あの人のスパイス

立入禁止

あの人のスパイス


「女の子って、お砂糖とスパイスと素敵なもので出来てるらしいですよ」

 自分も作業をしつつ、隣で作業している先輩に話しかけた。

「ふーん。じゃあ、男の子は何で出来てるの?」

「カエルやカタツムリ、そして子犬の尻尾らしいですよ」

「へぇ。けど実際、人間って水とたんぱく質、炭水化物、脂肪、その他諸々の元素の塊で出来てるよね」

 夢も欠片もないことを言い出す先輩を横目でチラリ、と見ると当の本人は作業する手元に視線を向けたままで。私も自分の手元に視線を戻した。

「そういうことじゃないんですよ。お砂糖とスパイスで出来てるなら、どんなスパイスですかねって妄想話をしたかったんですよ」

 クリーンベンチに手だけいれて、シャーレに菌のご飯となる培地を作っている。

 他の先輩の実験にも使われるため、とにかく言われた枚数を作らないといけないのだ。足りなかったらなんて言われるか……。

 こういう作業は、新しく入ってきた下の働きなわけなんだけど。

 試薬に関してもそうで。無くなる前に作っておかなくてはならない。

 いつもは一人でやる作業だが、時々、手の空いた先輩が手伝ってくれる時もある。今のように。

 まぁ、だいたい伊織さんなんだけど。

 他の人は、手が空けば談笑しているか、仲間内で手伝ったりしていたりする。が、基本どれだけ忙しい人がいても自己申請じゃない限り見て見ぬふりが一般的な職場だった。

 伊織さんと、あともう一人の先輩だけは、何かと気にかけてくれていて。懐かない方が不自然だと思う。

 二人で作業をしていると、大体くだらない話を私が振って、伊織さんがど正論でぶった切るというスタイルだった。

 それが嫌とかではなく。くだらないことでも付き合ってくれる優しい先輩なのだ。

 今日とて、この前たまたまマザーグースの引用が目につき、伊織さんならなんて答えるんだろうかという好奇心で話題を出してみた。

 どちらかと言えば現実主義者で、会議とかミーティングで議論する時に伊織さんに突っ掛かろうものなら、論理的に跳ね返されるのがオチだ。

 勝負を挑む時は、余程の覚悟を決めないと挑めないくらいだと噂されるくらいで。そんな伊織さんだけど、近寄りがたいわけではなく、実際に話してみるとフレンドリーな人だった。

 入社して、一番最初に会話をしたのが伊織さんだったように思う。だからこそ、そんなピリピリした雰囲気を出すようには見えなかった伊織さんだったが、初めてのミーティングで見た態度に私がビビりちらしたのを今でも覚えているくらいだ。


