第75話 異世界のパン


 雑貨店『紫苑シオン』の休日は闇の日だ。六日に一度の大事なお休みである。


 休日の従業員たちは各自で食事を用意しなければならない。三食おやつを提供するのは勤務日だけの契約なので。


 正式に契約して使い魔になった黒猫ナイトとルーファスに関しては、あるじであるリリが食事を用意してあげている。


「ズルいですぅ! 僕もリリさまのご飯が食べたい……」


 何度か自炊を頑張った結果、使い魔の中でいちばん食いしん坊のセオがを上げた。

 いつもは凛々しく立ち上がった三角の耳をぺたりと寝かせて、切なそうに訴えてくる。

 あんまりにも可哀想だったので、日本で仕入れてきた調味料やソース類を『紫苑シオン』のキッチンに置いてあげたのだが。


「肉料理はどうにか美味しく調理ができるようになったんですけど、パンが不味いです……」


 またしても泣きつかれてしまった。

 その訴えにはリリも激しく同意していたので、どうしようかと思案する。


「あの硬くてパサパサしたパンはたしかに、どうにかしてほしいものですよね……」

「そんなに不味いのかい?」


 魔法のトランクの家のダイニングで、優雅にお茶を飲んでいたルチアが不思議そうに首を傾げている。

 多忙なはずの辺境伯だが、闇の日になるとふいに遊びに来ることが多い。気軽に訪ねてきて、日本製の菓子と紅茶を堪能して帰るのだ。

 ルーファスなどは面白くなさそうに出迎えるが、リリは大歓迎だ。

 男装の麗人は話し上手で聞き上手なため、とても楽しい時間を過ごせるし、何より彼女の世間話は雑貨店店主としてのリリにとっては耳寄りな情報が満載なのだ。

 

「にほんのパンを食べたら、もう、あんなのは食べたくなくなりますよ!」

「ほう。異世界のパンはそんなに美味しいのかい?」

「好みはあると思いますが、私にはこちらの世界のパンは硬くて歯が立ちません……」

「リリィの口は小さいからな」


 普通だと思う。

 快活に笑うルーファスの口は大きくて、立派な歯が見えた。犬歯のような尖った歯もあるようだ。あれなら、硬いパンも平気で噛み砕けることだろう。


「ルチアさま、日本のパンを食べてみます?」

「いいのかい? では、お言葉に甘えて」


 リリは少し考えて、ストレージバングルからバターロールとクロワッサンを取り出した。

 ジャムやバターはなし。パンそのままの食感と味を楽しんでもらうためだ。

 皿に盛り付けて提供すると、ルチアはさっそくバターロールに手を伸ばした。

 指先でつまんだ感触に目を見開いて驚いている。


「指先で潰れるほどにやわらかなパンだね。……うん、とても美味しい。主食のパンというよりは菓子に近いね」

「クロワッサンもどうぞ」

「ありがとう。へぇ、こっちはパイみたいだね。うん、さくっとした食感が素晴らしい。ほんのり甘くて、バターの味が濃厚だ。……これがパン?」


 貴族であるルチアにとっても、日本のパンは物珍しいようだ。


(なんとなく、貴族はやわらかな白パンを食べているイメージだったけれど、違うみたいですね)


「ああ……やっぱりバターロールは美味しいですぅ。クロワッサンのさくさくの食感、最高っ! こんなに美味しいパンに慣らされた身には、この石みたいなパンは無理です!」


 ちゃっかりテーブルに同席して、バターロールやクロワッサンを味わうセオがバゲットに似た堅パンをテーブルに放り出す。

 ごとん、と硬い音が響く。

 たしかにこれは石に近い──そう思うのも納得の重さと硬さがあるパンだ。


(そもそも、なぜこんなに硬いのでしょう? 日本のパン屋さんで買うフランスパンやバゲットはハードパンだけど、ちゃんと噛み切れるのに……)


