【アップ】男山教会2023年8月13日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】男山教会2023年8月13日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=FgSJ6jy2dnA&feature=youtu.be


【アメーバブログ】

聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。

ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12816666960.html



前奏

招詞 詩編85編9~14節

頌 栄 たたえよ、主の民[こ改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問48

「めぐみを与える方法」

こどもさんびか

ガリラヤのかぜかおるおかで[改54(1節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 15番

聖書

エレミヤ書24章1~10節(旧約P1222)

ルカによる福音書21章29~33節(新約P152)

説 教

「いちじくの籠の幻

~国々の将来を定めるお方」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 355番

みことばの交読文

ローマ8章37~39節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 542番

祝 祷

報 告



讃美歌~♬


【讃美歌全曲マラソン】讃美歌15番 礼拝 讃美(我らのみかみは)

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=9ywR7qzsI8U


1) 我らのみかみは 天地(あめつち)すべます

  国々しまじま 喜びたたえよ


2) みいつの光は 世界を照らせり

  大地はかしこみ み前にふるえり


3) 誰かはさからう み神のみわざに

  だれかはなみする み神のみむねを


4)よろずの君らよ み前にひれふせ

  すべての力は み神のものなり


5)天(あめ)にも地(つち)にも み歌ぞきこゆる

  「わららの神こそ まことの神なれ」


讃美歌355番(歌詞付)54年版「主をあおぎみれば」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=3TA-CK23XSE


1)主を仰ぎ見れば 古きわれは

   現世(うつしよ)と共に 速く去りゆき

   われならぬわれの あらわれきて

   見ずや天地ぞ あらたまれる


 2)うつくしの都 エルサレムは

   今こそくだりて われに来つれ

   主ともに在(いま))せば つきぬさちは

   きよき河のごと 湧きてながる


 3)うるわし慕わし とこ世の国

   うららに恵みの 日かげ照れば

   生命の木の実は みのり繁く

   もはや死の影も なやみもなし


 4)つゆだに功の あらぬ身をも

   潔めてみくにの 世嗣(よつぎ)となし

   黄金のみとのに 住ませたもう

   わが主の愛こそ かぎりなけれ



2023年8月13日 礼拝説教 中心聖句


「このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。」

エレミヤ書24章5節


「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

ルカによる福音書21章29,30節

            

はじめに

8・15集会で、沖縄の現状と歴史と宣教を負う証を聞いた、「今日」。

「主がわたしに示された」とは、主からの幻を見たこと。主からの召命を受けたときにも、主の言葉とともにアーモンドと煮えたぎる鍋の幻を見た(1章11節)。主自ら「わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」御方。「わが民の甚だしい悪に対して裁きを告げ」「北から災い」を告げた。それは、バビロンによるエルサレム崩壊と捕囚。ここで見た幻は「いちじくを盛った二つの籠」。それが「見よ、」「主の神殿の前に」「置いてあった」。この「置く」とは、「会う」こと。礼拝へのささげものであり、神と民との会見と献身の幻。時は、「バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨヤキム(ヨヤキン、エホヤキムと同じ)の子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のこと」。「残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった」(列王記下24章14節)。

「一つの籠には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた」。主から、「エレミヤよ、何が見えるか」と聞かれた、エレミヤは、「いちじくです。良い方のいちじくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くてたべられません」と答えた。「そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ」。それは、主自ら幻を説き明かされた言葉。「イスラエルの神、主」は言われるとは、アブラハム、イサク、ヤコブの神と同じく「契約の神」であること。「良いいちじく」とは、「カルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民」。「非常に悪くて食べられないいちじく」とは、「エルサレムの残りの者」。人の目には、捕囚とされた民に災いが臨んだと思われるが、災いが臨むのは、「残りの者」。捕囚とされた民は、バビロンで、主を畏れることを学び、祝福を与えられる。しかし、それは、捕囚とされた民が、品行方正で、敬虔であったからではなく、いずれも、かつては、同じ悪事(偶像礼拝と不品行)を繰り返した。残りの民のうち、カレアの子ヨハナンたちは「主の声に聞き従わず」(43章7節)、エジプトへ逃亡した。この時も、エレミヤは、「主はあなたたちに対して、『エジプトへ行ってはならない』と語られた。今日、わたしがこの警告を伝えたことを、しっかり心に留めなさい」(42章19節)と伝えたが、拒絶した民は、エジプトへ行く。主の言葉が臨んだエレミヤは、タフパンネスで、エジプトの神殿の滅びを告げた(43章)。

「彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す」「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える」「彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る」とは、主の憐れみによって、契約の民の帰還と回心の約束。新しい契約(31章)は、希望を約束し、イスラエルの家と結ぶ「主の契約」の実現。今日、契約の民は、主イエス・キリストの贖いを命に至る悔い改めに導かれる、神礼拝を準備された。

おわりに

主イエスは、「いちじくの木」や「ほかのすべての木」を見よ、と命じる。その葉が出始める時、夏の近づくことが分かるから。同様に「神の国が近づいている」と悟れ、と命じる。国々の歴史は、神の支配の中にある。「今こそ、神の家から裁きが始める時」(ペトロ一4章17節)。主の霊によって事の真偽を見分けたい。



(Mynote)

