果物

 会社の用意したその部屋に一歩入ったとき、落ち着かなかった。

 一人暮らしなんて初めてだから。どこからでも部屋全体が見渡せるワンルームに暮らすのに慣れていないから。

 言い訳をしながら窓を閉めてカーテンをかけても、なんとなく視線が気になった。誰かがいる、というほど明確ではない。

 盗撮カメラでも仕掛けられているのか?

 電気を消してスマホのカメラで見る、というどれほど信憑性があるのか分からない方法を試してみたりした。

 意味はなかった。

 それでも、とくに困ったことはなく生活を送れた。


 若い女の一人暮らしなんて、警戒心が剝き出しになっても仕方ないよ。

 そう言ったのは会社の同期だ。彼女は大学時代から一人暮らしをしていて、最初こそなんだか恐ろしくてそわそわしていたそうだが、もう慣れたものだそうだ。


 私も、気にしないように努めた。

 寝るときだけは安心したくて、ベッドは壁際に置いて部屋との間仕切りがてらカーテンを引いた。淡い緑色のカーテンを、家具と家具の間に渡して大きなヘアクリップで留めている。

 一人でいるときは小さい音量で動画を流した。

 すると、やはり慣れなのか気にならなくなってくる。

 いまではあの違和感が、ほんとうになにかあったからなのか、それともただの心細さゆえだったのか、分からないでいる。

 

 それに前兆はなかった。

 一人暮らしを始めて二年ほど経ったとき、ふと気が付いたのだ。


 夜眠るために電気を消すと、部屋のどこかから音がする。


 はじめはビニールを緩く触るような音だと思った。

 通販で買った服を包んでいたビニール袋をぐちゃぐちゃにして放置していたから、それが自然に開いて音がするのだと思った。

 ビニールを捨てても、音は続いた。


 ちょうどそのころ、エアコンのドレンホースが詰まって、本体から水が落ちるようになっていた。暑くてどうしようもないので下にバケツを置いて稼働させていた。

 その音でもない。

 音が、水の落ちる音と重なって聞こえるのだ。

 水音とは別だ。

 掃除業者に来てもらってホースの詰まりを直してもらっても、音は続いた。


 音は、必ず夜にだけ聞こえた。と言ってもアパートから少し行けば大きい道路があるから、日中は車の音に掻き消されているだけかも知れなかった。

 なんにせよ聞き取れるのは夜だけ。しかも、寝ようとしてベッドに入り、カーテンを締めてリモコンで電灯を消したあとだ。

 目の見えない暗闇のなか、部屋の中から、小さく音がする。


 ぐじゃり。ぐじゃり。


 なんだろう。やはり水っぽい音なのだ。

 眠れないほどうるさいわけでもなかったので、毎晩聞きながら眠った。

 次第に、これはかじる音だと思うようになった。

 水気の多い果物かなにかに、かじりつく音だ。

 途端、閉じた瞼の裏に妄想のが思い浮かぶ。


 誰かが。

 

 誰かが、部屋の床に蹲り、手に掴んだなにかを食べている。私がカーテンを開けてみれはそいつの背中があり、首だけで振り返った目は真っ黒に塗り潰されていて、肩越しに見えたその手のなかには、果物などではなく――。

 妄想だ。

 けれど思い描くだけでもう、私はカーテンを開けられない。

 今も、その音は続いている。

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