未完成の熱情

夜海ルネ

「光から逃げた」

 お腹空いてきちゃった、と彼が言ったので道すがらファストフード店に寄ったけど、ハンバーガーは味がイマイチだった。おかしいな。ここのお店には過去何度も通って、ハンバーガーも大好きだからよく食べていたのに。そしてはたと気づく。おかしいのは私の方だった。

「麻月? どうした?」

 左隣に座る青年・日向が私の顔をそっと覗き込む。私がゆっくり、微妙な顔で頬張ったものを咀嚼していたのが気になったのだろう。今まで美味しい美味しいって、むしゃむしゃ子供みたいに食べていたものを急にそんな態度で見つめるものだから、日向が不審に思うのも当然だった。 

「味、しない」

 俯いてみた。喉がくっ、と締まる。どんな顔をしていいかよく分からない。店員に文句なんて言えないし。味がしないのはきっと自分のメンタルの問題だし。

「塩かければなんとかなるんじゃない? 店員さんにもらってこようか」

 日向は呑気に笑いかけた。なんでそんな顔でそんなことを言えるのだろうと素直に疑問が脳を走る。そんな、壊れかけの人形みたいな顔で平凡な人間のようなことを。

「ううん、このままでいいよ」

 弱々しく首を横に振って、また一口、ハンバーガーを口に押し込んだ。パンはパサついて口の中の水分を奪っていくし、肉もニチャニチャして歯が軋む。ピクルスは変に酸っぱくて頬の辺りの筋肉がぎゅっと引き攣る。痛い。ハンバーガーって、こんなにまずい食べ物だったっけ。

 左手に食べかけのハンバーガーを持って、右手でポテトをつまんでみた。なんだこれ。死ぬほど油くさい。揚げたてのはずなのにしなしなしていて、噛めば噛むほど油が染み出して気持ち悪い。

「このポテト、いらない。食べれる?」

「ああ、食べれるよ」

 日向は快く私のポテトを受け取った。むしろどこか嬉しそうだ。

「日向は平気なの?」

 小さな声で左隣の彼に聞いた。だって私ばかりこんなに食事が喉を通らないなんておかしいじゃないかと思ってしまったから。せめてあなたもどこか異常であってよと、そんな願いを込めて聞いた。彼は私の顔を見て、にこりと笑う。

「ぜんぜん、平気だよ。美味しいよ、ハンバーガーもポテトも」

 思わずゾッとしてしまった。大切な人の笑顔をこんなにも怖いと思う日が来るなんて。そんなの想像できなかった。

「そうなんだ。平気なんだ」

 メロンソーダを一口。炭酸が喉を刺激して目に涙が滲む。

 時刻は午前二時。窓に面したカウンター席には私たち二人だけしかいない。奥のテーブル席に残業のせいなのか疲れ切った顔のサラリーマンを見かけたけど、店内の客はその二組だけらしい。

 店の天井にチープなBGMが張り付いている。夜を塗った窓に私の精気のない顔がぼんやり映った。お世辞にも年頃の女子と大差ないなんて言えない。髪もボサボサで、服もヨレヨレで。みすぼらしいという言葉がお似合いの身なりだった。そのまま長方形に切り取って遺影にでもした方がこの画は活きるんじゃないか、ひどい自虐っぷりだけどどうにもそう思えてしまう。

 そのままちらりとガラスに写る青年に目をやった。むしゃり、むしゃり、数日えさを与えなかった動物のようにハンバーガーに噛みついて、コーラをストローでずずず、と吸って、私があげたポテトを夢中になってつまんでいる。食べ盛りの歳だし、側から見ればそれなりに普通の光景だと思う。だけど私たちは普通じゃない。普通じゃないから、隣に座る彼に余計なフィルターをかけてしまう。フィルターのかかった彼は、私の目には「悍ましい色」に映る。だってそうでしょう、どうしてあなたは平然と食事できるの……。

 言葉を飲み込んで、私はもしゃ、とハンバーガーを口に入れた。やっぱりひどい味だ。今すぐにでも吐き出してしまいたい。その衝動と戦って、なんとか喉をゴクリと動かし異物を飲み込む。口内に残る蟠りがいつまで経っても消化されず、ひたすらにメロンソーダを飲んで喉の刺激に涙を滲ませる。

