忘れてきたんだ、あの空に

@sumire830

序章

 ──僕らは狭い檻の中で暮らしているんだ。狭い狭い、この部屋で、この寮で、この空で。

最近、じわりじわりと、感性が鈍ってきた。雲一つない群青の空や、夏の海に浮かぶ入道雲に魅入ったあの頃の気持ちを、忘れつつある──。

「なにそのポエム。自分に陶酔してるの?」

「……そうかもしれない。」

プールサイドに係員が水をバシャリと撒くも、かえって水が蒸発し、辺りは蒸し暑くなっている。プールを中心に、囲うよう生えているケヤキから、滝のように蝉時雨が降り注ぐ。当たり前だが、もう夏だなぁ、そう強く感じる。

「どう?少しは気分転換になってる?普段は、水上訓練の時くらいしか、水の中に入らないからね。」

僕は嘘をつくか、そのままの気持ちを伝えるか、迷って黙り込んでしまった。

「楽しんでもらわなきゃ困る。さっき飲んだジュースも、入場料も私の奢りなんだからさ。」

「楽しいよ。」

「嘘だ。」

水の動きが、ゆっくりと感じられた。古春は、きっと、僕の顔を見ればなんでも分かるんだろう。

「何故、そう思うの。」

「なんとなく。」

その時だ。空からゴゴゴゴゴ、と音がして、一瞬にしてプールに巨大な影を落とした。見上げると、雲と雲の隙間が黒くなっていた。物体が雲を抜けると、その正体が顕になった。空中空母、メリッサ・ラ・ノーア。全長120メートルの大型空中空母だ。メリッサ・ラ・ノーアは、雲を切り裂いてズンズンと進み、しばらくすると、目を凝らしても見えないほど遠くへ行ってしまった。メリッサ・ラ・ノーアの動きに伴って、その場にいた人々の視線も、遠くに行った。こんな僕でも、この、ワクワクがここに重く溜まる感覚だけは、忘れないだろう。そう自分に言い聞かせて、少年は自分の胸に拳を当てた。

「……ああいうの、憧れるな。」

そうだ、僕は、忘れてはいけないんだ。映画や綺麗な景色を見て、何も感じなくなったって別に構わない。でも、空を飛ぶ鉄の塊を愛する気持ちを忘れてはいけない。そう、何もかも忘れていく中で、あの子との約束だけは、僕は覚えていたい。

 ──ねえ、誓って。

学校が空襲を受けた日、僕はパイロットになる夢を諦めかけた。

 "かつて学校だった場所"に充満する、人の内臓が焼け、炭になっていく強烈な臭い。少年は鼻を強く鼻を摘んだ。夕日がどこに沈んでいるのか分からないほど、辺りは真っ赤な炎に包まれていた。誰か判別がつかない、おそらく同級生と思われる焼死体が、辺り一面に横たわっている。血に染まった自分の右手を見て、少年は吐き気に襲われ、次第に頭がクラクラして、ついにはぼさっと地面に倒れ込んだ。