 不思議に思い、異世界のパンを鑑定して納得した。

 まず、パンの原材料である小麦の種類がまったく違うのだ。

 フランスでは、気候や土壌の影響でグルテンの少ない小麦粉が主流なため、ふっくらとしたパンが焼きにくい。

 この異世界パンの小麦粉はフランスのものより更にグルテンの量が少なかったのだ。


「材料も小麦粉と水、塩だけ。バターや砂糖を加えたら、もう少しやわらかく食べやすいパンになるのに……」


 ぽつり、とつぶやくとセオがぱっと顔を上げた。期待に瞳が輝いている。


「リリさま、リリさま! もしかして、こっちのパンも美味しく焼き上げることができるんですか?」

「えっ……ああ、そうですね。材料とレシピがあれば、おそらくは」


 小麦粉を替えるのがいちばんの近道だろうが、それだと地元のパン屋が成り立たないだろう。


「んー……この土地の小麦粉をそのまま使うなら、ドライイーストがあれば大丈夫でしょうか?」

「ドライイースト? それは何なのだろう、レディリリィ」


 ルチアも興味があるらしく、身を乗り出して聞いてくる。


「パンを膨らませてくれる、魔法の粉です」

「ほう。それがあれば、ここにある異世界のパンも我が領地で食べられるようになると?」

「どうでしょうか……小麦粉の種類が違うので、レシピの研究が必要かもしれませんが」

「だが、試してみる価値はあるな。レディリリィ、ぜひ協力してほしいのだが」

「協力?」

「その魔法の粉とレシピを売ってくれないか?」


 唐突な提案に、リリは翡翠色の瞳をきょとんと見開いてしまった。



◆◇◆



 そんなやりとりがあって、半月後。

 雑貨店『紫苑シオン』経由でドライイーストを購入して焼き上げた、ふわふわパンのお店がジェイドの街でオープンした。

 今のところ、売るパンの種類は二種類と少ないが、硬いパンと違って、やわらかくて美味しいと大評判で連日大行列ができている。


 さっそく店に並んでパンを買ってきてくれたセオはほくほく顔だ。

 販売しているのは食パンとコッペパン。

 リリはさっそく食パンを薄く切り出してサンドイッチを作る。その隣ではセオがコッペパンに切れ目を入れて、オーク肉のソーセージを挟んでホットドッグを作っていた。

 出来上がった二種類のパンを食べてみたが、どちらもとても美味しい。

 日本のパンよりわずかに歯応えがあるけれど、充分にやわらかくて食べやすかった。


「魔素入りのパン、美味しいです」


 味だけでいうと、日本のパンの方がレベルは高いが、異世界パンは魔素がたっぷり込められているので、リリにとってはこちらの方がご馳走に感じる。


「ルチアさまの申し出を受けて良かったです。子供たちも笑顔を取り戻してくれたし……」


 辺境伯であるルチアは、リリのレシピと日本産の『魔法の粉』を購入して、孤児院の救済に充てたのだ。


 辺境の街、ジェイドはダンジョンのおかげで経済が回っている。冒険者は一攫千金を狙って、この辺境の地を目指してきた。

 だが、すべての冒険者が成功するとは限らない。

 家族で移住してきたはいいが、大黒柱の父親がダンジョンで命を落とし、子供が孤児になることも多いのだ。

 孤児院は辺境伯からの支援もあったが、赤字運営に悩んでいた。

 そこで、ルチアはリリに食べさせてもらったパンを孤児院で作って売ることを考えたのだ。


 孤児院の子供たちは十五歳になると成人とみなされ、独り立ちを迫られる。

 親と同じように冒険者になるにしても、ある程度の資金は必要になる。


 十歳以上の子供たちにパン作りのノウハウを教え、ドライイーストを定価でおろすことを決めたのはリリだ。

 異世界でそれなりに稼ぐようになったので、慈善活動としてレシピは無料で提供した。

 

 パン焼きの窯は、セオが得意の土魔法で作り、燃料代わりの魔石はルーファスが譲ってくれた。

 特殊個体のサラマンダーの魔石は火属性。パン焼きにはぴったりだ。

 パン作りは孤児院の子供たちが頑張り、店で販売を担うのは寡婦。冒険者の夫を亡くした女性たちを優先的に雇っている。


 辺境伯公認のパン屋は、今までの堅パンよりも高価なパンを販売しているが、物珍しさもあり、飛ぶように売れた。


(ドライイーストを安く譲る対価として、我が家におろすパンを優先してもらえたのだから、とてもお得な取引です)


 そのうち、バターロールとクロワッサンのレシピも教えよう。

 パンの売り上げは孤児院の運営資金と、子供たちが独り立ちするための支度金になる。


『パンがこんなに美味しくなるなんて、魔法の粉はすごいね』


 小さく切り分けたサンドイッチを噛み締めながら、黒猫ナイトが感心したように言う。

 ルーファスはホットドッグを三口で食べてしまった。


「うまい!」

「リリさまのおかげで、休日の食事が豪華になりました」


 すっかり美食家グルメに仕上がったセオも笑顔でサンドイッチを味わっている。


 美味しいパンは、人々を笑顔にするのだと、リリはあらためて実感した。



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