「スパイスならなにか?」

「そうです、そうです。女の子ってどんなスパイスで出来てると思います?」

「……細菌じゃだめ?」

「それはなんか嫌なんで、スパイスでお願いします」

 えぇ……と言いながらも考えてくれている。

 考えている横顔もチラリと盗み見て、自身のマスクで隠れた口角が上がっていくのがわかった。が、手元は怠らず作業を進めてもいく。

「わさびに山椒に和がらしとか?」

「和のもの。しかも、なんか可愛くないですし」

 伊織さんらしいというか、なんというか。

「女の子に使われるスパイスですよ」

 私が不満気に文句を言うと、伊織さんは「えぇ……」と困っていた。

「じゃあ、朝見ちゃんが答えてよ」

「任せてください」

 得意気な雰囲気を出して伊織さんを見ると、伊織さんの目尻が少しだけ下がった。

「シナモンとホワイトペッパーとコリアンダーとかですかね」

「あぁ……なるほど」

「そんな、あからさまに興味が無さそうにしないでくださいよ」

「ふふっ、だって興味ないもん」

「えぇー……」

 私がぶうたれると、伊織さんは楽しそうに笑っていた。

「ほら、そろそろ一般と耐熱の培地が溶ける頃じゃない? 早く引き上げにいきなよ」

「あっ、そうですね。すみません。ありがとうございます」

 急いでオートクレーブに取りに行って戻るが、クリーンベンチの部屋に入る前に深呼吸をした。

 普段、伊織さんとたくさん話せる機会は、こういう時にしかないのだ。

 今日は、まだまだ伊織さんと話せる。

 にやにやしてしまう口元は、マスクで隠れているから良かったとつくづく思った。

 それに、マスクをしているから、溢れ出そうな言葉を押しとどめることが出来ているのもある。

 これで、もしマスクをしてなかったら。変なことを言い出し兼ねない。

 いや、マスクしていても既に言ってるかもしれないが、伊織さんが不快に思ってないならセーフ、かな……。

 扉を開けて中に入る。

「培地持ってきました」

「うん。ありがとう」

 取り出してきた培地もシャーレに流して、少し蓋を開けて冷ましていく。ある程度、培地が冷めたら蓋をしてクリーンベンチ内の角に重ねていくのだ。

 他愛のない話をしながら作業を進めていくと、あっという間に今日のタスクは終わってしまった。

 楽しい時間はあっという間だ。

 もっと伊織さんと話していたかったけど、この物足りないくらいが、きっと丁度いい距離感なんだと思う。

 あまり近付きすぎて、思わず、この想いがぽろっと出てしまったらと思うと恐怖でしかない。

 けれど、これくらいはいいだろう……。

「今日もありがとうございました。伊織さんとこうやってたくさん話せる時間が楽しくて。あっという間に終わってしまうのも寂しく感じますね」

「またまた、そんなこと言って。何も出ないからね」

「こうして、手伝ってもらえるだけで嬉しいので大丈夫です」

 本音だけど、そこまでの好意とは捉えられないくらいなら許されるはず。というより、許してほしい。

 クリーンベンチ内を綺麗にして、椅子から立ち上がろうとした時だった。

「いたっ」

「ん? 大丈夫?」

 集中しすぎて目を開けっぱなしにしていたせいか、乾燥していたらしく、目を閉じた時にチクリ、と痛みが走った。

 反射的に目を擦ろうとすると、その手を止められた。

「駄目だよ。傷ついちゃうから。ゆっくり瞬き出来る?」

「は、い」

 言われた通り、目をゆっくり開けたり閉じたりしている間、かなりの至近距離で伊織さんから見つめられていて。

 正直、そっちの方に意識が行くばかりで気もそぞろになってしまう。

「うっ、すみません。たぶん、もう大丈夫です」

「うん。良かった」

 今度こそ、席を立とうとすると伊織さんに呼ばれて立つのをやめた。

「朝見ちゃんさ……」

 伊織さんは、そう言うとマスクを鼻の下まで下げて近寄ってき来たのだ。

 えっ、と思うよりも早く距離を詰められる。

 思わず息を止めると、伊織さんは数回、鼻をスンスンしたかと思えば、マスクを鼻の上まで戻した。

「あぁ、やっぱり朝見ちゃんからか」

「えっ?」

「飴、舐めてるでしょ? ずっと甘い匂いがするなって思ってたから。やっぱり朝見ちゃんからだった」

 少しだけ放心状態な私をよそに、伊織さんは笑いながら、さっきまで話していた話題を引用してきたのだ。

「朝見ちゃんは、甘い飴と酢酸で出来てるね」

「っ、いやいや。酢酸は嫌なんですけど。確かに、これの前に試薬で酢酸を使いましたけど。酢酸って……。なんか可愛くなさすぎますし」

「あはは。そりゃ、そうだ」

 笑いながら部屋から出ていく伊織さんを見送り、大きなため息を吐いた。

「……あの距離感は駄目でしょ」

 いまだに、バクバクと暴れる心臓を右手で押さえ付ける。

 頭の中では、伊織さんを構成するスパイスはどんなんだろうと考えていた。




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