「ここで、死ぬのか。」

そう、ボソッと呟き、最後に見る景色が、こんなもので良いのかと、少年は悔しくなった。

「……生き、て……」

その声はだんだんと近づいてきて、それに伴って意識も戻っていく。

「……ルイ、生きて!」

「……アデル。」

倒れ込んだ僕に話しかけるのは、アデル・マリネ、11歳。生まれつき片目が見えない少女だ。左足から血を流している。這いつくばりながら、少年の元へ来たのだろう。

「ほら、立ち上がって。生きて、生き延びて、パイロットになるんじゃないの……?」

「……もう、やめだ。」

少年は泣き崩れた。

「……ひ、飛行機が、こんな、こんな、恐ろしいものだったなんて、知らなかったんだ。」

少年は震える声でそう言った。

「飛行機なんて嫌いだ‼︎」

最後の力を振り絞って、少年は声を張り上げた。

「……馬鹿。」

目が原因でパイロットを目指すことができないアデルは、夢を諦めようとする、目の前の人間を許す事ができなかった。

「……絶対パイロットになれ!パイロットになって爆弾を落とすような悪い飛行機、全部やっつけてよ!」

アデルは、血で自分の手が汚れるにも関わらず、少年の小さな手を優しく握りこう言った。

「だから、飛行機が嫌いだなんて、言わないで。ねえ、誓って。私の分まで、空を飛んでくれるって。」

 そう言って僕を抱きしめた、アデルの匂いが、今も鼻の奥の方でつっかえている──。



 僕の虚な目を見て、古春は察したのだろう。

「また、昔の事を思い出してるのか?」

「別に。」

人から心配されるのは、好きじゃなかった。嘘をつけば、手っ取り早い。でも、だんだんと、プールの水に溶けた塩素の匂いすらかき消すように、あの日のアデルの匂いが鼻の奥に充満してきた。まただ。最近、特に酷い。飛行機を見るたびにこの感覚に襲われる。

「顔色が悪いぞ?」

心配そうに見つめる古春を安心させようと、僕は言った。

「少し、休むよ。泳ぎ疲れてもうフラフラだ。水分を取ってくる。」

「ほとんど泳いでなかったくせに!って言って欲しいのか。」

「ハハ。」

疲れたのは本当だ。楽しむ事を意識すると、いつもの倍以上疲れる。特に今日は、学校での水上訓練より疲れたかもしれない。

「悪いけど、僕はもう帰るよ。楽しんでね、古春。」

「……待って。」

「なんだい。」

「メリッサ・ラ・ノーアを見てる時のルイの顔つき、晴れ晴れしてた。ルイは、感情を忘れたロボットなんかじゃない。というか、ロボットには、私がさせない。ルイのあの顔見れただけで、私は今日、満足だよ。」

そう言って古春は微笑んだが、その口角はすぐに下がってしまった。

「……1人で、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよ。」

古春に手を振り僕はロッカーへ向かった。



 着替えを済ませて道を歩いている途中の事だった。

「やーい!ラリマール人!」

そう吐き捨て少年は小石を手に持ち、投げつけた。小石は彼のこめかみに命中した。特に何も、思うことはない。こういうのには慣れている。

ラリマール人──。

以下のような特徴的な容姿を持った人種である。透き通るような白髪に、海を宿したかのような青い色の瞳を持ち、主にリアレス王国とバンデール王国にて目撃される。1910年、ラリマール人の人身売買などが増加したため、政府は、ラリマール人の保護に力を入れるようになった。それがキッカケだろうか、"あの反乱"を起こしたのは。政府はラリマール人を手厚く保護し、中にはその美しさから、身分の高いものと結婚し、貴族の仲間入りを果たす者もいた。ただでさえ貧しい生活を送る市民からすれば、耐え難い状況であった。それは、僕が生まれてすぐの出来事である。"群青の日"。ラリマール人大量虐殺が、市民の手によって行われた日だ。始まりは、1人の市民が、農具で道行くラリマール人をぶって殺したことである。その一つの不穏分子が、大きな波となり、やがて、大量虐殺に繋がったという。生き残り、いわゆる残りかすである僕らは、しぶとく生きるゴキブリとして、いつしか嫌われる存在となった。

 すれ違う人々からいくつもの罵倒を受けながら、やっと寮にたどり着いた。だが、この寮すら、彼にとって安心できる場所ではない。

 自分の部屋に行こうとした時、ドン、と肩をぶつけられた。

「おい、ラリマール。何肩ぶつけてんだよ。」

「そうだ、さっさと謝れ!」

ニヤニヤとしながらこっちを見下す男二人組。

「……すみません。」

「口で言うのは簡単だよなぁ。金出せ。手持ちの金、全部な。」

彼は言われた通り、男達に所持金を差し出した。今更、プライドなんてものはない。その時だ。女が男達に飛び蹴りをかましたのだ。

「……古春!」

「ちぇっ。古春が来やがった!」

一目散に逃げていく男達を横目に、古春は奪い返した金を僕に渡してくれた。

「やっぱり、私がいないとダメじゃない。この気弱!」

そう言って古春は僕のこめかみを拳でグリグリした。小石を投げつけられた傷が少し痛む。傷に気づいた古春は、赤く腫れた傷口を優しく手で包み、手当した。同時に、古春は胸の辺りが避けるような、鈍い痛みに襲われた。

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