第4話 冥府の神との出合い
「だ、誰ですの!?」
起き上がってみても、狭い穴の底、誰も居ません。
空耳かしら? と首をかしげたとたん、さっと空が陰りました。
顔を上げると、唐突に、長身の男性が穴の中に現れていました。落とし穴の外から注ぐ陽光を、彼が
「誰、とは、ひどい。呼び出したのは
『お前たち』と言うとき、その人は皮肉っぽく口元を歪めました。
彼は夜空を織り込んだかのような黒の服に、同じく黒いマントを羽織っていました。マントは裏地のみが白く、それは白地に金の絹糸で織りが
並の品物ではないとひと目で分かりました。
腰の下まで伸ばされた銀の髪はゆるく波打っています。
月の光のような髪の輝きが、彼の尊さを極限まで高めているかのように見えました。
青白い肌に、彫刻のような鼻筋。瞳はアメジストの紫色。
こんなに美しい人は見たことがありません。
と、同時に、私の親しくしていた猫さんを思い出しました。
亡くなった母が冥府で心穏やかに過ごせるようにと、幼いころから通っていたヨーツェ様の神殿。その庭に住んでいた猫でした。
あの子も、銀色の美しい毛並みに、紫色の神秘的な瞳を持っていました。
って、そんなことを考えている場合ではありません。
目の前にいるのは、本当にヨーツェ様……?
「呼び出した……それってもしかして……」
信じられなくて思わずつぶやきます。
喉がからからに乾いていて、声がうまく出ません。
彼は薄い唇の端を左右均等に持ち上げてほほえみました。
美しいのに、ゾッとさせられるような笑顔でした。
「いかにも、俺が冥府の神ヨーツェだ。お前を迎えに来た、俺と共に来い」
ありえません。堕落した神殿や神官長には、神様を呼ぶ儀式など出来ないはずです。
しかし、彼は神気に
驚いて固まる私の前に、彼の顔がぐっと近づきました。
骨っぽく、大きく、青白い手が、私の顎を持ち上げます。
アメジストの瞳に、呆然としている私の顔が映っています。
彼の唇が、私の顔に寄せられて……。
「ヨー、ツェ、様……?」
耳に、ヨーツェ様の吐息がかかります。
冷たい息は、恐ろしいけれど、どこか官能的でもあります。
そのときです。ペロリ、と耳たぶを舐められました。
「ひぃっ」
思わず声を上げる私の耳もとで、彼がくつくつと笑います。
くすぐったくて、腰が抜けてしまいそうです。
「はッ、色気のない声だ」
「ななな、何をなさるんですか!」
「挨拶だ、お前が喜ぶ挨拶をしてやったのだ」
「こ、こんな挨拶、聞いたことがりありませんわ! 神様ともあろう御方が、犬か猫のように、み、耳を舐めるなどと……!」
こんな人間の娘に軽々しく触れたり舐めたりなさっては、ヨーツェ様の威信に関わります。ただでさえ、無能神などと誤解されているのに。
ということを遠回しに伝えたつもりですが、犬や猫に例えるのは不敬だったかもしれません。
「ふむ、犬か猫、か」
あ、やっぱりそうですよね。引っかかりますわよね。
さっきまで猫さんのことを考えておりましたもので、というのは言い訳なのでしまっておきましょう。
「も、申し訳ありません! と、とにかく私に触れてはいけませんわ」
「フン。この俺がそのような
ヨーツェ様は、呆れたと仰りながらもなぜか楽しそうでした。
「あの、私を連れていくということは、ヨーツェ様は神殿の呼びかけにお応えになったのですか? 神託を偽装するような不敬な神殿の呼びかけに? 利用しているだけですのに?」
私が言うと、ヨーツェ様はさらに愉快そうな表情になりました。
どこか子供っぽさを感じる笑顔です。
思わず私のなかの何かがキュンとなりました。キツい顔だの高慢姫だの呼ばれる私ですが、実は可愛いものが大好きなのです。
「変わらぬな、お前のその言いよう」
変わらない? というのは何でしょう。
神様ですから、何でもお見通しということなのでしょうか。
言いよう、と仰って笑ったのは私の言葉選びがまたおかしかったという事でしょうか。確かに、利用されている、とは失礼だったかもしれません。
「すみません! 私、言葉を選ぶのが下手で……。も、もう黙りますわ」
