第10話

「……あ」


 目を開けた私が見上げていたのは、心配そうにこちらを見ているヒューの顔だった。


「シンシア。リズウィンから……聞いたよ。彼の中に入って、危機を先んじて助けていたんだって?」


 ヒューはいつもの淡々とした口調で、そう言った。もう彼は既にディミトリから全部、聞いた後みたいだった。


「……ヒュー。どこまで聞いたの?」


「多分、シンシアが思っていることは全部聞いてるよ。良く当たる占いねえ……あの男は周囲からの情報源などないに等しいという事情も良くわかるが、同情してしまう程に世間知らずだし。それを利用する君も、どうかとは思う」


 私がディミトリが人と関わりがないための情弱っぷりを利用したことに、ヒューは眉を寄せて深い不快感を示した。


「あの……ごめんなさい。これには、ちゃんとした理由があって……」


「どんな理由……?」


 間をおかずに尋ねられて、私はどう言って良いものか悩んだ。けど、ヒューは私をもう逃してくれる気はなさそうだ。


「私……心臓が悪いんだけど、死に近いせいかディミトリの危機がわかるようになったの。それに、ヒューも見ていたように走ったりして発作を起こすと、彼の中に入っていて、二回彼を助けることが出来たわ」


 かなり無理でしかない言い訳だけど、ヒューだって普通ではありえない不可解なことが続いてることは理解しているはずだ。だから、これで納得して貰うしかない。


 ヒューは眉を寄せて、考え込んでいる様子だ。次に何を言われるのか、私は緊張して固唾を飲んだ。


「その、不可解な危機察知とリズウィンと同化する件は置いて置いて……なんで、心臓が悪いなら治療しないんだ。普通に学校に来ている場合じゃないだろう。もし、体の不調の原因がわかっているなら、早急に対処すべきだと思う」


 頭もよく効率的に物を考えられる彼らしい意見だと思う。けど、私は首を横に振った。この小説の中のシンシア・ラザルスは、もうすぐ死んでしまう予定だ。


「私の心臓の痛みは、原因不明なの……医者に罹っても異常はないと言われるだけで、お父様もお母様も手を尽くしてくれた。けど、原因はわからないままなの。だから、もし……死んでしまうのなら、残る人生を明るく楽しく生きたいの。近くに居るヒューにも変に、このことで私に気を使ったりして欲しくない」


 思わぬことを告白されたせいか、ヒューは悲しそうに顔を歪ませた。


「シンシア。なんてことだ。けど、どうか治療を諦めないでくれ。出来れば、君の体に負担がかかるリズウィンとの同化も止めて欲しい……お願いだ」


 悲しそうなヒューの表情を見れば、心が痛い。彼だって、友人は私一人しか居ないのに。


「……良いの。ヒュー。私の病気はもう仕方ないし、生きている間はずっと楽しく幸せでいたい!」


「シンシア……そんな事言わないでくれ。嫌だよ」


 あまり感情を見せないヒューは、私の前で初めて涙を見せた。


「ヒュー。泣かないで……ディミトリを助けることが出来て……無駄死にならないのが、救い。私の人生にも、意味があったと思えるもの」



◇◆◇



 私が何度か倒れた詳しい理由を知って以来、休み時間や放課後のような空き時間があれば、ヒューは何か難しそうで分厚い本を読むようになった。


 頭の良いヒューは学校の勉強については、こうして毎日授業に通う必要のないくらいに熟知しているはず。予習や復習だって、彼には要らないものだった。


 だから、そんな風に必死で何か調べ物をしている姿を、私は今まで見ることはなかった。


 多分、私のわずらっている胸の痛みをどうにかするために、彼は治療方法を調べてくれているんだと思うけど……有名で経験豊富な医師でも原因が分からなかったのだから、学生の彼に解決することはきっと無理だろう。


「……ヒュー? あの。帰らないの? 良かったら、一緒に帰らない?」


「あ。うん……ごめん。シンシア。今日は先に帰ってくれる?」


 ヒューは申し訳なさそうに眼鏡を上げながら答えたので、私は曖昧に笑って手を振った。


 前はこうして「一緒に帰ろう」と誘って断られることなんて、なかったのに。


 一瞬だけ、ヒューを待とうかなと思ったけれど、断られて居座るのもおかしい。彼の友人ではあるけど、距離の近いことが許される恋人でもないし。


 もうやってしまったものは仕方ないと、私は一人で校舎から寮への道を帰り始めた。


 夕暮れの光で赤く染まる白い校舎に、緑色が赤くなってしまった銀杏並木。


 私はそこを歩く人を見て、思わず声を上げてしまった。


「……あ」


 前からこちらに向かって歩いて来るのは、小説の完璧ヒーローエルヴィンだった。


 エルヴィン・シュレジエンは、ドミニオリア高等学校でも目立つ容姿や能力で特別な存在で知られていたけど、学年が違う私は彼とはあまり会うことはなかった。


 というか、同じ学年のディミトリが出る闘技会に彼も出ているんだけど、私の見たい人は一人だけだったので、エルヴィンは目に入らないままだった。


 エルヴィンの手には……小さな花束。私はそれで今この時が、小説の開幕シーンであることを知った。


 あの小さな花束は性格の良いエルヴィンが困っていた花壇の世話をしていた園芸係を手伝ったことで貰うんだけど、本日転校の手続きにやって来たアドラシアンにあれを渡すことになる。


