ハート クロニクル ー英霊の導ー

三日月

P 失う男

 石畳を砕かんばかりの雨音が、男の靴音をかき消していた。

 

 雨は突然降り始め、徐々に威力を増していった。暦の上では秋を迎えたが、夏はまだまだ大陸に居座り、夕刻となった今でも街に漂う空気はどこか温い。


 男はすでに濡れネズミだった。汗で内側から、雨で外側から侵食され、衣服は肌に張り付いている。不快指数はこの上なく高かった。


 一向にやみそうもない雨に、男はたまらず近くの軒先に駆け込んだ。大粒の雨に打たれていると、それだけで惨めな気持ちになってしまう。ほっと息をついた。次いで口から零れ落ちたのは不平だ。


「なんなんだよ、もう。予報では雨が降るなんて言ってなかったじゃないか」


 外れた天気予報を非難しながら、雨に濡れた前髪を掻き揚げる。水滴がぱっと周囲に散った。


「資料が濡れたらどうしてくれるんだよ」


 愚痴をこぼした男は両腕で大事そうに抱えている茶色の書類鞄に目を落とした。自身の体を盾にして雨の脅威から守っていたため、あまり濡れていないようだ。ひとまず安心して、空に目を向ける。


「やみそうにないな……」


 雨脚は一向に衰える兆しがなく、分厚く空を覆う雲からは切れ間を見出すことも難しい。軒先の屋根に当たる雨音は、まるで無数の岩石でも叩きつけているかのようだった。


「いつになったら、帰れるかな」


 空へと願いを込めて呟く。早く家に帰りたかった。


「大変ですね」


 背後から女の声がした。男は驚きのあまり仰け反って後ずさり、再び雨の下に体をさらす羽目になる。


「うわっ、な、なに、何?」


「すみません。驚かせてしまいましたね」


 よくよく見てみると女がいた。駆け込んできたときは必死だったため、気付かなかったらしい。


 薄色のヴェールを被った髪の長い女だ。男が駆け込んだ軒先の隅で、自らの前に卓を置いて小さな椅子に腰かけている。薄暗い中でもぼうっと浮かび上がって見えるのは、ヴェールも髪も着ているローブのような衣装も全てが淡い色合いだからだ。こちらに声を掛けてきたというのに視線はまっすぐ前だけを見据えており、無表情なのも相まって愛想のなさを感じさせた。風貌と色合いからしてスピリチュアルな雰囲気を全身から醸し出しているが、決定的なのは卓の上に置かれた水晶玉だろう。女と向かい合う形で空いた椅子が一脚置いてある。


「えっと、あなたは?」


 男は滝のような雨の下から軒先へと体を戻した。大袈裟な驚き方をしてしまったことを恥ずかしくも感じていた。何より相手は無表情だ。決まりが悪い。


「もしかして、占いとかされる方ですか?」


 外見から推測し、男は問いかける。占い師と思われる女性はゆったりした動作で頷いて、初めてこちらを向いた。


「ここで会ったのも何かの縁です。占い、していかれませんか?」


「占い、かぁ」


 面倒臭いとも思えた。しかし雨がある程度やむまではここを動けそうもない。断って気詰まりするよりはいいかと考えた。


「じゃあ、お願いしようかな」


 男はかばんを大事に抱えたまま、空いた椅子に腰を下ろした。濡れた体で着席したことに、女が不快な顔をするかと思ったが、やはり表情は変わらなかった。


 卓上の水晶玉の隣にはカードが並べて置いてある。表面に様々な絵が描かれている。


「これは、タロットカードですか?運命の輪とか、あ、これは教皇ですね」


「タロットカード占いは高いですよ」


「え?」


「五〇〇〇イヴです」


「へぇ、五〇〇〇……、って、高っ!」


 男は椅子からわずかに腰を浮かせた。五〇〇〇イヴは一般的な労働者の一〇日分もの稼ぎに当たる。これはボッタクリじゃないか。


 今すぐこの場から逃げ出したい気分になった。そんな男の気持ちを察したのか、占い師は卓上のタロットカードと水晶玉を脇に避けた。


「今日は特別なカードを使った占いをしようと思います。こちらは無料ですので、安心を」


 どこからか取り出した無地のカードを卓上に並べ始める。


 男は椅子から腰を浮かせた姿勢のまま、疑いの眼差しを占い師に向けた。一方の占いは法外な値段で、もう一方は無料など胡散臭すぎる話だった。


「では、何を占いましょう」


「えっ、うーん、そうだな。じゃあ、仕事運とか」


 適当に答えてから、男はきちんと椅子に座り直した。ここまで来ておいて、やっぱりやめますとは言い出しづらい。


「仕事運ですね」


 占い師は目を閉じた。左の掌をカードの上にかざし、そのまま空気をかき混ぜるように回転させる。カードが白い光を放ち出す。手の回る速度はだんだんと速くなり、それに呼応するかのように誰も触れていないはずのカードが浮き上がった。円を描くようにふわふわと漂う。


