アラシとキキョウ

耀 田半

アラシとキキョウ


 ぼくは「ハル」という名前らしい。

らしいというのは、その名前を呼ばれた記憶がないからだ。


 母親すらその名前で呼ばない。父親が名付けたらしいが、写真でしか顔を知らないし、物心がつく前に呼ばれていたので、記憶なんてあるわけがない。


 今日もこれからアレが始まる。はやく慣れたらいいのにといつも思っている。

「教育」というものらしい。母親はいつもそう言っている。ぼくに向けてベルトをムチのようにしならせる。顔には傷をつけないようにするというのは実習で教わったのだろうか。

 母親の目の下のホクロを見て、これが涙に変わるなんて奇跡が起きないかと思いながら痛みに耐えている。


 お腹がすいた。というより、ずっとお腹がすいている。立っている時は、足にしか栄養が行っていないような、そんな感覚である。その感覚を受けながら、家を出てトボトボ歩いている。


 人間が鈍ってしまったのか、ぼくはフラッと一歩足を出した瞬間、公園に続く階段を踏み外し、転がり落ちた。そのせいか、さらに視界が悪くなった。


 このまま眠ってしまおうか。楽しみがあるわけでもないし。特技もなければ趣味もない。

嬉しかったことってあったかな。そういえば、学校のマラソンで学内1位になって、運動が苦手なのに凄いとまわりから褒められたことがあったっけ。いや憎まれ口だったか。


 あぁ、本当にボーッとしてきた。なんだか非現実なぼくが頭に浮かんできた。

起きたい時に起きて、食べたい時に食べて、走りたい時に走って、寝たい時に寝て。そんな自由な姿のぼくを想像した、空腹と身体の無数の傷が放つ熱のせいで、とうとうここまできたか。


 「さあ、おやすみ」



 パッと目を覚ました。なんだやっぱり生きていたか。また日常が始まったか。あれがいわゆる走馬灯ってやつかと思ったよ。


 しかし今日は空が近いな。いや、外にいるのか。夜空に放られるのは何度かあったが、青空まで見たのは初めてだ。なんだか風も強いし。


 なんだか急に冷静になってきた。ここは瓦屋根の上だ。高所恐怖症のぼくがなぜこんなところにいるんだ。そんなことはとりあえずいい、どうやって降りる?

どのくらいの高さなのだろう、下を覗きに屋根の端まで移動しようとハイハイをした。


 すると、まるでフリーズしたパソコンかのように脳からの指令が急停止し、屋根を転がり落ちてしまった。

 「しまった、背中から落ちる」

そう思った瞬間、水のような速さで脳から身体へ流れてくるエネルギーを感じた。気づいた時には身体を捻らせ、綿毛のように静かに着地した。


 「どうなっている」

降りて左手に見えた家の窓ガラスで、自分を確認した。


 ぼくは、猫になっていた。



 冷静にいられるのは猫であるからか。人間であれば、渇きを知らない洞窟の苔岩ほどウェットな汗をかいているに違いない。 

身体に稲光のような細かな模様があることをスッと受け入れていた。


 「さて、どうしようか」

状況を整理するのには少し動くに限る。この思考に行き着くほどには落ち着いている。少し歩くだけで、ものの大きさに驚く。特に人間はデカい。今まで感じていた以上に。


 自国の領土を徘徊する王のような振る舞いだ。猫になっても大して人間への感情は変わらないと気がついた。

 人の目を気にしなくてもよくなったことは現状うれしいと思えることかもしれない。同じ地にいても、彼らは彼らの世界で生きている。ぼくはぼくの世界にいる。この世界なら生きてみてもいいかもしれないと思い始めていた。


 「初めて見る子ね」

なんだ?と思った時には既に、本能的に戦闘態勢に入らねばと、声がする方を向き目を尖らせていた。

少女だ。少女が膝を抱えてこちらを見ている。

 「飼い猫さん?首輪とかしてないから野良猫さん?」

 これは猫の気持ちがよくわかるいい経験だった。とても怖かった。ぼくは幸い、人間の言葉が理解できるが、奇妙な音を発しながら見下ろす怪物に対して恐怖を抱かない生物などいるはずがない。