 つまり、大事な主役二人の出会いのシーンとなるのだ。


 これから二人は、様々なエピソードを経て仲良くなり……恋仲になるんだけど……つまりそれって、ディミトリが失恋するってことで。


「……あ。あのっ!」


 私はエルヴィンとすれ違うその瞬間、どうしても我慢出来なくて彼へと声を掛けてしまった。


 エルヴィンは驚いて立ち止まり、不思議そうな表情を浮かべた。


「はい。あ。二年生? 僕に…… 何か用かな?」


「あ! あのっ!! シュレジエン先輩!! その花束、ください!!」


 私が勢いそのままに手を差し出すと、エルヴィンは何の抵抗もなくパッと私にくれた。


「……え? あ。良いよ。手伝いをして貰ったんだけど、僕の部屋に持って帰ってもコップに挿すくらいしか出来ないと思っていたんだ。はい。花の似合う可愛いお嬢さんにあげる」


 にこっと微笑んだ笑顔もヒーローっぽいっ……いかにもヒーローなくさい感じのセリフも、こういうのが好きな人には堪らないよね……けど、私は他の好きな人が居るので、はーイケメンの笑顔は最高だなと思う程度なんだけど。


「ありがとうございます」


 この状況に思わず照れてしまった私はついエルヴィンに花束を貰ってくださいと言ったものの、これからどうしようと焦ってしまった。


 聖女ヒロインのアドラシアンは多分、近くの道で迷っている。


 偶然通りがかった門まで案内したエルヴィンが彼女に花束をあげて、そのお礼をするからと二人の縁は繋がって……となるのだ。


「どうしたの……? 何かあった? あ。もしかして、僕のことが好きなの?」


 まさかねとエルヴィンにおどけた様子で聞かれて、この先のストーリー展開を思い出していた私は慌てた。


「えっ……いや! えっとですね。シュレジエン先輩は、女子にとって憧れの存在といいますか……」


「そうなの? その割には、全然モテないんだけど……おかしいね?」


 それは、学校中の女子同士が全員で牽制し合ってて、エルヴィン本人が好きな女の子が現れるまで不可侵条約が結ばれているからですぅ……という女子間の詳しい理由を、本人に言ってしまう訳にもいかない。


 入学したばかりのエルヴィンが小等部の頃あまりにモテすぎてしまって、数人の女子に押しつぶられかけたという事件があった。


 このままでは、彼を失うという重大事故につながりかねない。熾烈な競争に危機感を感じた女子同士が、全員でそうすることに決めたのだ。


 エルヴィンという、得難いアイドルは愛でるための存在。だから、彼の望み通りの学生生活を歩んでもらおうと。


「シュレジエン先輩に、お花もらえて嬉しいです! すごく、大事にします!」


「はいはい。大事にしてね。君は二年生だよね? ……名前は?」


 これはエルヴィンの希望だから、別に教えても良いと思う。


 何条かに詳しく定められたエルヴィン・シュレジエンの約束事を思い出しながら、私は微笑んだ。


「私は二年生のシンシア・ラザルスです。シュレジエン先輩のファンではあります。ですが、あなたに変な要求をしたり行動を縛るような恋人になりたいという訳ではないので、どうかご安心ください」


「……え。ごめん。なんか、自己紹介の時点で僕は振られた気がするんだけど……いや、まあ……良いか。ちょうど良いから、一緒に帰ろう」


「え? けど、シュレジエン先輩、さっき校舎へ向かってましたよね?」


 学校から帰るための私とすれ違うということは、そういうことだ。


「いや、花束にちょうど良い花瓶とかコップあったら持って帰ろうと思っていたんだ。僕の寮の部屋は何もないから。シンシアの部屋は、大丈夫?」


 自分であげたものの花瓶がないと困るだろうと思った様子のエルヴィンは、小説の通りに人格だって優れているみたい。


「あ。はい。メイドが一人居ますので、頼んでみます」


「もしかして……ラザルスって、ラザルス伯爵家か。そういえば、一人娘が居るって聞いてたね。それが、君だったのか」


 裕福な貴族の娘が完全寮制で自由の少ないドミニオリアに通っていることは珍しいので、私のことを知っていたようだ。


 とは言っても、彼だって王家の血を引く世が世なら王子様という、ヒーローっぽいヒーロー。


「はい。私です。ふふ……シュレジエン先輩にこうして認識されていると思うと、なんだか、変な気持ちになります」


 私たちは二人で楽しく喋りながら、校門への道を歩いた。小説の登場人物と話しているなんて……彼の深い事情を知っているので、なんだか変な気持ちにはなった。


「認識って何それ。名前と顔が一致したら、認識なの?」


「ふふ。先輩みたいな人に、顔を覚えてもらえるなんて、とても光栄で……」


 私はその時に信じられない光景を見て、目を疑った。


 道に迷ったらしいアドラシアンを親切に案内しているのは……悲劇のラスボスになるはずのディミトリだったから。

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