「麻月は俺が怖い?」

 日向がふいに、私を見かねたのかそう尋ねてきた。視線はこっちによこさない。その態度は冷たいようにも、暖かいようにも感じられる不思議な温度だった。

「どうしてそんなこと聞くの」

 私は彼の問いに答えを出すのが怖くなって、別の問いで誤魔化した。彼はむしゃりむしゃり、ハンバーガーを咀嚼しながら「うーん」と口ごもる。

「なんでだろうね。麻月が俺を見つめる目が、前とは違うからかな」

 思わずハッと息を呑んでしまった。私は知らず知らずのうちに日向を、怪物を見るような目で見ていたのだ。それが彼には、分かっている。

「……ごめん」

「なんで謝るの」

 日向はいつもと変わらない優しく穏やかな声で笑った。高校からの帰り道、二人で取り止めもない会話をしながら肩を並べて歩いたあの日のように、陽だまりの如く暖かな声音。その声が好きだったのに、今はもう、つゆほどの暖かさも感じられない。それは私の感覚の麻痺なのか、彼の温度の消失なのか、私には分かりかねた。

「麻月は昔から変わらないね。臆病で、怖がりなところ」

 彼ばかり、彼ばかりずるいと思った。私だって本当は。本当は、なんだろう。その後に続く言葉が見当たらない。

「食べ終わったら、どこへ行こうか。タクシーに乗って海にでも行く?」

 それはやたらと青春の色をしていた。私たちには手に入れられなかった圧倒的な輝き。分不相応だとわかっている。だけど今だけは、どんな罪も赦される気がした。

 頷いた私に彼はそっと、頬にわずかな笑みを浮かべて返した。




 私と彼は言うならば幼馴染だ。小学校から高校までずっと、一緒だった。家が近所なこともあり、放課後はよく二人で帰った。

 今思えばどこからどう見ても普通で、どこにでもいる、ありふれた二人だった。

 この夜までは確かに、私たちは普通だ。そう思いたい。

「近くの海まで」

 県道に出てタクシーを捕まえ、乗り込むと日向は運転手にそう告げた。運転手は明らかに困惑したような顔をして、「海はここからかなりの距離がありますけど……」と言う。それはそうだろうと思った。やっぱりわざわざ海に行くこともないじゃないと日向の方を見るが、彼は私を一瞥してなぜか「いえ、お願いします。海まで」と運転手に再び念押しするのだった。「は、はぁ……」運転手はミラー越しに私たち二人を交互に見つめ、車を走らせ出す。

「お客さん、年齢は? いくつ?」

「二人とも十八なので、未成年じゃないですよ」

 へらり、と日向が薄い笑顔で答える。人に好かれるような表情であり、人を寄せ付けないような表情でもある。不思議だ。

「なるほど、三月に高校を卒業したばかりってことね。それにしても、こんな時間に二人で海に行くなんて、僕にはどうしても駆け落ちにしか見えないけどねぇ。それとも訳ありだったりするのかい」

 タクシーの運転手は四、五十代ほどの男性で、こういう人はやたらと世間話だったり突っ込んだ話だったりをしたがるイメージがあるから、立ち入った質問をされるような展開は私にも予測できた。

「駆け落ち、か。多少はそんな感じもありますけどね」

 ははは、と日向は乾いた笑みを顔面に貼り付けて笑って見せた。聞こえた言葉はずいぶんな戯言だけど。

「やっぱりね、僕はかれこれ三十年ドライバーを続けているから、その人が一体どんな思いでこのタクシーに乗ってきたのか。肌で感じるところがあるんだよ。その勘はたまに外れるけどね」

 それなら今回の勘は見事に外しましたね、と私は胸中でつぶやいた。胸中で、といっても、隣に座る勘の鋭い男には察せられていそうではある。

「若気の至りってやつか。ま、僕みたいなおじさんは何も口出ししないさ」

 運転手はそれきり黙った。ふとスマホのロック画面で時刻を確認すると、午前二時半を回ったところだった。もうすぐ三時になる。タイムリミットまであと二時間半。それが私たちにとって長すぎる時間なのか、はたまたあっという間なのかは正直なところよく分からない。その辺も全て、ことが終わった後にわかるだろうと思った。


