在るかのように。


 それは決して私を陥れようとはしない。唯私の脳内に全く脈略のない解答を導き出すのである、そしてそれがかえって恐ろしい。それが私の欲望の趣向を示し出しているのではないか、と考えてしまうのだ。


 果たしてこのような私が私であるのだろうか、ともすれば私とは単なる結果への説明であり、子供が自身の失敗に言い訳をでっち上げる、そういった取り繕いでしかないのであろうか(もしくは本当に子供の見せるような意味のない諧謔なのかもしれない)。私にはこれが真なのか偽であるのかは分からないし、私もこの答えには応えようとはしない。己の中で延々と繰り返される輪廻、まさしく自身の尾を飲み込まんとするウロボロスのイメージが思い浮かぶ。

 


 私は教職であった。私は近所の中学校で国語を教えていた。子供は好きだったし、国語も好きだった。優秀な教師であったと思う。大学を卒業してから今年で十年だったか、長く勤めたものだ。

 その仕事も六日前に辞めた。生徒を殴ってしまった後学校には行っていない。



 私という存在が最も顕著に現れたのはつい三日前のことだった。

 私は山梨まで富士山を見に行った。突発的な決断だったが、防衛本能と形容すべきか、私は旅が好きだった。私は深夜夜行バスに乗り、そのまま世が明けると共に富士山へ到着した。あの大きさとは壮観なものである。和歌山で採られた旬の蜜柑が見せるような強い赤黄色の照らす山面は隆隆りゅうりゅうとした生命力を放ち、自然の厳かさを直に感じたことで私は暫し圧倒した。おそらく数分は立ち尽くしたままであった。


 私はその日そこには登ろうとは考えてもいなかったし、私にとってはそれは考えたくもない事だった。しかし、あの姿は。私を魅了してしまうような確かな力、魔力と呼んでもいいほどの代物に私は納得せざるを得なかった。そうして、「次の機会には登ってしまうのもいいかもしれない」などと私はどことなく彷徨い始めたのだった。


 私が辿り着いたのは河口湖だった。到着前に道中のカフェテリアで朝食をとっていたので時刻は九時程であっただろうか。爍爛しゃくらんとたなびく水面を前景として、ぬらりとそびえ立つ富士は一種の美しさの骨頂であるかに思えた。やはり、私にはあの山が火山であるとは到底思えなかった。あの山がかつて、三百年程前に、未曾有の大噴火を起こしたとは。しかし、本当にあの山がそれほどのエネルギーを秘めているのなら、その鳴動が聞こえるのではないか? 自分でも幼い悪戯心だと思った。それでも、これは私に必要なことだったのだ。私は耳を澄ましてみた。グツグツと、いや、ゴポゴポと、地の底で真っ赤な溶岩がちょうど私の躰を流れる血液のように蠢く様子を想像をしていた。当然のことながら、私の耳にはそのようなものは届かなかった。ツグミの軽妙に踊るような鳴き声のみがいやに耳に入った。


 ふと、――丸太でできたカフェテリアが真紅の中に飲み込まれていく

 悲劇的なシーンが眼前に浮かんだ。鳥は散々と羽ばたき、人々は悲鳴をあげて逃げ回る。空は赤銅色に染まり、火がその熱を感じられるほどに近づいてくる。嗚呼、あの山が、富士山が、鼓動している。心臓をドクン、ドクンと動かすたびにあの深紅が溢れ出す! 全てを包み込んでいく! そうして、私も!


 狂った、狂った、妄想だ。

 我に帰った私はまばたきを数度した。富士はそこに在った。風が吹くたびにざわめきが聞こえた。湖はあいも変わらず揺れていた。なんら変わりのない現実に私は安堵した。束の間の安堵であった。すぐに私は私を呪ったのだから。


 よく在る妄想かもしれない。破滅的な妄想。一度二度なら良かった。しかし、もう何十度目だった。慣れるということもなく、私は回数を重ねる毎にナイーブになっていった。この時には一等ナイーブになっていた。


 あれほどまでに美を感じ、喜んでいたのに、私の本性は破壊を望んでいたのだろうか、周囲の全てを、自分さえも巻き込んで。本当に望めていれば幾らか良かった。罪悪感に苛まれないのだから。私は決してこのようなことは望んでいなかった。私は私の中のどこかで私が私のことを見ているように感じて止まなかった。私の顔には一切の表情が欠落している。淡々と仕事をこなしていく。そんなように違いない、そう考えると恐ろしかった。

 


 実際今の私には事実も空想も曖昧である。常に夢の中をユラユラと生きている気分になってしまう。そして、それが曖昧になっていくに応じて、私と私の間の境界も曖昧になっていくように感じる。どちらが先なのかは分からないが、現実はひどい病魔のように私を侵食している。


 もう私には今触れているこの筆でさえも存在を確信することができない。確か、これは私が初めて受け持った生徒たちから贈られた万年筆であった。これは私の身体の一部であるかの如くよく手に馴染むのだ。ほら、こうして叩きつけてやると、鈍痛が伝わってくる。おや、先が割れてしまったようだ。血が流れている、――随分黒い血だな!

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