するとヨーツェ様は、小さくなってそう言った私の顎を掴んで上を向かせました。目と目が合うように。
じっくりと見つめたヨーツェ様の瞳の深さは、例えるならば、洞窟の中の湖。透き通っているのに底が見えない、美しさに誘い込まれて浸かろうものなら、あっと言う間に溺れてしまいそうな恐ろしい湖でした。
「あ、あの」
「黙らなくてよい。お前の言葉は愉快だ」
「ありがとう、ございます……初めてそのように、言って頂きました……」
「分かれば良い。では早速、」
ヨーツェ様が私の腰に手を回しました。
そう言えば、「共に来い」と言われていたのでした。行き先って、冥府ですよね? 私は不死の呪いを受けているのですが。
「あの! 私を連れていくということは、呪いが解けるということですか?」
「残念だが、その呪いは簡単には解けぬものだ。魂が肉体から離れぬよう完全に融合させてある」
あっさりと否定されてしまいました。
「え、そうなんですの?」
「無理をすればやれないこともないが、力業になるぞ。魂を無理に剥がす。すると魂は壊れてしまう。そうなれば永遠の無だ。冥府には行けない」
「そんなの嫌ですわ! 無理無理無理!!」
いけない、つい言葉が荒くなってしまいました。
「神様なのに……」
思わず愚痴が漏れます。
「フン、知らんのか? 我を無能な末弟、末席の神だと、人間どもは侮っているではないか。何も生み出せないから冥府を治めることになった神だとな」
私から一歩離れ、両手を上げて自嘲するヨーツェ様。
ああ、やっぱり人間の不敬っぷりに呆れておられるのでしょうか。
本当の神話は違う、と私は主張していましたが、力が及ばず誰にも信じてもらえなかったのです。
ヨーツェ様については、ヨーツェ様の神殿で精霊の会話を聞く限り、無能とはほど遠いと存じております。
でもそれを失礼のないよう伝えるのは、私には難しい気がいたします。
言葉を失った私を、ヨーツェ様は改めてじろじろと眺めました。そして、やおらにこう言ったのです。
「呪いを解けぬ神は不要で、無能と思うか?」
その言葉にさみしげな響きがありましたので、私は慌てて首を横に振りました。
「いえ、偉大なヨーツェ様にも簡単には解けないという呪いならば、諦めますわ。元より不死のままで人生を
「呪いを受けたままで
「生まれてすぐに受けた呪いなので、慣れております。平気です。リクガメは己の甲羅の重さを知りませんので」
「ふむ……? まあ、いいだろう」
言葉とはうらはらに納得いかない顔をしたヨーツェ様が、あらためて私の腰に腕を回しました。先程よりも力強く。
「俺は気が短い、もう行くぞ」
「でも私、死ねないのですよ!」
「そうだ、生者とは死ぬものだ。お前は生者であって生者でない。俺がついていれば冥府へ通してやることができる」
え、そうなんですの?! 魂消滅案よりも先に言って!
「なぜそのようにして下さるのですか? ヨーツェ様に利がありません」
思わずそう口にすると、ヨーツェ様はなにやら面食らったような顔をなさいました。
やってしまった……。正直な感想がつい口から出てしまいました。
「動じぬ女だな。俺はお前が良い、と言ったはずだ。人間どもの
「で、でも……」
「静かに」
ヨーツェ様の目を見て問い返そうとしますと、彼は指を私の鼻先に当て、それから上方に向けて指さしました。
この神様、距離が近すぎます。何か文句を言ってやろうと口を開きかけて、私は慌てて鼻と口を両手で覆いました。
ツンとした臭いがしてきているのです。
草が燃える臭いのなかに、腐った果実のような嫌な甘い香りと、鉄のような歯にしみる臭いが混じっています。
刺激臭を放つ煙が、外から入ってきているようです。
「お前をどうしても苦しめたい者が居るようだな」
そうこうしているうちに、黒煙が穴の中に侵入してきていました。
「選べ。ここで燻されるか、俺と共に行くか」
私の耳元でささやくヨーツェ様の声は、場に似合わない甘やかさを秘めていました。
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