二〇二三年八月一三日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。

〈子供メッセージ〉

『子供と親のカテキズム 問四八』

「恵みを与える方法とは何ですか。」

「御言葉と礼典と祈祷です。イエス様は、特にこの三つの方法を用いて、聖霊に於いて私達と共に居て下さり、救いの祝福を豊かに与えて下さいます。」

〈公同礼拝〉

『エレミヤ書』(第二四章一〜一〇節)

『ルカによる福音書』(第二一章二九〜三三節)

この箇所は共に、無花果(いちじく)の例えの箇所である。神様は愛する一人子のイエス様を人の間に遣わされ、全ての人にその愛と恵みと救いを約束され、人はその神様の愛と恵みと救いに与る様に、常に信仰に於いて努めねば成らない。

『エレミヤ書』には先ず「主の宮の前に置かれて居る無花果を盛(も)った二つの籠(かご)」と在る事に注目する事。主の宮とは唯一のキリストの真実である神様が祝福して建てられた神殿の事で、この舞台設定が無ければ全く違った解釈を生む事になってしまう。

バビロン捕囚の時代の前後の事であり、そのバビロン捕囚には全ての人が捕囚された(捕らえられ連れて行かれた)訳ではない。「ユダの王エホヤキムの子エコニヤ及びユダの君達と工匠と鍛治をエルサレムからバビロンに移し」(『エレミヤ書』第二四章一節)と在り、神様が決められた特定の人達が連れて行かれたのであり、その場に残された者達も当然居た事になる。

この無花果の例えは、主自ら解き明かしを成した場面である。「主の神殿の前に置かれた無花果の籠」と言う場面から、神様がエレミヤに与えた幻・解き明かし・預言の始まりだった。神様が全ての人の信仰に於いて必要な事を、この時エレミヤに教えたのである。

教会の礼拝は、誰もが勝手気儘にして居るものではない。私はこう言う礼拝をしたいからそうする・私はこんなイエス様の姿と内実が好きだからそう言う信仰を持つ・私はこの讃美歌が好きだからこればかり歌う…と言っても、神様がその礼拝を認めなければ何にも成らない。唯の趣味であり、礼拝の本意から外れる。そしてその様な礼拝は本来の礼拝から見て不要なものとなり、又これと同様に、本来のクリスチャンの在り方から不要な信徒は取り除かれる事になるのが、人にも通用する道理と成ろう。でも神様は「良い無花果」も「悪い無花果」も同時に同様に主の宮の前に二つ並べて置き、片方だけを愛して救うのではなく、もう片方のその後も定められ、その無花果の例えを以て「全ての人を信仰に於いて救う事」を教えられて居る?

「神は、全ての人が救われて、真理を悟るに至る事を望んで居られる。神は唯一であり、神と人との間の仲保者も唯一人であって、それは人なるキリスト・イエスである。」(『テモテへの第一の手紙』第二章四〜五節)

この御言葉にも繋がるものになる。

良い無花果と悪い無花果の違いは一目で分かるものであり、もし本気で仕分けるつもりなら、その場で即座に分けられただろう。でも神様は敢えて「悪い無花果の方はもう捨てておいた」とはせず、二つ並べてエレミヤに見せ、良い無花果も悪い無花果も同じく視野に留め(エレミヤに留めさせ)、その後の信仰に依る全ての人の救いへと繋げて居る。

現代でも、普段の礼拝で形だけの決まり文句を唱え、単なる儀式に全てが留まるのであれば虚しい。そうでなく、聖書の時代から現代に至るまで変わらず「生ける誠の神様の御言葉が生きた形で全ての人に投げ掛けられる形」に成って居り、十戒も人の間と人の内に生きるものに在り、人の信仰に於ける救いを支配する。だから礼拝をする時も、真実の礼拝をする必要がある。

そしてイエス様は弟子達を始め全ての人に、「無花果の木を、また全ての木を見なさい。はや芽を出せば、あなた方はそれを見て、夏が既に近いと、自分で気付くのである。この様にあなた方も、これ等の事が起こるのを見たなら、神の国が近いのだと悟りなさい。よく聞いておきなさい。これ等の事が、悉く起こるまでは、この時代は滅びる事がない。天地は滅びるであろう。しかし私の言葉は決して滅びる事がない。」(『ルカによる福音書』第二一章二九〜三三節)と教えられ、自然の現実に既に人が見て居る事を土台にした上「神の国が近いのだと悟りなさい」と、常に信仰に目覚め、神様から与えられた生ける誠の御言葉に聴く事を教えた。既に全ての人は、神様が創られた自然を見て体験して居り、その事からこの御言葉の真実を知る契機を得て居り、誠の正しい信仰に生かされる為の土台を得て居る(この土台が神様から与えられて居る)。この事実を常に心に覚えて留め、神様が全ての人に求めて居られる正しい信仰に歩まされる事が、全ての人にとって誠の救いに成る。この事を覚えたい。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw&list=PL8KCKaKra_aYWbpUw2b-jccg2eIg696Vx&index=19


心のともしび「マザー・テレサにきく」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=F3eJxVAy9h0


「いつも主にあって喜びなさい 11.ピリピ人への手紙

THE DAILY with Arthur Hollands 2023/08/17

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=Yw5y_KhSk58


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)





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