第35話 限界

 翌日、桃は特に朝からやることのなかったので、気を紛らわせるために読書に勤しんでいた。


 学校を休むようになって早一週間、桃はずっとこの屋敷の中にいる。


 というよりはこの屋敷の中に閉じ込められていた。


 なにせ桃は三船議員の別荘に送られることが決まっているのだ。三船議員の別荘での噂は政界では公然の事実となっている。


 当然ながら桃の父である桜田大臣も彼女がこのことを知っているであろうことは認識している。


 その認識が確信に変わったのは彼女の教室での一件だった。


 教室での彼女の露骨な自身のネガティブキャンペーンは父の耳にも入っており、彼は彼女の軟禁をすぐに決めたのだ。


 だからこそ、宮下は桃に教室で目立つ真似はして欲しくなかった。もしも彼女が大人しくしていれば軟禁されることもなかっただろうし、その気になれば彼女を連れて逃げ出すこともできたのだ。


 が、そんな宮下の思いは桃には通じず、現状のように彼女は家から一歩も外に出られない状態となっている。


 そんな最中、桃は父のいるリビングへと呼び出された。


 彼女がリビングへと向かうと、仰々しい応接セットに座る父の姿が見えた。部屋には秘書の男が数名と、二人分の紅茶をテーブルへと運ぶ給仕の女性の姿。


 宮下とともにリビングへとやってきた彼女は、努めて感情を表情に出さぬように柔和な笑みを浮かべたまま父へと顔を向ける。


「お父様、私に用とはなんでしょうか?」


 なんて尋ねると、中年から後年に差し掛かった和服姿の桜田大臣は「まあ、そこに座りなさい」と彼女に着席を促した。


 何を言われるかはわかっている。が、彼女は表情一つ変えずに父の対面に腰を下ろすと、相変わらずの笑顔を父に向けた。


「で、用とは?」

「前にも言ったが、お前にはこれから三船先生の別荘で働いてもらう。今週末までに身の回りの整理を終わらせて、来週には早速向かってもらう」

「かしこまりました。ではそのようにいたします」


 と、彼女はあっさりと父の言葉を受け入れる。


 そんな彼女の言葉にそばに控えていた宮下は露骨に動揺したような顔をしたが、彼女は意に介さずに笑みを崩さない。


 抵抗したところでどうしようもない。彼女には『はい』以外の言葉はない。


 だから彼女は受け入れることにした。


 が、そんな彼女の言葉に「お館様」と二人の間に割って入る。


 そんな宮下の言葉に大臣は冷たい目を彼に向けた。


「なんだ? 貴様に発言を許した覚えはないぞ?」

「申し訳ございません。ですが、桃さまは現在、桜田家の人間として恥ずかしくない大人になるために学業に勤しんでおられます。それゆえ……それゆえ……」


 と言葉をなんとか絞り出す宮下の姿に、そこでようやく桃の表情がわずかに曇った。


 そんな桃とは逆に父親は笑みを浮かべる。が、その笑顔は機嫌が良いから浮かべられた笑顔ではないは桃にも宮下にも理解できる。


「貴様はまだ私にわがままを言うつもりか? それともお前は私へのこれまでの恩を忘れたか?」

「いえ、そのようなことはございません。この宮下、あの日お館さまがわたくしめに与えてくださった恩を今日の今日まで忘れたことはございません」

「ならばその恩に報いねばならんな?」

「………………」


 じっと平静を装い続けていた桃だったが、生まれてこの方、自分を世話してくれた男が必死に自分の身を守ろうとしてくれている姿に感情を抑えきれない。


「宮下、やめなさい」


 思わずそう口にする桃に宮下は一度彼女に一瞬だけ顔を向けた。が、すぐに父親へと顔を戻す。


 そして。


「お館さま、この通りにございます」


 そう言って宮下はあろうことか、その場に膝をついて頭に床を擦りつけ始めた。


「み、宮下っ!? あなた……」

「どうかお館さま、今一度お考えなおしくださいませ。もしもお考えなおしてくださるとおっしゃるのであれば、この宮下、喜んでこの命をお館さまに捧げましょう」


 命を捧げる?


 なにやら物騒な言葉に目を丸くする桃に、宮下は何かを懐から取り出して、それを自分の目の前に置いた。


 それは短刀であった。そのまさかの物体に桃は取り乱さずにはいられない。


「宮下、やめてくださいっ!! あなた何をやっているのかわかっているのですか?」

「桃さま、この宮下、今日まで桃さまのお世話をさせていただき幸せにございました。たとえ、ここで私の命が潰えようとも桃さまの尊厳が守ることができるのであれば、なんの悔いもございません」


 覚悟を決める宮下に桃は慌てて立ち上がると物騒な短刀を取り上げる。


「桃さま、お返しください」

「かえせませんっ!! 宮下、私は命を取られるわけではないのです。たかが数年の我慢で誰も損することなく丸く収まるのですっ!! あなたがここまでする必要は一切ありません」


 宮下はそんな桃の言葉に首を横に振る。


「そんなことはございません。三船議員の別荘に行ってしまえば桃さまのもっとも大切な心が壊れてしまします。ですので短刀を」

「…………」


 大切な心、どころか体まで壊れてしまうのは宮下だって同じである。


 桃には堪えられない。ここまで自分の為に尽くしてくれて、ろくに恩返しもできていない彼をここで死なせるなんて桃には別荘に送り込まれること以上に堪えられない。


 いや、もっと素直な感情として宮下が死ぬなんて未来は彼女には堪えられない。


 気がつくと桃の瞳からボロボロと涙がこぼれ落ちる。


「お、お父様、私はどうなってもかまいません。三船先生のもとで奉仕を全うし、必ずや桜田家の名に恥じぬ立派な大人になります」

「桃さま」


 と、宮下が彼女の名前を呼ぶが彼女はそれを無視する。


 そんな桃と宮下を交互に見やりながら、あろうことか父親はにやにやと薄気味悪い笑みを浮かべていた。


 そして「もう決まったことだ。議論の余地はない」と立ち上がる。


 まるで桃と宮下の不幸を蜜のように舐め回すような視線に、桃は心から寒気がした。


 初めから父親の目的はこれだったのではないかと桃は思う。初めから今この瞬間を眺めるために宮下に恩を与えたのではないかとすら彼女には思えた。


 だとしたら、どれほどこの男は卑劣なのだろう。


 自分はこんな男のために桜田の名字を与えられて生きてきたのだろうか?


 桃はこの男が、そして、そんなことにも気づかずにのうのうと生きてきた自分が許せなかった。


 気がつくと彼女は短刀の鞘を抜いていた。


 この男は許してはいけない。そんな悪魔の囁きが彼女を行動に駆り立てた。


 彼女は抜き身のナイフをぎゅっと握り絞めると、父親の方へと駆け出す。


「わ、私たちをバカにしやがってっ!!」


 直後、父親は驚いたように桃の方を振り返ったが、その直後、彼女の握った短刀が父親の腹部を貫こうとした……のだが。


「やめろっ!! 桜田っ!!」


 その直前に彼女の腕が誰かに掴まれた。その突然の邪魔者に桃は憎しみの表情をそのまま、その邪魔者へと向ける。


 が、邪魔者の顔を見た瞬間、桃の手から力が抜ける。


「せ、先生っ!?」


 そこに立っていたのは桃の担任だった。


「ど、どうして先生がここにいるんですかっ!?」


 全くもって理解できない状況に担任は「だってお前、今日は家にいるって言っただろ? だから顔を見に来た」と言って桃の手から短刀を奪い取った。


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