 男は息を呑んで目の前の光景に見入っていた。これは手品だろうか。それとも超能力とかいう、得体のしれない力によるものなのだろうか。


 カードが目の高さまで浮かび上がると、占い師はかざしていた左手を卓上に下ろした。それでもカードは小さな竜巻に巻きこまれたように、宙を周り続けている。占い師が目を開いた。ふうっとカードに息を吹きかける。五枚のカードが卓上へ落ちる。残った一枚は宙で静止していた。白かったはずのその一枚は、いつの間にか鮮やかな緑色へと変貌を遂げている。


 占い師が宙に浮いた緑のカードを手に取った。そして、大きく長い息を吐き出したあと口を開く。


「あなたの仕事は順調ですね。特に今日は良い成果を手にしたでしょう」


 目の前で演じられた奇術にただただ感心していた男は、表情をこわばらせた。鞄を抱える腕に自然と力がこもる。


「ですがこれから、思いも寄らぬ事態が起こる暗示があります」


「思いも寄らない事態、ですか?なんだろう、怖いな」


 男は動揺を悟られないよう、苦くではあるが笑ってみせた。占い師はカードを見つめたままで言葉を続ける。


「大切なものを失う、とか」


「え」


 男の顔が引きつった。


「ですが、別れがあるから出逢いがあるように、それによって新たな何かを得られるでしょう。特に気をつけることはありません。自然のままに行動してください。そうすることが仕事の面だけでなく、あなたのこれからにとって良い方向に働くのかもしれませんから」


 淡々と占いの結果を告げた占い師は、男をまっすぐに見つめていた。男はさすがに動揺を隠せなかった。今日の仕事の成果を言い当てられたことだけではない。たかが占いとはいえ、大切なものを失うという不吉な予言に、一抹の恐怖を覚えずにはいられなかった。


「では、これを」


 占い師が何かを差し出してきた。いつの間にか緑に変色した不思議なカードだ。


「これが、なんです?」


「差し上げます。お守りになるでしょう」


 男は躊躇ためらいつつも差し出されたものを受け取った。大切なものを失うという結果をもたらしたこのカードが、お守りになってくれるとは到底思えない。むしろ忌まわしいくらいだ。


「ありがとうございます」


 だがとりあえず、礼を口にする。貰えるものは貰っておこう。あとで捨てればいいのだ。そう考え、男はカードを上着のポケットに収めた。


「ちょうど雨も止みましたね」


 占い師が男の肩越しに視線をやりながら言った。男が振り返ると、先ほどまでの豪雨は嘘のようにやみ、空は黄昏時の鮮やかな橙色を見せていた。


 男は椅子から立ち上がる。


「占い師さん、では、すみません。タダで占っていただいて」


「いえ、お気になさらず」


 占い師はやはり無表情だった。客商売をする者としてはいかがなものだろうか。無料の占いだったのだから、それも無理はないか。スマイルまで期待してしまうのは高望みか。


 男はぺこりと頭を下げるとその場を立ち去った。服はまだしっとりと濡れて気持ちが悪かったが、一刻も早くこの不気味な占い師から離れ、家に帰って安心したかった。




 男は砂浜を走っていた。こちらの心情などおかまいなしに、波音が長閑のどかに繰り返されている。


 追われていた。追っ手は確実にあちらの手の者だろう。狙いは今日の仕事の成果であるのに違いない。


 男は岩陰に身を隠した。気管が焼け付くようだった。呼吸を整えようと、深く息を吸うよう努める。身を隠しているのだから静かにせねばならないのに、激しくあえぐような音が口から次々漏れ出てくる。


 しばらくはその場に潜んでいた。


 追っ手の気配はなかった。けたのだろうか。そっと岩場の陰から顔を出す。もう夜も更けているので周囲は暗く、視界が悪い。


 誰もいない。男はほっと息をついた。


「誰もいない、とか思ってンだろ?」


 声がした。月光を背景にして、二人分のシルエットが岩の上に伸びている。横幅のある影と、対照的なひょろ長い影の二つ。


「甘いぜェ」


 その台詞と共に何かが振り下ろされてきた。咄嗟に対応しようとするも及ばず、瞬間、意識が途切れた。




 顔を撫でる穏やかな風を感じて男は目を覚ました。真っ白い天井が見えた。瞬きを二度三度と繰り返す。


 右側に首を捻ってみた。窓があった。白いカーテンが揺れている。窓の外には海が見える。砂浜を犬が走っている。平和な光景だ。


 頭がずきっと痛んだ。条件反射に手をやった。ざらざらした布のような感触がある。包帯だろうか。


 左側に首を捻ってみる。ドアがあった。風通しをよくするためか、開放されている。ドアも壁もみんな白い。頭に包帯を巻かれていることもあってか、病院を想起させる。雰囲気からして田舎の小さな診療所といったところか。


 しばらくして、白衣をまとった女性がやって来た。医師か、看護師か。そのときの男にとってはどちらでも構わなかった。


 女性は何かを喋っている。何かを尋ねていたのかもしれない。しかし男は聞いていなかった。それどころではなかった。


「あ、あの……」


 女性の言葉を遮るようにして、男は言葉を発する。声が掠れていたので軽く咳をした。


「僕、何も覚えてないみたいなんだけど……」


 こうして、男は大切なものを失った。

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