 「とりあえず無視をして寝たふりをしよう」

そうしてぼくは体を丸めてみた。その後も少女はずっと話しかけてきた。

 「ぶち猫さん?でも見たことない変な模様してるね。触ってもいい?あ、でも野良猫さんだと逃げちゃうか。お腹空いてない?給食のパン食べる?」


 「どの質問にも答えていないのに、次々に質問をしてくるな。ひとつひとつ処理をしてからにしろよ」

そう答えたはずだったが、少女はニコニコしてちぎったパンをぼくの前に差し出してきた。

 初めて猫であることへの後悔と恥ずかしさを覚えた。話が通じないという当たり前なことに気がつかなかったことと、怒りの声が全て「ニャー」の一言に集約され、少女に心を開いたと判断させてしまったことに。


 これが言葉の壁と言われるやつか、厄介だ。しかもぼくの「ニャー」を皮切りに、ますます話すテンションとペースがヒートアップしていく。言葉と声というのは、時と場合によって凶器になるということを感じざるを得なかった。


 話を聞いてどのくらい経ったか。強制的ではあるが少女について分かってきた。

 名前は「キキョウ」どうやらぼくと同い年らしい。学校では平凡。友達が多い方でも少ない方でもない。明るい性格とも暗い性格ともいえない。どこかその平凡さと単調な毎日に退屈と絶望感を抱いているような。上りと下りがあると、疲れるけれど果てがあるのではと先が気になるのに、平坦な道が一生続くと、疲れはしないけれど果てしないように思える。そんな人生に感じているのだろう。


 「お前もぼくと同じだな」


 そう言ったはずなのだが、なぜだか少女はニコニコしている。


 「あなたに名前をつけてあげるね。そうね、なんか荒々しい模様をしているから『アラシ』ね。あ、あとおウチはあるの?もしなかったらウチに来ていいかママとパパに聞いてみるよ」


 おいおい、せっかく猫になったというのにまた人間と関わらないといけないのか?冗談じゃない。ぼくは好きに生きたいんだ。そう言おうとして振り返った時には、やわらかくも勇ましい背中が3m先に見えた。


 「おい、これ・・・」

スーパーボールくらい心が弾んでいたのか、ハンカチを落としたことにすら気がついていない。ずぼらというかなんというか。仕方なく咥えてみた。だがなんだろう、動物に対しての優しさなのか、自分に対しての優しさなのか。心はこの時期の気候と同じくらい穏やかだった。



 翌日、あの子はやってきた。ハイウェイの真っ赤なスポーツカーほどの勢いで。

 「ウチに来ていいって!」

そんなことよりこのハンカチ忘れていったぞと、おもむろに草陰からハンカチを引っ張り出そうと咥えた瞬間、身体が宙に浮いた。どうやら抱きかかえられたようだ。


 ジタバタしようとしたが、興奮による加減の知らない力に抑え込まれ、諦めざるを得なかった。いや、照らされた新雪のような希望に満ちたこの子の輝いた目を見たからかもしれない。


 家に着くと、父と母を含め3人で手厚く迎えてくれた。そして、ご飯を一緒に食べた。一緒に眠った。なんてことはない日常であるが、ぼくにとっては非日常だった。存在を受け入れてもらえるなんて。


 「思っていた自由ではないけれど、これも悪くない」


 そう思うと同時に、もっと早く出会っていたら人間のぼくが受け入れられていたのかもしれないとも思った。そうなっていたら、ぼくはこの世界に絶望していただろうか。


 ぼくはこの時、人間のせいで獣になりきれないでいた。



 猫になってどれくらい時間が経ったであろうか。脚2本で立つ感覚も、雑草を見おろす感覚も忘れてしまったくらいなのは確かだ。米とフードはどっちが美味かったか?


