「世界を読む」
小説が、読めなくなった。
私がはっきり伝えると、彼女は少しのあいだ目を伏せて、静かな声でどうして? と尋ねてきた。
その声が二人だけの教室で寂しげに響くので、私は胸の痛みを無視しながらなるべく仔細に、事の成り行きを説明していった。
小さい頃から本が好きだったの。大人ぶって図書室で難しい本ばかりを借りては顔を顰めながら読んでた。だけどその時間が好きだった、そう、純粋に好きだったんだよね。
こんなこと言ったら笑われるかもしれないんだけど。私、小説の文字の奥に世界が見えるの。その……上手く言えないんだけど。
ゆっくりでいいよ、春の陽光のように暖かく、優しい声が耳を撫でる。目を閉じて、深呼吸をして、ありがとうと小さく返す。
小説はいつも、私を知らない世界へと連れ出してくれた。君もそれなりにあるでしょう? そういう経験。物語を書く人なんだから、知っているはず。
夢をみているようなの。小説はこの変わり映えしない現実を、いつも鮮やかに彩ってくれた。
文字の海に、揺蕩うような感覚……どこまでも自由で、限りなく広い海。果てのない海。
読み終えて本のページを閉じるときには、何とも言えない寂寥感が波のように押し寄せてくる。だけどまた、新しい世界を知るために本を探して、その物語に降り立つ。そういう旅が好きだった。
いつからか自分でも、小説を書くようになった。最初は拙い文章だったけど、長年本を読んできたのが功を奏したのか、少しずつ小説と呼べるものを書けるようになっていったの。
あの頃は本当に、毎日が楽しくて仕方なかった。つまらないと思っていた日常が、何だかとても素敵に見えた。輝いていた。日常に存在するもの、あるいは存在しないものでさえ、全てが私の小説の糧になる。この感覚は物語を生み出していなければ味わえない、特別なものなんだと思った。
だけど。
いつからだろう。
奴はだんだんと、私を蝕むようになっていった。
この前、二人で応募した新人賞の結果出たでしょ? 君は特別賞、私は最終選考落ちだったアレ。あれからさ……。あれからさぁ、あれから、もう、書けないし読めないしでホントもう、……生きてても、生きてないみたい。
彼女がはっと息を飲む音が耳に入った。ああ、ごめん。私そんな顔をしてほしいわけじゃなかった。ただ、救ってほしかった。彼女なら私をこの状況から脱却させてくれるんじゃないかって、期待しちゃった。
ごめん、ごめんね。こんなこと言われても混乱するだけでしょう? でも私、このままじゃ消えちゃいそうなの。この世界で何も生み出せない、何も綺麗と思えない自分を消し去ってしまいそうなの。だから、助けてほしいって思っちゃった……。
でもさ、分かってる。君にこんな相談してる時点で、こんな情けないことはない。て、分かってる。
分かってんだよぉ、分かってるんだよそれは。
だけどさぁ、救われたいって思っちゃって、一度思ったらその願望が膨らむ一方で、私まだ、生きてたいの死にたくないの。死にたくない……死にたくないから、こうして縋ってるの。
ごめんね、ごめんね。でも今だけ、今だけでいいから甘えさせてほしいの、今だけはちゃんと人間でいたいの、生きてるって、ちゃんとこの世界で息吸ってるって信じたいの。
なんてね、なぁんてね……。
こんなみっともないセリフ、結局君に打ち明けられないやとか思っちゃって、だからあくまで小説として書こうとして、ひどく拙くなっちゃって、もう私、ほんとにだめだなぁ。だめだね。
これ届いてるのかな、私ちゃんと、君にこれを届けるのかなあ。
今はわかんないや。もうよくわかんないや。
もし、届いてるなら、ねえ、君、。。。
わたしのことをすくってくれませんか
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