「こおろぎなくいえ」
テスト範囲の教科書とノートを持って、初めて来た先輩の家はとても大きく立派だった。軒は高くて深いし、それを支える柱も太い。
口を開けて外観を見回していると「古いだけよ」と、先輩は小上がりにスリッパを揃えながら言った。
「奥」と言って先を行く先輩の後ろ、きょろきょろ僕は家の中を観察する。あいにく襖は全部閉まっているし、とても静かで、ぺたぺた歩くスリッパの音だけが黒ぐろ艶のある廊下に響いた。
先輩の部屋は昼間でもあまり陽当りが良くないみたいだ。吊下げ灯の紐を引いて「適当に座って」と先輩が言った。バッグから手土産を出すと先輩は、あらあら、と受け取りそのまま包みを破る。
「ふたりで食べよ? たぶん誰もいないし」
先輩はそう言って、もうどら焼を咥えていた。
受験勉強のさなか、僕に勉強を教えられるくらい先輩は頭がいい。教えるのも上手だから僕も集中できて、あっという間に時間が過ぎた。持ってきたどら焼は先輩が4個、僕が1個食べた。
そろそろお暇しようかと勉強用具を片付けると、先輩が「泊まっていってもいいよ?」と冗談めかして言う。帰り際に先輩の家族に挨拶しようと思ったが、来た時と変わらず襖は閉まっていて、家の中は薄暗いままだった。そんな家のどこからか、コロコロコロ、と綺麗な音が聞こえてきた。
「こおろぎ?」
「うん。どこからか入って来るんだよね」
僕は食器棚の後ろで鳴いているこおろぎを思い浮かべた。
「家の中でずっとないてるの。寒くなる頃には静かになるから、きっと家の中のどこかで死んでるんじゃないかな」
「逃げたんじゃなくて?」
「分からない。見えないの」
そうして、食器棚の後ろで動かなくなったこおろぎを思い浮かべると、僕はなんだか忍びない気持ちになった。
小上がりに座って靴を履いていると、三和土と下駄箱の間に、お腹を上にして転がっているこおろぎを見つけた。「落ちてました」と僕が言うと、先輩はスリッパのまま三和土に降りて、下駄箱の下を覗き込む。
「このままにしておいて」
と先輩が言い、僕が口を開こうとすると「いいの、ほっといて」と遮った。
「気づくかどうか試してるのどうせ」
そう言われて少し迷ったけれど、僕はこおろぎの死骸を摘んで手に乗せた。そうして庭先の草の茂みにそれを置いた。先輩はそんな僕の後ろをスリッパのまま黙ってついてくる。
「ほっといてって言ったのに」
「でも、なんだか可哀想で。せめて土の上で」
僕が言うと先輩はよく分からない、という顔をする。
「蜘蛛の糸ってあるじゃないですか? いろいろ虫を助けておくと地獄に落ちた時に助けてくれるかも知れないし、糸一本だと心許ないから」
「地獄に落ちるの?」
「さあ?」
僕が首を傾げると、先輩はころころと笑った。
素手で虫が掴めるのか聞かれて、刺すのと噛むのと毒があるの以外はだいたい、と答えた。先輩はまたころころと笑って言った。
「ひとり暮らしの部屋に、もし虫が出たらキミを呼ぶね」
その宣言通り、大学生になってひとり暮らしを始めた先輩に、僕は度々部屋に呼ばれた。「蜘蛛が出たの」「蛾が飛んでるの」とそんな感じに。
今もそうやって呼ばれて先輩のアパートに向かっている。日も暮れて、道の脇の草の中ではこおろぎ達がコロコロコロとよく鳴いてる。
途中のコンビニで僕はどら焼を3つ買った。先輩はどら焼が好きみたいだ。先輩に呼ばれる度にどら焼を買うのもなかなか痛い出費だった。でも先輩が笑って喜ぶのでしょうがない。
ひとり暮らしを始めた先輩はころころと、とてもよく笑うようになった。
(了)
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