タンポポの恋、お届けします

nishimori-y

第1話

 タンポポの綿毛が、ふわり、ふわり。桜色の風に乗る。


 春の陽気に誘われて、雲ひとつないお天気の下、綿毛の種が目の前に飛んでくる。綿毛が耳と髪を優しく掠める。軽く、柔く、気紛れに飛び交う綿の妖精たちがあまりにも可愛くて、ひととき目を奪われ、明石あかし亜紀乃あきのは軽快に進む自転車をぴたりと止めた。


 左右に顔を動かし辺りを見渡す。この綿毛はどこからかしら。


 道路沿いに流れる竹田川の端の雑草に紛れて、たくさんの綿毛たちが白い産毛を並べている。緑色にすらりと伸びた茎の間から覗いている、無数の黄色のタンポポたち。黄色と綿毛の妖精たちとの素敵な出会い。亜紀乃の顔から笑みがこぼれる。タンポポも川面の光に照らされて、清く明るく笑っている。愛くるしくて可憐な存在感が控えめに亜紀乃のことを呼んでいる。


 ふわり、ふわり。ねえ遊ぼうよ。

 やだ、どうしよう。わたしを誘っているのかしら。


 ……なあんてね。亜紀乃はほんの少し迷い、それから前後を見渡した――人気の消える月曜日の日中だ。車も人も自転車も、誰もいない。知ってる人も、いないよね。よし。


 急いで自転車を脇に寄せ、タンポポの茎にそっと手を伸ばす。誰かの訪れを待ちかねていたかのように、柔らかな綿の結晶が風に身を震わせた。


 綿毛の茎をプチンとちぎって、口から空気をそっと送る。種は上手に白い傘をぱっと開げて風を掴む。綿毛同士で手を繋ぎ、大きな綿の風船になって一斉に大空へ舞い上がった。


 亜紀乃は昔からタンポポの綿毛がたまらなく好きだった。種が飛ぶ瞬間の解放感が亜紀乃の心を躍動させる。高校生にもなってタンポポの綿毛遊び。あまりにも子供じみている。同級生にはとても見せられない。


 もうちょっとだけ、あと少し、あと一本。亜紀乃は続けざまに種を飛ばす。種が青空へ吸い込まれるのを細い目で見送ってゆく。


「ねえ」


 突然の男の声。後ろから声を掛けられ、ひっという小さな悲鳴とともに亜紀乃の心臓が空まで跳ね上がった。

「誰?」と、振り返る。


「驚かせてごめん――これ、忘れ物。このスマホ、君のじゃないの」


 高校生ほどの男の子が自転車に跨って、右手に白いスマホを掲げている。カーキ色の少しくたびれた薄手のセーターにジーンズ、アディダスのマークの付いた黒いスニーカー。身長百六十センチの亜紀乃よりも随分と背が高くて、すっきりとした頬に目鼻立ちがくっきりとしており、髪の毛が茶色に抜けている。


この人、知ってる。先日、東京から引っ越してきたとかいう……

「あ、篠原しのはらくん、やったっけ? 確かにそれ、わたしのや。わざわざ持ってきてくれたんか? どうもありがとう……」


 福井県立越士えつし高等学校三年二組。亜紀乃のクラスに転入してきた男の子。名前を、篠原しのはらりょうという。


 都会っ子で結構なイケメンだって、クラスの女子たちが嬉しそうに騒いでいたっけ。でも、亜紀乃はあまり興味がなかった。県内でもレベルの高い越士高校の、しかも国立進学クラスによく編入できたなって、彼の学力に感心しただけ。


 しまった、今の姿を見られたか。恥ずかしい。めっちゃ、恥ずかしい。きっと顔どころか頭のてっぺん、指の先、足の裏まで真っ赤になってる。おずおずと、篠原の手に持つスマホに手を出す。タンポポの茎を握りしめているのに気が付いて、慌てて反対側の手を差し出した。


「このスマホ、なくしてたなんて知らんかった」と、スマホを受け取る。「わたしのやつって、よう分かったの。どこにあったんや?」


「カフェのテーブルの上。君が座っていた場所にあったから、急いで追いかけてきた。違ってたら店に戻すつもりだったけど、持ってきてよかったよ」


 川添いに建っているお洒落なカフェ店。亜紀乃は今まで友人たちとケーキを食べていた。篠原の額にはじんわりと汗を浮かべていて、いやいや、なかなか紳士的態度ではないかと評価する。ほうか、と亜紀乃は神妙に頷く。


「篠原くんもあのカフェに来てたんか? お客さん少なくて気が付かんかったけど」

 亜紀乃が訊くと、篠原は首を振った。


「いや、あそこ、俺の親父の店だから。今から俺もあの店でバイトする」

 その答えに亜紀乃は目を丸くした。

「うそ、あそこで働いてんか。知らんかった」

「うん、そうだろうね、まだ誰にも言ってないし。俺はいつも厨房にいる」

「でも、あそこのお祖父ちゃんって、確か苗字が小野さんやなかった? 篠原くんと名前違うで」

「あれは親父の旧性。俺は母方の苗字を使ってる」


 あ、と思い、亜紀乃は返す言葉が見つからない。篠原の転校の理由は、ちょっとした「家の事情」だと聞いていたから。じっと黙っているうちに、篠原は自転車をUターンさせて店に戻ろうとする

「……あ、とにかく、わざわざ届けてくれてありがとね、助かったわ」

 亜紀乃が慌てて声を掛けると、篠原は帰りざまに振り向いた。


「別にいいよ。それより――」と、篠原は髪を掻き上げる。「さっき店で聞こえてしまって悪いんだけど、八重園やえぞのって人、その人のことを好きなのって、もしかして君のこと? 君、八重園を好きなの?」


 亜紀乃は声を失った。不意打ちだ。篠原の発言が、亜紀乃の頭の中を真っ白に混乱させる。篠原はそれに気を遣うことなく、


「もしそうなら、あいつはやめた方がいいよ。好きになってもきっと不幸になる」

 バッサリとそう言い残して篠原は自転車を走らせた。


 篠原の自転車が道の向こうへ消えてゆく。亜紀乃は立ちすくんだままだ。あまりにも唐突で不躾な篠原の態度。亜紀乃は怒ることも忘れ絶句する。


 やめた方がいい、やめた方がいい、不幸になる、不幸になる……同じフレーズが延々と耳にこだまする。


 そして極めつけのこの一言。


『君、八重園を好きなの?』


 亜紀乃は脳内エコーを最大限にし、消えてしまった篠原の背中に向かって、声にならない声を全力で叫んだ。


――別に、あいつのこと、好きやないし!

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