 今日も変わらず、とてものどかだ。視界の雲が下手から登場し、上手に帰るのを見届けると1日が終わってしまうような。


 ルルル・・・

遠くで電話が鳴った。母が出たようだ。少しすると、まるで飛び出してきたと表現するのが正しいような、焦っている声色が聞こえてきた。ぼくは気になって陽の当たった窓際から離れ、ヒーロー登場の如く母の元へ駆け寄った。


 「キキョウが事故に?!無事なんですか?!」


 その一言だけがはっきりと聞こえた。ぼくは、電話が終わるまでその場に立ち尽くしていた。4本足が自然に還ったように。


 母は父に連絡を入れ、病院で合流するようだ。最低限の荷物をまとめ、玄関へ走っていく母を追いかけた。


 「ぼくも行くよ!」

そう言って玄関から出ようとすると、母は慌てて腕をぼくの前に出した。


 「アラシ!どこ行くの?出ちゃダメよ!」

こんな時に何を呑気なことをと思い、ふと自分の足元を見てハッとした。

 ぼくは猫だった。当然、病院へ入れるわけがない。なぜそんなことに気が付かなかったんだ。焦りというのは快楽のない脳内麻薬のようで、この一瞬だけ、記憶が全て飛んでいた。


 その脳内麻薬にやられていたのは、ぼくだけではないらしかった。几帳面な母が、庭へと繋がる窓の鍵を閉め忘れている。

 「ここから出よう」

ぼくは飛び出て、母の後を追いかけた。


 家の近くの大きな病院に着いた。母と、茶髪の看護師さんが話している姿が自動ドア越しに見えた。とりあえず場所は確認できた。この後はどうしようか、そう考えようとしたが、疲れからか頭が砂嵐で真っ白になった。


 「一旦帰って、家族の帰りを待とう」


 日が暮れてから父と母が帰ってきた。ぼくはいつも以上のスピードで玄関へ迎えに向かった。母は父に支えられ、今にも崩れ落ちそうだった。


 父から学校の先生へ連絡を入れていた、その話から概要が明らかになった。キキョウは居眠り運転の車に撥ねられ、胸を強打し、目を覚ますかどうか分からない状態らしい。いわゆる植物状態というやつだ。心臓移植の必要があるが、ドナーを見つけることが現状難しく、どうすることもできない状態だという。


 ぼくは話を聞きながら、窓際で月を眺めて丸まっていた。どうでもいいようなことと、キキョウのことを交互に思い浮かべ、ひとり会話をしていた。落ち着かないようなことをしていないと、落ち着いていられない、心はそんな状態だった。

 あっという間に日をまたぎ、父と母は眠りについた。ぼくは窓の鍵が開いていることに改めて気がつき、フラッと外に出た。涼しいような寒いような夜風に当たり、月を見上げた。少し時間が経ち、唐突に吹いた強い風に背中をドッと押された。


 「ぼくが人間に戻ってキキョウを救いたい」

この言葉が押し出された。それと同時にぼくは走り出し、何を思ったか、ぼくが死んだであろう階段へ向かっていた。


 街灯が1本あるだけでとても薄暗い。風のせいか寂しさをより強く感じる。ぼくは硬く冷たいコンクリートを力いっぱい引っ掻き、泣き喚いた。

 「人間に戻りたい、人間に戻して下さい」

同じことを何度も何度も。


 「あの時ぼくは死んだんだ、また死んだら元に戻るかもしれない」

猫になるというよく分からないことが実際に起きたことで、何かよく分からないことがまた起きるかもしれないという期待を胸に、道路へ向かった。


 怖い、足がすくむ。死んだ経験はあるが、意を決して死ぬというのは初めてだ。本当に元に戻るのか、戻らなかったらぼくはどうなる、ベルトで打たれるのとどちらが痛いのだろう、そもそも痛みはあるのだろうか。未知への恐怖、それが死の恐怖。