 海には一時間足らずで到着した。タクシー代を日向が支払い、私たちは車を降りる。

「それじゃあ二人とも、羽目を外しすぎないようにね」運転手の言葉に、私たちはぺこりと軽く礼をした。

 この日はちょうど満月で……なんてロマンチックな展開が私たちに訪れるはずもなく、月の輪郭はぼやけ、雲がかかっていた。特に期待はしていなかったけど、海面に浮かぶ月がパッとしないぼやけた月なのはやはり少し残念に思った。

「思ったより涼しいね。寒くない?」

「大丈夫」

 私たちはつい先日高校を卒業したばかりで、時季はまだ三月中旬。少し肌寒い感じがするけど、耐えられない寒さではない。

「はいこれ」

「ん……? 大丈夫って、言ったけど」

「でも見るからに寒そうだから」

 日向は自分の着ていた薄手のジャケットを脱いで私によこす。彼のこういうところが苦手だった。私のために自らを犠牲にすること? ちがう、少し紳士で若干キザなところ。

 私は黙って上着を受け取った。彼は満足げに微笑む。

「ねえ、日向はどうして私を海に連れてきたの? 一緒に入水でもしようと思ったの?」

 私がジャケットを拝借し羽織ってから純粋な疑問を口にすると、日向はあははっと口を開けて笑った。

「君と一緒に死ねるほど、俺は強くないな」

 とそんな、よくわからないセリフまで吐く。彼の目に海の青がすっと溶け込む。

「何それ、どういう意味なの?」

「うーん、麻月が死にたいならその手助けはしてあげても、自分の命まで一緒に捨てることはできないってことだよ」

「ははっ、何それ最低」

 今度は私が思わず笑ってしまう。会話の内容は明らかに物騒なのに、私たちはそれを青春か何かと履き違えているみたいだった。そもそも青春なんて、語れるほどよく知らない。だけど知らないものの方が多く語れる気がした。定義や全体像をうまく掴めていないからこそ、好き勝手自分の情報で補完できる、そんな対象もあるはずだ。

 ここでようやく、海の音が耳に入ってきた。切羽詰まって何も感じられなかった潮の匂いも、微かに鼻腔を掠めていく。私は少しずつ正常に戻っているみたいだった。日向はどうだろうか。ここに来る前は食事を普通に取れていたわけだから、実はその時からすでに精神の平静は保たれているのかもしれなかった。悔しいと思いつつ、そうなりたくはないと思う自分もいる。

「落ち着いたみたいだね」

「どうして分かるの?」

「勘だよ」

 日向はイタズラっぽく微笑む。その心にどんな闇を抱えているのか、私はほんの一部だって知らないのだろう。日向は決して、人に「自分」を見せるような人間ではない。あくまで自らが作り上げた別人格を「自分」の前に設置し、巧みに操って私たちと会話させているにすぎない。きっとそういうことなのだろう。だから恐ろしいし、敵にまわしたくないし、見ていてほんの少し辛くなる。

「ねえ、私がこの海に身を投げたら。日向はどうする?」

「さよならだけ言って、帰るよ」

 ちがう。やっぱりあなたは、

「嘘つきだね」

 私はそっと目を伏せた。まつ毛が小さく揺れるのがわかった。彼がどんな表情をしているのか見るのが怖くて、顔を上げることができなかった。

「日向はきっと、私を助けるか、助けられなかったら一緒に飛び込んでくれるかだと思う」

 彼は何も言わなかった。私も彼が返事に困るのだろうことは容易に分かった。それでもこんな残酷な質問に答えるあたり、やっぱり日向はどこまで行っても優しいなと思った。

「だけどそれは麻月にとっての日向で、本当の俺は飛び込むどころか知らんぷりして一人で帰るかもしれないよ?」

「それならそれで構わないわ」

 私が言うと、日向は困ったような顔をする。その顔をさせてしまうたびに、私はひどく胸が苦しくなってしまうのだった。その理由がわからないふりをするほど子供にもなれなかった。中途半端な大人って、こういう時がめんどくさい。

「タイムリミットまであと二時間。夜が明けたら僕らは殺人犯になる。やり残したことはない?」

 日向は優しげな顔でつぶやいた。宣う言葉に似合わない優しい顔だった。

「やり残したこと……特にはないかな」

「じゃあ俺のやり残したこと、今やってもいい?」

 彼にしては珍しく自ら意思表示するので、私は少し驚いた拍子にこくりと頷く。

「ありがとう。じゃあね、俺。青春っぽいことしてみたいな」

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