変身

@nanashinogonnbeidesu

変身

雪が降りしきる山荘。暖炉の火がパチパチと音を立て、部屋全体をほんのり温めていた。その暖炉のそばに腰掛け、本を読み、貴重な休暇を楽しんでいた。男の名は、恭一。彼はこの山荘に休暇に来たサラリーマンであり、若くして一流企業の課長の座につき順風満帆な人生を送っていた。結婚を前提に同棲している女性もおり、自分の生活に彼はとても満足していた。しかし、その華やかな表の顔とは裏腹に、彼の心には深い闇が潜んでいたのだろうか。恭一は山荘を訪れていた老人が莫大な富を持つ投資家であり、彼が山荘に持ってきていた宝飾品だけで数億円の価値があると知る。その話を聞いた時、彼はただ感嘆しただけであった。そのはずであった。その時は。その晩トイレの帰りに富豪の部屋が空いているのを見つけた。あたりには誰もいない。老人が振り向いて柔和な笑みを浮かべた。さしずめ自分が話し相手になってくれるとでも思ったのだろうか。その次の記憶では彼の目の前で富豪は倒れており、自分のズボンのポケットの中には確かな重みがあった。鼓動が早くなり、息が苦しくなった。しばらく恭一は現場にたたずみ、自分の犯したであろうことに茫然自失としていた。しかしその傍らで、彼の脳のやけに冷静な部分が、証拠を消さねばと言っていた。彼は、呆然としたまま証拠を消し、その部屋をあとにした。朝寝て起きると記憶はより曖昧になり、夢だったのか自分がやったのかはっきりしない。しかし、状況から考えて魔が差して自分が老人を殺したのは間違いない。「どうしてこんなことを…」彼は何度も自問自答を繰り返したが、答えは見つからなかった。その一方でもう一人の自分はあれは夢だったんだといっていた。彼はそのまま逃げるように山荘をあとにした。警察からなにか聞かれることもなかった。また、ニュースはすべてシャットアウトした。あの出来事が事実であると認めたくなかったのだろう。しばらく彼は怯えていたし罪の意識に苛まれていた。しかし自己防衛本能も働いたのだろう日々の忙しさに飲まれるうちに、次第に彼はそのような出来事を忘れてしまった。それから10年弱が過ぎた。彼は結婚し念願の第一子も生まれ充実した生活を送っていた。その折。彼は押入れの奥に古いリュックサックを見つける。「なんだろう」と

思い中を開ける。リュックの中は輝いていた。太陽の近くまで飛んでいって間近で見たらこんなんだろうと緩慢な思考で思う。ある種危険なまでに輝いていた。視界が回転する。小さい頃に食べたマーブル模様のアイスクリームのように。無重力空間に放り出されたような感じがした。次の瞬間彼は自室で寝ていた。体が鉛のように重かった。彼は眠気に身を任せた。夢の中で何かを換金したような気がした。次の日から彼はまたいつもの生活を送る。

しばらくして彼は銀行に行って通帳を開いた。自分の知らない多額の入金がある。必死に思い出そうとする。なにかとても重大なことを思い出しかけたところで頭に鈍痛が走る。大丈夫ですか、と聞かれる。どうやら倒れてしまっていたようだ。救急車を断りなんとか用事を済ませて家に帰る。それからまた数ヶ月後、銀行に行き通帳を開いたときにまたも鈍痛に襲われる。しかし今度はそのまま思考を続ける。頭の中の回路がつながった感覚。彼は山荘での出来事を思い出す。自分が自分でなかったような、強い衝撃を覚える。会社を休んで家でじっくりその事実を咀嚼したことで彼は強い罪の意識に苛まれる。しかしその一方であのスリル感をもう一度味わいたいという思いも感じた。日に日にその猛烈な衝動は大きくなっていく。ある日、夜中の電車で忘れ物と見られる財布を発見する。彼は衝動に我を忘れそっと自分の鞄にいれた。次の瞬間には彼の罪の意識が舞い戻ってきた。バレるのではないかという恐怖とともに家に帰る。しかし誰にも咎められることはなかった。自分の中の誰かが言う。ほらバレないじゃないか、と。いよいよ、衝動が大きく、大きく肥大していく。ある日彼は郵便局に行った。窓口には力のなさそうな女性局員。他に客数人。バッグには災害用にと入れていたサバイバルナイフがある。彼の中であの衝動が脈打つ。自分が自分でないような感覚。あの高揚感を感じたい。金は足りているはずなのに。もっとほしい。なぜ我慢する必要がある?今までも捕まらなかったではないか。自分の中の誰かが言う。たしかにそれもそうだ。捕まらなければよいのだ。このスリル感を楽しもう。この場の支配者は俺だ。誰も俺に逆らえない。俺は言う。金を出せ。女性局員の怯えた表情。たまらない。やめられない。近くにいた客を捕まえて喉元にナイフを突きつける。恭一の中の「彼」だった部分はぼんやりと考える。小学生の頃クラスで浮いていた男子をからかっているところを先生に見つかって怒られたことを思い出す。自分はなんていう暴言を吐いたのだろうと思った。深く反省した。しかし、からかっていた間はそんな事は全く考えなかった。周りが同調してくれる気持ちよさしか感じなかった。自分がなにか別のものに支配されているように。「金はまだなのか。」苛立ちに任せて。人質の女性の首をナイフでそーーっとなぞる。ミミズのように真っ赤できれいな血が滲んでくる。口を半開きにし、今にも悲鳴を上げそうな顔でナイフと俺の顔を交互に見る。そういえば。高校生の時に万引きしたこともあった。文房具屋に来たときに、周りに誰もいなかった。盗んでも気づかれないのではないかと思った。次の瞬間には消しゴムをリュックに入れていた。100円やそこらで買える消しゴムを、だ。家に帰って罪の意識に苛まれた。なぜそのようなことをしたのだろう、と。そんなもの盗んでも大した特にならない。リスクを考えれば差し引きマイナスである。なのになぜそのようなことをしてしまったのか。思い返しても何故自分がそのようなことをしたのかわからない。しかしどちらの一件も不思議と数日後にはすっかり頭から抜けていた。忘れることによって自分を守っていたのだろうと今は思う。パトカーのサイレンの音が聞こえてくる。包囲したから人質を開放してほしいといっている。「くそ、こっちには人質がいるんだよ」どこか別の世界で俺が叫ぶ。人間というものはみな多面性を持っている。そしてそれは会う人によって、場所によって、感情によって入れ替わる。ある種の防衛装置であり、処世術でもある。それでは自分とは何なのだろう。どれが本当の自分なのだろうか。どの自分が本当なのだろうか。本当の自分なんてものは果たして存在するのだろうか。自分のアイデンティティというものが崩れていく。いや、そのようなものはもとからなかったのかもしれない。「あれ」は本当に自分なのだろうか。あんなことをしてもなんの意味もないのに。段々と思考することさえ面倒になってくる。まあ自分のようなやつをモラトリアム人間というのだろう。自分について考えることもなく。トントン拍子にこの年まで来てしまった。滑稽だなと思う。もう何も考えたくない。拘束していた女性の首にナイフを突き立てる。鮮血がほとばしる。だが思ったように着れない。安物のナイフだからか、と思う。まあ良い。腹いせに隣の人質に襲いかかる。楽しい。最高の高揚感だ。そうしているうちに手の届く範囲に人質がいなくなる。警官が拳銃を向けてくる。「手を上げろ」誰がそんなことを聞くのか。警官に向かっていく。「ッバン」。衝撃。床が迫ってくる。お腹のあたりが熱い。暗転。俺は思う。もっと「切りたい。」と。

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