 目を閉じて、キキョウの顔を思い浮かべた。

 「ウチに来ていいって!」

初めて会った時の言葉が聞こえてきた。そして抱きかかえられたあの感覚。ぼくはその感覚に引っ張られるようにコンクリートを強く蹴った。



 目を覚ますと黒い星が白い空に広がっていた。どこだここは。この臭い、ここは病院だ、そして今見えているのは天井だ。


 「ハル!」

左の方からそう聞こえた。ベッドが起き上がるように動き出し、だんだんと顔が見えてきた。

 ぼくの母親だ。久しぶりに見た気がする

 「階段から落ちたって聞いて、心配したのよ!」

涙を流しながら大声でそう言った。

 「久しぶり」

そうつぶやこうとしたが声が出ない。おかしい、腕も足も動かない。


 少しして、看護師さんがやってきた。

 「ハルくんは強く頭を打ってしまっていて、体を動かすことはおろか、会話ができるようになるか今のところはなんとも・・・体の傷もひどい状態で。正直、安定しているとは言えないので、今後どうなるか・・・」

母親が泣いているのが見える。


 「ごめんなさい、私があんたに構ってあげなかったから。自己中心的だったから。本当にごめんなさい。もし願いが届くなら、私はまたあんたと一緒に暮らしたいよ」


 母親のこんな感情的な優しさを見たのは初めてだった。いつも怒った姿しか見ていなかったから。複雑な気持ちだった。顔を見るのにうんざりしていたのに、またずっと一緒にいたいという気持ちを取り戻しつつあった。


 「起きたばかりなのに、うるさくしてごめんなさい。少し外に出てくるわね。その間ゆっくりしていなさい」

母親はそう言って病室を静かに出て行った。


 日常を取り戻したい熱意と、不自由な身体であることの不甲斐なさが交錯し、頭の中で思考が走り回っている。


 「ぼくはどうして階段から落ちたんだ?」

その思考がまずゴールテープを切った。すると、それを追ってゴールするかのように記憶が蘇ってきた。このリレーを終わらせたのは、さっきまでいた看護師さんだった。どこかで見たことがある気がする。


 「あの看護師さん、病院の外から見たような・・・そうだ、ぼくは死んだんだ。そして猫になった。キキョウ・・・」

全てを思い出した瞬間、ぼくはキキョウと同じ病院にいることに気がついた。


 「どうする・・・どうすればいい・・・どうしたい・・・」


 一定に鳴るモニタの音に乗せて、外で誰かと話す母親の声が聞こえてくる・・・。


 「そうか・・・そうだよなぁ・・・」


 目を閉じた。その時聞こえた音は、バタバタととても騒がしかった。


 「さあ、おはよう」



 目を開けた。その時聞こえた音は、バタバタととても騒がしかった。

父と母が泣いている。看護師さんと主治医の先生も安堵の表情を浮かべている。


 父と母が、今までのことを話してくれた。事故のこと、心臓移植のこと。移植の意味はざっくりとしか分からなかったが、どうやら適合するのが難しいことらしい。

しかし身体は、植物が細かな根を張るようにスッと受け入れていた。


 この心臓は、同じ病院にいた「ハル」という同い年くらいの男の子のものらしい。なんでも不自由な身体ながらも、紙に心臓を提供したい旨を書いていたのだとか。その字は心臓と同じくらい力強く、荒々しかったらしい。


 「そうだったんだ・・・」



 月日は流れ、空気が渇き、凍てつくような寒さがやってきた。久しぶりに外に出てみる。


 「あまり無理しちゃダメよ」

母の声がリビングの方から聞こえてくる。靴を履きながら玄関の扉を開けた。


 「はーい」

とても寒い。深呼吸をすると、息の白さが空気の白さを掻き消した。心臓は、寒さから身を守ろうと元気に鼓動した。その時、首元から胸にかけて拡がる傷に触れてハッとした。


 「マフラー着けるの忘れた」

玄関から母を呼び、持ってきてもらった。


 軽く散歩をしてみる。走るには、まだ時間が必要かもしれないから。知らない道でも歩いてみようかな。


 ふらふらと自由に歩いていると、心臓の鼓動が少し速くなった、そして力強い。身の危険を感じるようなものではないことは分かった。だけど、何かこう、底から燃えあがるような。

少し、心配になって立ち止まってみた。


 「落ち着いて、大丈夫」

小さな声でそう呟いた。


 その鼓動は、目元にホクロのある女性と男性が腕を組みながらわたしの横を通り過ぎて行くまで続いた。




 


 

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アラシとキキョウ 耀 田半 @tahan_yo

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